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ー 盛夏の候 ⑦

翌朝、海人は消化しきれない気持ちを抱えて、朝食を食べに食事の間に入った。伯爵の席に食器はなかった。まだ帰って来ていないようだ。 イリアスは隊服を着ている。今日は駐屯地に行くようだ。海人は無言で席に着いた。 「おはよう」   イリアスが何事もなかったかのように挨拶してきたので、ぼそりと返した。 昨夜はよく眠れなかった。イリアスの服に付いた香水のことが気になって、嫌なことばかりが頭をよぎった。   ユリウスが遅れて入ってくると、食事が始まる。睡眠不足のせいか、食欲がなかった。パンを小さく千切り、もそもそと食べた。スープやキノコを少し口にし、フォークとナイフを置いた。 「カイト」   食べ終わったイリアスが声を掛けた。いつもならこのまま駐屯地に共に行くが、海人は顔を上げずに言った。 「今日はユリウスさんと一緒にいる」   気持ちの整理がつかないまま、そばにいたくなかった。何か言われるかと思ったが、イリアスは気にも留めなかった。 「兄上、よろしいですか」 「かまわんよ。昼は外で食べたい。どこか教えてくれ」 「それなら『シルフレイン』がいいでしょう。店の場所はカイトが知っています。グレン、手配しておいてくれ」   淡々と話しが進み、イリアスは食卓を後にした。 海人は下を向いた。子供みたいな我がままを言った自分に嫌気が差した。 「カイト。昼まで寝てくるといい」   ユリウスはまるですべてを知っているかのように優しく声をかけてくれた。海人は小さく頷き、部屋に戻ってひと眠りすることにした。   太陽が中天に差し掛かった頃、グレンに起こされた。 ユリウスは海人が以前、使っていた部屋に泊まっている。顔を出して、休ませてくれた礼を言うと「私も寝不足だったからな、ちょうどよかった」と笑った。   昼食に選んだ店『シルフレイン』は貴族街にある高級レストランだ。貴族だけではなく、富豪の商人といった上流階級が利用する。 こういう店は肩が凝るので、海人はあまり好きではなかったが、料理はとても美味しかったことを覚えている。 雑な盛り付けの多い庶民の店とは違い、洗練されている店だった。海人が緊張しながら店に行くと、給仕係が「サラディール様ですね」とにこやかに応対された。 何も言っていないのに、すごいなと思う。 店内は人がまばらにいた。皆、静かに食事を楽しんでいる。   海人たちは窓際の見晴らしの良い席に案内された。メニューの説明はユリウスが聞いてくれる。海人がこういう店に慣れていないのは百も承知だ。給仕係が下がると、ユリウスが切り出した。 「夕べは喧嘩でもしたか」   海人は言葉に詰まった。どう言おうかと視線を泳がせていると、 「あれは弟が悪い」とずばりと言った。 「私もイリアスの部屋に行ったからな。わかっているよ」   移り香のことだ。 給仕係がやってきて、ユリウスのグラスに食前酒を注いだ。海人は水を頼む。給仕係が去るのを待って、ユリウスは続けた。 「だが、カイトが心配するようなことはない。昨日は舞踏会だったからな」 「舞踏会?」   ユリウスは食前酒をひとくち飲んだ。 「貴族の間ではよくあることだ。何人もの女と踊るから、匂いも移る。別に誰かと何かあったわけではない」   海人は小さく口を開けた。 「そうだったんだ……」   呟くように言うと、ユリウスが苦笑した。 「独身貴族の集まりだからな。若い女ばかりだし、言いづらかったんだろう。ただ、男も同世代が多く参加する。交流を深める場にもなるのだ。許してやってくれ」   海人は視線を落とした。 「おれ、謝らなきゃ」   ユリウスが何かあったのか訊いてきたので、突き飛ばしたことを言った。 「謝る必要はない。言ったろう、イリアスが悪いと」 「でも……」 「カイトに嫌われたくなくて、黙っていた結果、墓穴を掘ったんだ。自業自得だ」   運ばれてきた肉料理を優雅に切りながら、容赦なく言う。海人も音を立てないように、そろそろと肉にナイフを入れた。   ユリウスが言った言葉を反芻(はんすう)する。 (おれに、嫌われたくなくて……)   そうかと思ったら、海人は少し元気が出てきた。同時に食欲も出てきた。自然と笑みが浮かび、顔を上げたら、柔らかな瞳があった。   この人も、本当に優しい。だからこそ不思議に思うのだ。 「ユリウスさんは、なんでいつも佐井賀さんを怒らすんですか」 「!」   