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6章【そんなに嬉しそうにしないで】 1

 それは、デートの翌日。 「──どうしたんじゃ、カナタ? 随分と浮かない顔をしておるのう?」 「──へっ?」  マスターからの指摘に、カナタは慌てて顔を上げていた。  場所は、カナタたちが働く喫茶店。  朝の準備として、カナタとマスターは店内の掃除をしていた。 「ごっ、ごめんなさいっ! オレ、ボーッとしていましたよねっ?」 「まぁ、そうじゃが。……なんじゃ、無自覚だったのか? 具合でも悪いのかのう?」 「や、えっと……」  いくらマスターが相手でも、カナタは言えない。  ──ツカサから、ただの一度も『好き』と言われたことがなくて、不安になっている。  ……なんてことを、言えるはずがなかった。  カナタは、昨日──コスプレ衣装がドロドロになるまで、ツカサに抱き潰された後。  気付いてしまった事実に対して、ツカサへなにも言えなかった。  恋人という関係を強要されて、好意の言葉すらも強要されたのに。  ──当の本人からは、一度も返されていない。  ……それは、どうしてなのか。カナタはずっと、そんなことを考えていた。  そして、カナタが考えられる可能性は、たったひとつ。  あまりにも単純で、しかも明確な理由だけ。  ──『言いたくないから』としか、考えられなかった。  けれど、その真意や理由が分からない。  カナタは生まれてこの方、ツカサ以外の相手と恋愛をしたことがないのだ。  テーブルを拭きながら、カナタは小さなため息を吐く。  そんなカナタを気に掛けながら、マスターは別の話題を振った。 「そうじゃ、カナタ。今日から新しい仲間が来るぞい」  新たな話題に、カナタはすぐさま顔を上げる。 「それって、昨日面接した人ですか? 早いですね」 「そりゃそうじゃ! 人手はあるに越したことがないからのう!」  カナタが来るよりも前にいたアルバイトは、全員ツカサのことを好きになり、辞めてしまったらしい。  いくらあまり大きくない店内だとしても、突然の減員はマスターにとって大問題だったのだろう。  面接をしてすぐに採用し、翌日からの出勤。  つまるところ、マスターは早急に手を打ちたかった、ということだ。 「どんな女の子なんですか?」  ツカサのことを好きになったからという理由で、アルバイトは辞めた。  ということは、おそらくマスターは不足した女性スタッフを応募したはず。  そう思ったカナタは、顔を上げてマスターを振り返った。  するとなぜか、マスターはわざとらしく肩を竦め始めたのだ。 「それがのう、男なんじゃよ。カナタも女子が良かったじゃろう? ワシも女子の応募をしたかったんじゃがなぁ……」 「あ、いえ。別に、オレは女の子がいいってつもりで言ったんじゃ──」 「照れなくてもよいじゃろうて~」  あらぬ誤解をされてしまったが、マスターなりのジョークだろう。  カナタが曖昧な笑みを返すと、マスターは眉を寄せて腕を組んだ。 「じゃが、ツカサの奴がなぁ……」 「ツカサさん、が?」  ドキリと、妙な緊張感。  カナタはマスターからの言葉を、静かに待った。  待たれているマスターは当然、口を開こうとする。  ──そのタイミングだ。 「マスター。裏口に知らない男の子がいるよ」  ──ツカサが、店の奥からやって来たのは。

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