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恋愛において、誰もが口にする『押して駄目なら引いてみろ』とはよく言ったものだと、ツカサは頭の片隅で思う。
そんなことをしてしまっては、もしかするとカナタが誰かに盗られるかもしれない。
ツカサが一歩引いたその瞬間に、カナタが『これ幸い』と離れてしまうかもしれないのだ。
ならば、ツカサは行動するしかない。
それでも、ツカサには正しい【押し】が分からなかった。
「変わらないでよ、カナちゃん……ッ。イヤだよ、カナちゃん……ッ!」
──裏切り者を、殺してしまえ。
──カナタに、嫌われたくない。
同時には叶えられない願望が、ツカサの内側でグルグルと激しく渦巻いた。
しかし、どこかまるで警鐘のように、内なる悪魔が囁く。
──『人間のフリをやめろ』と、甘く囁くのだ。
「う、ぅ……く、ゥ……ッ!」
床に膝をつき、ツカサは頭を抱える。
乱れることも気にせず、ツカサは何度も何度も頭を掻きむしった。
* * *
コンコンと、控えめなノックの音が聞こえた。
顔を上げたツカサは、そこでようやく【いつの間にか深夜になっていた】と気付く。
床に手をついて、なんとかバランスを保つ。
立ち上がったツカサは、ゆっくりと鍵を開けた。
そして、相手が誰かも確認せずに扉を開ける。
……そこに立っていたのは、カナタだった。
「……カナ、ちゃん」
「こんばんは、ツカサさん」
どことなく不安そうな顔をしていたカナタが、ホッと安堵の息を吐く。
「えっと、ツカサさんがオレの部屋に来ないので。その、なんだか落ち着かなくて、ツカサさんになにかあったのかと思って……っ」
夜になると、いつもツカサが会いに来てくれた。
ツカサがそばにいることを、カナタは【当然のこと】として受け入れてくれている。
それはツカサの存在を、カナタは【人生の一部】として受け入れてくれているという証拠だ。
心にかかっていた靄が、優しい手つきで取り払われていくようで。
ツカサは少しだけ、心を落ち着かせることができた。
──しかし。
「大丈夫ですか? なんだか、顔色が悪いですよ?」
──それは、一瞬だけだった。
心配そうに覗き込むカナタの目に、ツカサが映る。
もしもこのまま、カナタがこの部屋から出たとしたら。
──カナタはその目に、ツカサ以外の誰かを映すのだろう。
そう考えた瞬間に、ツカサは──。
「うわ、っ!」
──即座に、ツカサはカナタの腕を引いた。
そしてそのまま、ツカサはカナタの体を床に押し倒したのだ。
「いた……っ! ツ、ツカサさんっ? いったい──」
戸惑うカナタを見下ろして、ツカサは叫ぶ。
「──カナちゃんの目玉、今すぐえぐり取らなくちゃ……ッ!」
悪魔の囁きは、もう聞こえない。
音を立てて近付いていたはずの鋭利な感情も、今ではもう近付いてくる気配がなかった。
それも、そのはずで……。
「目玉をえぐれば、カナちゃんは誰のことも見ない。……そう、だ、舌。舌も引き抜こう……ッ。そうすれば、カナちゃんは誰とも話せなくなる。カナちゃんが、他人なんかに理解を求めなくなるんだ。そうだ、そうしよう。えぐって、引き抜いて、カナちゃんを守らなくちゃ……ッ。カナちゃんを守らなくちゃ、守らなくちゃ守らなくちゃ……ッ」
──ツカサは既に、自分とは別物だと思えないところにまで、悪魔と鋭利な感情の侵入を許してしまっていたのだから。
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