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 日課となった家事を終えた後、ツカサは自室に戻っていた。  扉を閉めて、鍵をかける。  そのままツカサは、フラフラとおぼつかない足取りで歩む。 「…………ん、で……っ」  その両足から、力が抜けた時。 「──なんで、変わろうとするんだよ……ッ!」  ツカサはその場にへたり込み、慟哭のような叫びを上げた。  ──『変わらないで』と言ったのに。  ──それに対して、カナタは頷いていたというのにだ。 「どうしてっ、なんで……なん、で……なんでだよッ!」  ツカサは僅か欠片ばかりでも、カナタを誰にも渡したくない。  周囲がなにを言おうと、それはあくまでもツカサにとって【意に介する必要もない他人】の価値観。  そんなもの、ツカサには必要ない。  カナタの意見と自分の意見さえあれば、この世界は構築されるのだから。  カナタの悩みは、ツカサのもの。  カナタの好きなものや嫌いなものも、ツカサだけが知っていたらそれでいい。  形のない未来に不安を抱え、明確な姿も見えない他人に対し、カナタは怯えていた。  ツカサにとっては取るに足らない事象に対し、カナタは受け止められるだけの器を持っていなかったのだ。  それなのに、カナタはマスターに打ち明けた。  そして明日になれば、リボンを首に巻いたカナタは、出会ったばかりのリンにも打ち明けるのだ。 「ウソ吐き、ウソ吐きっ、ウソ吐きウソ吐きウソ吐きッ!」  マスターには、偏見がない。  カナタと会ったことがないにしても、マスターの妻も同様の反応を示すだろう。  根拠はないが、リンもおそらくカナタに理解を示す。  とどのつまり、カナタの理解者が増えてしまう。  ──カナタの理解者は、ツカサ一人だけで十分だというのに。 「裏切り者ッ、浮気者ッ、ウソ吐きッ、ウソ吐きッ!」  カナタのことを理解する者が増えるということは、カナタに好意を寄せる者が増える可能性と繋がる。  純真な好意を向けられて、カナタが無碍にできるはずがない。  そうなると、ツカサはどうなる?  ──カナタと同じ【好き】が言えないツカサは、どうなるのだろうか。 「カナちゃんなんか、カナちゃんなんか……ッ!」  一言では形容できない憎悪が、ツカサの心を黒く塗り潰す。  無垢なカナタは、ツカサの本質を正しく理解できていないのだろう。  だからこそ、カナタはいつだって無意識のうちに油断し続けている。  たとえば、鍵をかけても毎朝ベッドの中にツカサがいた理由。  ツカサが合い鍵を持っていることを、カナタは僅かばかりも疑ったことがないのだから。  今すぐその合い鍵を使い、カナタの部屋に侵入したとして。  ツカサは抵抗を受けることなく、カナタを殺すことができるだろう。  しかし、寸でのところで理性が働く。  ──カナタのことを、殺す。  それはつまり、カナタにとって【怖いこと】だ。  ──カナタを、怖がらせる。  それはつまり、カナタからの嫌悪に繋がる。 「カナちゃんから、嫌われる……っ?」  唯一、ツカサが恐れること。  常軌を逸した狂気を内包するツカサにとって、唯一の恐怖は……あまりにも、幼稚なもの。  ──それは、カナタに嫌われることだった。 「……イヤ、だ……っ。あの子を手放すなんて、絶対にイヤだ……ッ!」  握手に応じてくれたあの日の【運命】を、カナタに否定されるかもしれない。  優しいカナタが、ツカサに二度と笑みを向けてくれなくなるかもしれないのだ。  それだけが、ツカサにとって最大の懸念だった。

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