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 ピアノに目を向けて、カナタは訊ねる。 「マスターさんがピアノを弾き始めたのは、奥さんの影響ですか?」  マスターはすぐに頷き、ピアノをジッと眺めた。 「ワシには、子供が三人おる。孫だっておる。しかし、ワシはどうにも人付き合いが得意じゃなくてのう。昔は子供や孫に心底疎まれておった」  マスターの告白に、カナタは驚く。  こんなにも軽快で愉快な喋りをできるマスターが、人付き合いを苦手としているとは。生粋と言えるほど人付き合いが苦手なカナタからすると、どうしても信じられなかった。  カナタの考えを見透かしたかのように、マスターは笑う。 「今、信じられんと思っておるじゃろう? ワシのような天然人間たらしが、まさか人付き合いが苦手な男じゃったとは信じられんじゃろう?」 「天然、人間たらし……。えっと、そうですね。驚いては、います」 「お主は悲しくなるほど素直な男じゃな!」  ツッコミを入れた後、マスターは再度、手を動かし始めた。 「子供たちのことは好きじゃったし、孫のこともそれはもちろん愛しておった。しかし、大切だと思えば思うほど上手な言い回しが分からなくてのう。要らぬ苦労をせんようにとあれこれ口出しをしていたら、厄介な年寄りだと思われるようになってしまったのじゃ」  テーブルを拭き終えたマスターは、そのままレジへと向かう。 「気付けば、家や店に家族は寄り付かなくなった。あの頃は、妻にも悪いことをしてしまったと思っておったよ。じゃが、ワシにはどうして良いのか分からなかったんじゃ」  レジを拭きながらも、マスターは言葉を紡ぐ。 「そんな時、嫁がそのピアノを買ってきたんじゃ」  その声は、どこか嬉しそうで。 「『子供たちは楽器が好きだから、あなたもなにか演奏してごらんなさいな』と言って、妻はワシにピアノを勧めたのじゃよ。あまりにも急すぎる大きな買い物じゃったから、正直ワシはたまげたがのう」  その声は、妻に対する愛と感謝に満ち溢れていた。  カナタは思わず、瞳を細める。 「それじゃあ、マスターさんにとってあのピアノは大切な物なんですね」 「あぁ、そうじゃ。見ているだけで、妻との猛特訓を思い出すのう」 「それから、ご家族の方とは?」  レジを磨き終えたマスターは、浮足立ったような声を出した。 「『ピアニストは家族の中にいないから貴重だ』と言って、合奏をしに季節の行事ごとに顔を出してくれるようになったぞ」 「マスターさんのご家族は、演奏家なんですか?」 「おぉ、そうじゃよ。全員違う楽器を弾いておる」  幸福に満ち溢れたような声で、マスターは話す。 「楽器はいいぞ、カナタ。自分自身と向き合えて、自分をより好きになれる。とってもオススメじゃ」  胸を張るようにそう言い切ったマスターに、カナタは言葉を返した。 「マスターさんがそう思えちゃうほど、奥さんはとっても、ピアノが上手な方なんですね」  ──今度、聴いてみたいです。  そう続けようとしたカナタに対し、マスターは即座に顔を向ける。  そして、そのまま……。 「──いや、物凄くヘタクソじゃ。初めて『この人が奏でる音楽は来世でも二度と聞きたくない』と思うほどにな」  カナタが今まで見たことのないような顔で、マスターは全力の否定をした。

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