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 夜になり、カナタは浴室からダイニングに向かって歩く。  濡れた髪をタオルで拭きながら歩いていると、寝間着姿のマスターと擦れ違った。 「おぉ、カナタ。ツカサを見なかったか? ……って、風呂上りか。なら、見ているはずがないのう」 「部屋にいなかったんですか?」  至極当然な問いに、マスターは頭を掻く。 「そうなんじゃよ。まぁ、大した用事じゃないから今日じゃなくてもいいんじゃがな」  マスターの手には、茶色い封筒がある。  もしかしてと思い、カナタは封筒を指で指す。 「それを渡したいんですか?」 「あぁ、そうなんじゃが……ダイニングのテーブルにでも置いておけば見るじゃろう」  夕食の時は、ダイニングにいた。  片付けもしていたし、お風呂の準備をしてくれたのもツカサだ。  しかし、ツカサがこの時間に外出は珍しい。 「オレ、店の方を探してみます。なにか忘れ物を取りに行ったのかもしれませんし。それに、お風呂をどうぞって言いたいので」 「おぉ、すまんのう。いなかったらいなかったで、外にまでは探しに行かなくていいぞ」 「分かりました」  カナタは肩にタオルをかけたまま、喫茶店へと向かった。  家から出て、喫茶店を見る。  するとそのタイミングで、店内に小さな明かりが点いた。 「ツカサさんかな?」  カナタは駆け足で、裏口へ回る。  ドアノブを回すと、鍵が開いていた。 「ツカサさん、いますか?」  店の中には、見慣れた人影がある。  すらりと伸びる手足に、明るい金髪。間違いなく、ツカサだ。  しかし、おかしな点があった。 「……ツカサ、さん……っ?」  ツカサの両手は、振り上げられている。  そして、その手には……。 「──ツカサさんっ!」  ──なぜか、金属バットが握られていた。  カナタの声に、ツカサはピタリと動きを止める。 「あれっ、カナちゃん? こんな時間にこんなところに来て、いったいどうしたの?」  金属バットを振り上げるツカサは、口角を上げてカナタを振り返った。  だが、その笑みは……。  ──どこまでも、カナタの心を冷たくする笑みだった。 「なっ、なにを……なにを、しているんですかっ?」 「『なにを』って、見て分からない?」  分からないわけでは、ない。  だが、カナタは【分かりたくなかった】のだ。 「──コレ、邪魔だから壊さなくちゃ」  そう言って、冷ややかに笑うツカサの前にあるのは。  ツカサとマスターにとって、なによりも大切な物。  ──ピアノだった。  ツカサは一度、金属バットをそっと下ろす。 「仕方ないよ。だって、コレがあるとカナちゃんが他の男に浮気するんだからさ。だったら、俺がこうするのは仕方ないよね。カナちゃんには嫌われたくないから、先ずはこっちを壊すしかないんだよ」  ツカサは誰に言うでもなく、何度も「仕方ない」と呟く。  カナタには、ツカサの言っている意味が分からない。  それでも、ただ黙って見ているわけにはいかなかった。 「待ってください、ツカサさん! オレ、浮気なんて──」  ──刹那。 「──俺、言ったよね。『誰かに熱視線を送るなら、カナちゃんの目玉をえぐり取る』って」  カナタの耳の付け根に、冷たい【なにか】が当たる。 「──他の誰かを選ぶ【耳】があるのなら、熱視線を送る目玉と同様に、そんなものは要らないんだよ。だから、俺はカナちゃんにとって不必要なものを、容赦なくそぎ落とさなくちゃいけないんだ」  ピタリと添えられた、冷たい感触。  ……それが【ナイフ】だと。  そう気付いた時には既に、ツカサの表情から笑みが失われていた。

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