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店内を片付けたツカサは、放心したように裏口で座り込むカナタへ近付く。
「お待たせ、カナちゃん。……歩ける?」
「はい、大丈夫です」
差し伸べられた手に、カナタは手を重ねた。
カナタが立ち上がると、そのまま二人は裏口を出る。
「……ここだけの話、なんだけど。俺、ピアノは別に、好きってワケじゃないんだよ。むしろ、ちょっと苦手なんだ」
戸締りをしながら、ツカサはそう呟く。
カナタはツカサを見上げて、当然の疑問を口にした。
「『苦手』ですか? それは、どうして?」
ツカサは鍵をポケットにしまい込んで、店内に持ち込んでいた金属バットを眺める。
「ピアノを弾いていると、必要以上に優しくなりすぎるから。だから、極力触りたくないんだ」
ツカサの答えに、カナタは目を丸くした。
それから思わず、クスクスと小さな笑みをこぼし始める。
「なに? 俺、変なこと言った?」
突然隣で笑われたことに驚いたツカサは、笑みをこぼすカナタの顔を覗き込む。
カナタは笑みを浮かべたまま、不服そうなツカサを見上げた。
「だって、マスターさんと同じことを言うから」
「マスターと? マスターも同じことを言っていたの?」
「はい。『ピアノを弾くと、優しい気持ちになれる』って。だからマスターさんは、イライラしたときとかにピアノを弾くらしいです」
「そうなんだ。なんか陰気だねぇ……」
どことなくまだ不服そうなツカサを見上げて、カナタは微笑む。
「だからツカサさんは、いつも『マスターさんのお店が繁盛しますように』って願いを込めて、ピアノを弾くんですね」
ツカサがピアノを弾くのは、いつだって客足が少ないときだ。
マスターがそのことに気付いているかは分からないが、きっと【ピアノを弾く】という行為そのものが、ツカサの不器用な優しさなのだろう。
カナタの読みは当たっていたらしく、ツカサは苦笑交じりに答えた。
「それ、あの人には言わないでね。絶対調子に乗るから」
どれだけ狂っていても、歪んでいても。
ツカサの根底にあるのは【優しさ】なのだろう。
すると不意に、カナタの手がツカサに握られた。
「一応言っておくけど、カナちゃんは特別だからね」
「どういう意味ですか?」
「カナちゃんが望むなら、いくらでもピアノを弾くよって意味。俺はカナちゃんの前ではいつも、カナちゃんにとって優しい男でいたいからね」
先ほどまでの豹変ぶりが、まるで嘘のようだ。
カナタは困ったように笑った後、ツカサの手を握り返した。
「ツカサさんのピアノ、好きです」
「ホント? お世辞じゃない?」
「本当です。ピアノを弾くツカサさんも、姿勢が綺麗でカッコいいです」
カナタの言葉に、ツカサは照れたように笑う。
「ヤッタ。どんなことでも、カナちゃんから褒められるのが一番嬉しいっ」
無邪気に笑うツカサを見て、カナタはあることを思い出した。
「そう言えば、マスターさんがツカサさんのことを探していましたよ。見てほしいものがあるみたいです」
「俺に? なんだろう?」
「ダイニングのテーブルに置いておくって言っていました」
「ふぅん。分かった、行ってみる。教えてくれてありがとう、カナちゃん」
会話が終わると、ツカサはカナタの手を小さな力で引く。
その力に応えるよう、カナタは顔を上げた。
「さっきは本当に、ごめんね。……俺のこと、嫌いになった?」
本来ならば、頷くべき問いなのだろう。
だが、カナタは頷けなかった。
「大丈夫ですよ、ツカサさん。嫌いになんかなりません」
「本当に?」
「はい、本当です」
きっと、あとひとつ。
小さなきっかけがあれば、カナタは自分の気持ちに明確な名前が付けられる。
そんな確信が、カナタにはあった。
……たとえ、それが。
「良かった。俺、カナちゃんからの好意だけが嬉しいよ」
──カナタにとって、新たな悩みの種になるのだとしても。
カナタはもうすぐ、ツカサへの気持ちに気付いてしまうのだろう。
その後に芽生える【違和感】に、今のカナタは僅かばかりも気付かない。
ただただ、カナタは早く。
ツカサへの気持ちに対する答えが、欲しかっただけなのだから。
4章【そんなに自分を壊そうとしないで】 了
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