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翌日の、閉店時間から数分後。
「──マスターさんのピアノが聴いてみたいです」
カナタは厨房にいたマスターへ、そう強請った。
唐突すぎるお願いに、マスターだけではなくツカサも目を丸くしている。
「……ワシのピアノじゃと?」
「はい。思えばオレ、マスターさんが弾くピアノを聴いたことがなかったので」
「……そう、じゃったかのう?」
マスターは自身の顎に指を添えて、斜め上に目を向けた。
その隙に、ツカサがすかさずカナタへ駆け寄る。
「マスターよりも俺の方が断然上手だよ? 雲泥の差ってくらい、俺の方がなんでも弾ける。ピアノの音が聴きたいなら、カナちゃんが好きな曲を俺がなんでも弾いてあげるよ。あの人はつまらない曲しか弾けないからさ。だからカナちゃん、俺におねだりしてよ。ねっ?」
「コラ、ツカサッ!」
詰め寄るツカサに手を握られても、カナタは引かない。
「ツカサさんのピアノも、とっても素敵です。でも今は、マスターさんのピアノを聴いてみたいです」
真っ直ぐと返された言葉に、ツカサは半歩下がる。
「……そう、なんだ。まぁ、そういう気分のときもきっとあるよね」
意外にも、ツカサは納得した様子でカナタの手を離した。
それからすぐに、ツカサはカナタへ笑みを向ける。
「分かったよ。でも俺はマスターのピアノに興味ないから、ちょっと買い物に行ってくるね」
「師匠のピアノに対してなんて言い草じゃ!」
「片付け中に重たい物とか持たないでね? そういうのは、マスターに持たせていいから」
「こっちは老人じゃぞッ!」
ツカサはマスターを総無視し、そのまま厨房から出て行ってしまった。
完全に立腹状態ではあるが、カナタに非はないとマスターは分かっている。
「奴のせいで腹の虫がおさまらん! ピアノを弾くぞ、カナタ!」
そう言い、マスターは両手を洗い始めた。
その間に、ツカサは店内から姿を消してしまったようだ。もうどこにも、ツカサの姿は見当たらない。
「腹立たしいときこそピアノじゃな! カナタ、ナイスおねだりじゃ!」
マスターの言葉にハッとしたカナタは、ピアノへと向かうマスターを追いかける。
「どうしてイライラしているときにこそピアノ、なんですか?」
ウォーミングアップのように指や手首を動かしながら、マスターは答えた。
「ピアノを弾くと、優しい気持ちになれるからじゃ」
ピアノへと注がれるマスターの目は、既に優しい色をしている。
純粋な、ピアノへの好意。
好きなものへ注がれるその目が、カナタには眩しく見えた。
──いつか自分も、胸を張って好きなものを言えるだろうか。
そんなことを考えながら、カナタは空席しかない椅子へ腰を下ろす。
「カナタ。リクエストはあるか?」
「マスターさんが初めて弾いた曲がいいです」
「おぉ、いいのう! あれは、ワシが初めて嫁の演奏を聴いて『こんなデタラメな曲があるか!』と憤った曲じゃった!」
「それは、なんだか複雑な思い出ですね……」
苦笑しつつも、カナタはマスターが奏でるピアノの音色に耳を澄ませた。
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