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カナタは最近知ったことだが、ピアノは元々、マスターの趣味だったらしい。
そこに、無趣味だったツカサが興味を持ったので、マスターは嬉々として教えてみた。
結果、今では予想外の形で経営に貢献しているのだから、皮肉なものだ。
ぼんやりと、カナタはピアノと向き合うツカサへ目を向ける。
そのまま思わず、無意識のうちに呟いてしまう。
「キレイな音……」
繊細な音色に、カナタは思わず仕事中だということを忘れかける。
しなやかに動く指が、柔らかな旋律を奏でた。
鍵盤へ真っ直ぐと注がれる視線は、どことなく優しく見える。
その目は、カナタへ注がれるものとよく似ていた。
……ツカサはあの日以来、カナタを脅すようなことはしていない。
ひたすらにカナタを『可愛い』と言い、甘やかしてくるのだ。
だからこそ、カナタは忘れかけてしまう。
──自分は今、脅されたうえでツカサの恋人なのだ。……という、この現状を。
実際は、ただの同居人。なぜならこの関係に、カナタの気持ちはないのだ。
……そこでふと、カナタはこの一ヵ月を振り返った。
恋人らしいことと言っても、カナタはツカサとキスや、それ以上のことをしているだけ。
あの日から一回も、恋人らしい【言葉】は要求されていない。
そんな取り留めのないことを考えていると、不意に。
「カナタ、どうしたんじゃ? 料理の準備は終わったぞい?」
「わっ! ご、ごめんなさい……っ!」
背後から、マスターに声をかけられた。
慌てて振り返った後、カナタはマスターから料理を受け取る。
「なんじゃいなんじゃい。ツカサもツカサなら、カナタもカナタじゃな」
「オレも、オレ? えっと、それはどういう意味ですか?」
「先ず、ツカサじゃ。ツカサの奴はのう、お主のことを執念深いほど可愛がっておるんじゃよ。まったく、奴自身は『溺愛』と自称しておるが、正直奴の態度は【溺愛】なんて可愛い言葉じゃ足りんぞ。あれはもはや【執着】じゃな。くわばら、くわばら……」
「そう、でしょうか……?」
確かに、ツカサはカナタの好みや趣味を肯定し、欲しい言葉を沢山くれた。
けれど、脅してきたのも事実だ。
そして、無理矢理行為に及んだことも事実。
それでも、カナタは客観的に知っているつもりでいた。
──確かにツカサは、カナタ相手に優しい、と。
中途半端に、悪人で。
中途半端に、善人だった。
「なにがあったのかは知らぬが、なにはともあれ店員同士の仲がいいのは喜ばしいことじゃな! ……じゃが! 仕事に支障をきたすのは感心せん! カナタもカナタじゃと言ったのは、そういうことじゃよ!」
「あっ、ご、ごめんなさいっ!」
「謝罪はいいから、早く料理を運ばんかい! まったく、手のかかる店員たちじゃのう!」
そう言って笑うマスターに、カナタは曖昧な笑みを返す。
ツカサに対する気持ちが分からないまま、カナタは受け取った料理をお客が待つテーブルへと運んだ。
* * *
ツカサが店内に姿を現したことで、この日は大盛況。
目まぐるしい就業時間を終えて、カナタは平屋のダイニングにある椅子へと、深く腰掛けていた。
「お疲れ様、カナちゃん」
「あっ、ツカサさん。お疲れ様です」
隣に座ったツカサへ小さく頭を下げると、笑みを返される。
「自分で言うのもなんだけど、俺ってヤッパリ集客効果バリバリだと思うんだよねぇ。それなのに、マスターがさっき『仕事中に遊ぶな!』って言ってきたんだよ? カナちゃんも酷いと思わない?」
「マスターさんらしいですね」
「うわっ、カナちゃんはマスターの味方をするの? 酷いなぁ……」
テーブルに突っ伏すと、ツカサはわざとらしいほど露骨に落ち込み始めた。
「マスターとカナちゃんのためにピアノを弾いたのに、遊んでいるなんて酷いよ……。あ~あ、すっごく落ち込んだなぁ……」
「で、でも。ツカサさんが弾くピアノ、オレは好きですよ」
「じゃあ、俺の頭撫でて?」
チラリと、テーブルに突っ伏したままのツカサが、カナタを見上げる。
やはり、こうして普段のツカサと接していると……人畜無害な青年のように思えた。
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