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翌朝の、喫茶店開店前。
テーブルを拭くリンを眺めていたカナタは、力強く頷いた。
「うん、大丈夫。ちゃんと拭けているよ」
カナタにそう言われたリンは、パァッと眩い笑みを浮かべる。
「ヤッタ! 毎日ホムラさんに教育された甲斐があるな~! ホムラさんってすっげ~スパルタなんだもん!」
覗く八重歯も相まって、カナタはリンから無邪気な印象を受けた。
しかし、どうにも言っていることはピンとこない。
「スパルタ、かな? オレが仕事を教えてもらった時は、そんな感じしなかったけど……」
自分が喫茶店に来たばかりの頃を、カナタはぼんやりと思い返す。
しかしどれだけ振り返っても、ツカサに厳しくされた記憶がない。むしろ、マスターの方が厳しかった気がした。
すると、カナタの考えに気付いたのだろう。
リンはカナタに近寄り、人差し指を左右に振った。
「チッチッチッ! カナタ君はスパルタされてないと思うよ! だってホムラさん、カナタ君には──」
「──ヒシカワ君」
ピシャリ、と。
二人の会話を切断するような、冷たい声。
声の主は、案の定渦中の男──ツカサだった。
リンは大袈裟なほど背筋をピンと伸ばし、敬礼の姿勢を作り始める。
「おはようございます、ホムラさん! ……あっ、大丈夫ですよ、ホムラさん! 僕、初日の言いつけはちゃ~んと守ってますからっ!」
「そんなの、言われなくても当然でしょう。これからも死ぬまで、死んだ後も気を付けて。……あと、今も近いから離れて」
「あっ、は~い……」
リンに向けていたツカサの冷たい視線が、一変。
「それにしても、新人の教育をしっかりしているカナちゃんも可愛いね。俺にもマスターじゃなくて、こんなに可愛い先輩がいたら良かったのになぁ……」
ツカサはカナタの方を向いた後、ニコリと穏やかに微笑んだ。
その笑みは恋心を抜きにしても、端整な顔立ちという要素も混ざり合い、眩しかった。
「それじゃあ、俺は厨房に戻るね。なにかあったら来てほしいし、なにもなくても来てほしいなっ」
「じゃあ、忙しくないときに顔を見に行かせてください」
「わぁっ、素直っ! カナちゃんはどこぞの低能とは違って、純真で可愛い後輩だなぁっ。キスしたくなっちゃうよ」
「今は、駄目です……っ」
「後でならいいんだね? 楽しみっ」
そんなじゃれ合いをした後、ツカサはキッチンへと向かう。
……まるでリンを、いないもののように扱って。
キッチンへと向かったツカサが見えなくなった後、カナタは恐る恐るリンに近寄る。
「……言いつけって、なに?」
するとなぜか、リンはカナタに近寄られた一歩分を、後退。
人懐っこい笑みを浮かべつつ、リンはカナタの問いに答えた。
「アルバイト初日に僕さ、挨拶した後すぐホムラさんに連れていかれたでしょ? その時に、メチャクチャ低い声で耳打ちされたんだ~」
「ツカサさんから? なにを?」
「『カナちゃんに触ったら殺すから』って! イヤ~、マジでビビった!」
平然と。
まるで雑談のように打ち明けられた、衝撃の事実。
カナタは脅されたリン以上に動揺し、一歩近寄った。
「えっ、そ、そうだったの? だっ、大丈夫っ?」
不安そうな表情を浮かべるカナタとは、対照的に。
なぜかリンは、心底幸福そうな表情を浮かべた。
……一歩分、後退して。
「モチロン! 前に言ったでしょ? 僕、腐男子ってやつだって! 間男になる趣味は毛頭ないけど、間近でヤキモチとかを見られるのは最高のご褒美だよ!」
あまりにも、ポジティブすぎる。
そう言いたくなったが、リンはどこかでツカサに怯えているのだろう。
カナタと開いた距離を、一定に保っているのだから。
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