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冷えた指先が、カナタに触れる。
その手は、カナタの前髪に触れていた。
「なにをしているんですか?」
「ヘアピンを付けているんだよ~」
前髪を分けて、ツカサは言葉通りヘアピンを付け始める。
「小さなお花が付いている、可愛いヘアピン。カナちゃんの髪に似合うと思って、カナちゃんが引っ越してきたその日に買っちゃった」
「そっ、そんなに前ですかっ?」
ヘアピンを付け終えたツカサは、机の上に置いてある小さな鏡を取りに向かう。
そのまますぐに、カナタの顔を鏡に映した。
「どうかな? 気に入ってくれた?」
ツカサが言っていた通り、カナタの前髪には小さくて愛らしいヘアピンが付けられている。
華奢な花がひとつ、控えめに輝いていた。
「可愛い、です。凄く、可愛い」
鏡を受け取ったカナタは、まじまじとヘアピンを見つめる。
服だけではなく、カナタは可愛い物ならなんでも好んでいた。
当然、カナタはツカサからのプレゼントにも胸を高鳴らせる。
鏡を見つめるカナタを見て、ツカサは微笑む。
「嬉しそうなカナちゃん、すっごく可愛い」
そう言い、ツカサはカナタの頬にキスを落とした。
突然のキスに、カナタは慌てて顔を上げる。
「口の方が良かったかな?」
ツカサはカナタの唇を撫でて、微笑みを浮かべた。
「でも、まだダメ。デートが終わってから、呼吸困難になっちゃうくらいしてあげる。だから、それまで我慢していてね」
唇から指が離れると、カナタは堪らず俯いてしまう。
「そういうことは、恥ずかしいので言わないでください……っ」
「あっ、そっか。サプライズの方がドキドキしてくれるよね。カナちゃんはロマンチストだねっ」
「そういう意味じゃ、ないですけど……っ」
相変わらず会話が正しく伝わらないが、それでもカナタは良かった。
──ツカサが、隣にいてくれる。
それだけで、驚くほど胸が弾んでしまうのだから。
「あの、ツカサさん。髪にゴミが付いているので、屈んでもらえますか?」
「えっ、ウソっ? ちゃんとバッチリ準備してきたつもりなんだけどなぁ」
ツカサはガンとショックを受けながら、言われた通りに背を曲げる。
そんなツカサの頬に、カナタは触れるだけのキスを落とした。
「……っ」
珍しく、ツカサが動揺を露わにする。
「えっと、ヘアピンのお返しと言いますか……その、なんて、言うか……っ」
しどろもどろになりながら、カナタは視線を彷徨わせた。
そのままカナタは、鏡を戻すために机へ向かう。
「……はぁあっ」
すると背後で、ツカサが露骨すぎるため息を吐いた。
「カナちゃんさぁ? あんまり可愛いことしないでよ」
足を止めたカナタは、ツカサを振り返る。
「俺、割と我慢してるつもりなんだけど」
カナタに口付けられた頬を押さえながら、ツカサは拗ねたようにそう呟いた。
「が、まん……っ?」
赤面したカナタへ、ツカサは近寄る。
「今日の俺は、大人な男ってテーマなの。大人な男は、見境なく恋人に手を出さないものでしょう?」
カナタの手から鏡を取り、ツカサは机へ向かう。
鏡をもとの場所に戻した後、ツカサはクルリとカナタを振り返った。
「じゃあ、行こっか! カナちゃん、準備はオッケー?」
「あっ、は、はい……っ!」
部屋から出て行こうとするツカサの背を、カナタは慌てて追いかける。
頬には、熱が溜まっている。
胸の奥では、心配になるほど鼓動が打ち付けられていて。
その時のカナタは既に、自分が女装をして出掛けるということへの負い目を感じているどころではなくなっていた。
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