ユリウスが詰まった。動揺しているのがわかる。 「イリアスも喧嘩はいつものことだって言ってたし」 「待て。ディーテは私のことをなんと言っているんだ」   ユリウスが思いの外、真剣な顔をしたので、まずかったかなと思った。 「あ、えっと……大したことじゃないです……」 「こら。気になるじゃないか」   ユリウスが軽く身を乗り出したとき、別の声が割って入った。 「サラディール様?」   少し離れたところから、こちらを窺うように少女が立っていた。その顔に見覚えがあった。 「あ……」   海人が声を上げると、花咲くような笑みを浮かべ、近寄ってきた。 「このようなところで、お会いできるなんて」   彼女はルヴェン家の令嬢だ。確か、イリアスは彼女のことをリエンヌと呼んでいた。 駐屯地に来ていた、見惚れるような美少女である。 海人が口を開こうとしたとき、ユリウスが先手を取った。 「どちらの御令嬢かな」   にっこりしていたが、目が笑っていなかった。彼女は胸に手をあてた。 「わたくしは、リエンヌ=ルヴェンと申します。サラディール様……ではありません?」 「関係者ではあるが、サラディールではない」   ユリウスは名乗る気がないようだった。リエンヌもそれ以上は聞かなかった。彼女は海人の方を向いた。 「あの、サラディール様が昨日仰っていたことをお伺いしてもよろしいでしょうか」   海人はどきりとした。 「昨日って……舞踏会でってことですか?」 「はい」   リエンヌは可憐な顔を曇らせていた。 駐屯地でイリアスと並んでいたときは何とも思わなかったが、彼女がイリアスに手を取られて踊ったのかと思うと、胸がざわついた。   海人はちらとユリウスを見ると、訊け、と目で促された。 「なんでしょうか」   海人の声が上擦った。リエンヌは形の良い眉を寄せて言った。 「あなた様はサラディール様のもの、というのは、どういう意味でしょうか」 「え⁉」   思わず大きな声が出て、周囲が顔を上げた。海人がすみません、と頭を下げると客たちは食事に戻った。   リエンヌは可愛らしく両手を胸の前で握っていた。その顔は真剣である。海人も混乱していると、ユリウスが口を開いた。 「正確に言ってくれるか。イリアスは君になんと言った?」   彼女は言いたくなさそうだったが、ユリウスの威圧に負けたのか、呟くように声にした。   『彼は私のものだ。あなたには渡さない』     瞬間、海人はゆでだこのように耳まで真っ赤になった。ユリウスは肩を震わせている。リエンヌだけが困った顔をしていた。 「あの……そ、それは……」   海人がしどろもどろしていると、ユリウスが助け舟を出してくれた。 「言葉の通りだ。意味がわからないようなら、まだ子供だな」   リエンヌはカッと頬を染めた。子供扱いされたことを恥じたのか、意味がわかったのか、どちらなのかは海人にはわからなかった。 「リエンヌ嬢」   愉快そうに肩を揺らしていたユリウスが不意に真顔になった。 「そこの彼はノルマンテ大公家に連なる者だ。これ以上立ち入るな。深入りするなら、大公家を敵に回すと思え」   リエンヌは口元に手をやり、青ざめた。サッとお辞儀をすると、店を出ていく。彼女の連れと思われる男が慌てて追いかけていった。   海人はユリウスを見た。 「なんか、脅してませんでした?」 「あれくらい言わんと付きまとわれるぞ。カイトが彼女とどうにかなりたいんなら、余計な世話だったがな」   ユリウスが意地悪く言ったので、海人は頬を掻きながら礼を言った。 「それにしても、大公家ってすごいんですね。名前を聞くと、みんな固まってしまう」   感心しながら言うと、ユリウスは皮肉そうに笑った。 「面倒なことも多いが、邪魔な貴族を黙らせるには役に立つ。使えるものは使わんとな」   海人は目を見張り、くすりと笑った。王宮に行ったとき、イリアスも大公家の名を使って似たようなことをしていた。海人がこっそり笑っていると、ユリウスが、それよりも、と言った。   海人が顔を上げると、神妙な顔をして言った。 「ディーテは私のことをなんて言っていたんだ」   海人は吹き出した。この人も自分の恋人のことになると、うまく立ち回れないらしい。   今回はユリウスにたくさん助けてもらった。佐井賀には悪いが、手紙の内容を少しだけ教えてあげることにした。

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