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ー 盛夏の候 ⑥
イリアスは自室に戻ると、ソファに座り、項垂れた。眉根を寄せて、奥歯を噛んだ。
自分を拒絶したカイトの表情が脳裏に焼き付いていた。心底嫌そうに顔を顰 められた。
イリアスの胸がずきりと痛む。キスを拒まれたのは初めてだった。
カイトと想いを交わしたが、彼は本当に自分のことが好きなのか、わからなくなるときがあった。
カイトは元々、女が好きだ。面食いで、街を歩いていても美女がいると目で追ったりしている。イリアスに女が近づいてきても、けろりとしていた。
肌を合わせることに抵抗はないようだったが、彼の性格を考えると、踏み込めずにいた。
この世界において、カイトは弱い。庇護がなければ魔獣に襲われ、長くは生きられない。
自分のことをお荷物のように負い目を感じていて、優しくされれば懸命に返そうとする。その健気さに魅かれた。
先に手を出したのは自分だ。
彼は応えてくれたが、イリアスに拾われ、命を救われた恩義を返そうとしているだけかもしれない。
快感を与えれば、自分ばかりだから、と体を開こうとした。カイトの本当の気持ちがどこにあるのかわかるまでは、一線は越えられないと思った。
抱いてしまったら、歯止めが利かなくなってしまう。ゆっくり気持ちを育んでいくのもいいと思っていた。
まさか、兄がやって来るとは思わなかった。
リエンヌのようなこの街の者であれば、いくらでも遠ざけることはできる。だが兄は無理だ。イリアスは見ていることしかできない。
兄から指南を受けた結界は、強固な形を成すことができた。手紙だけでは難しかっただろう。直接の指南は有難かったが、カイトがたった一日で、兄と打ち解けるとは思わなかった。
カイトの心が兄に落ちるのは時間の問題だと思った。だが、カイトの想いは報われない。兄はディーテの元へ帰る。そのあとは? 自分を通して、兄を想ったりするのだろうか。
イリアスが歯噛みしていると、ふと部屋の外に人の気配を感じた。
カイトかもしれない。
イリアスは入室の合図を待たずに扉を開けた。しかし、そこにいたのはグラスを持った兄だった。
今、一番見たくない顔だ。
いきなり扉が開いたことに少々驚いたように言った。
「相変わらず、勘がいいな」
「……なんでしょうか」
「入るぞ」
イリアスを押しのけて、兄は部屋に入り、ソファに深々と座った。仕方がないので、向かいのソファに腰を落ち着けようとすると、兄が非難がましい目を向けた。
「まさかと思うが、その状態でカイトに会っていないだろうな」
イリアスは眉を寄せた。帰宅してすぐにカイトの部屋に行った。早く顔を見たかったからだ。答えずにいると、ユリウスは厳しい声で言った。
「女の匂いが移っていることに気づかなかったのか」
「!」
驚いて服を嗅いでみたが、わからなかった。長時間、香水をつけた女たちと踊っていたせいか、鼻が利かなくなっていた。
「不愉快だ。さっさと風呂に入ってこい」
兄は仏頂面で持ち込んだグラスを煽った。
イリアスは自らの失態に臍 を噛みながら、湯殿に向かった。
***
香りを流して部屋に戻ると、兄は呆れた顔をしていた。
「カイトに舞踏会のことは言ってなかったようだな」
「…………」
「余計な心配をさせたくないという気持ちはわかるが、後で知って傷つくのはカイトだぞ」
返す言葉がなかった。カイトに突き飛ばされたのは、移り香のせいだったとしたら、誤解されたかもしれない。
イリアスはソファに腰を下ろした。兄がグラスに酒を注ぐ。湯殿に行っている間に酒瓶を持ち込んだようだ。目の前にグラスを置かれたので、口にしていると、
「おまえ、なんでカイトを抱いてやらないんだ」
「‼」
危うく吹き出しそうになった。慌ててグラスを置き、兄を凝視した。
「カイトが言ったわけじゃないぞ。王都を出るとき、ディーテからこれを預かってな」
兄は細長い木箱を差し出した。中には小瓶が入っていた。瓶の蓋を開けてみると、香油の香りがした。用途がわかり、イリアスは頭を抱えたくなった。
「カイトに渡せと言われていたんだが……こんな物をカイトに渡したら、私がおまえに恨まれそうだったんでな」
ユリウスはクックッと笑った。
「……お気遣い、ありがとうございます」
イリアスは辛うじて言葉を発した。
兄はカイトがディーテに手紙を出していたことを教えてくれた。内容はわからなかったが、ディーテの意味深な物言いや、渡された物で察しがついたらしい。
「大切にしたいのだろうが、子供じゃないんだ。あの子はおまえのことを真剣に考えているよ。信じてやれ」
「……はい」
兄は目元を緩めると、グラスを傾けた。
イリアスはこれ以上、カイトの気持ちを詮索すまいと決めた。兄は力になってくれている。嫉妬するのも馬鹿らしくなってきたし、カイトと向き合うことの方が大切だった。
イリアスも酒を飲むと、再び木箱が目に入った。
「ところでこれのことですが、何か入ってますね?」
「知らんよ」
兄はすっとぼけたが、絶対知っているだろうと思った。
疑わし気に見つめていると、観念したように口の片端を上げた。
「変に乱れたりはせんから、安心しろ」
やはり知っていた。イリアスがどうしたもんかと木箱を眺めていると、兄が言った。
「痛みを和らげる程度の物だ。ディーテが試しているから、大丈夫だ」
試したのはあなたではないのか、と突っ込みたかったが、やめておく。
兄は機嫌良く、ディーテの近況を語りだした。
次に会えるのはいつになるかわからない。兄との会話を楽しもうとイリアスは耳を傾けた。
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