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 それは、その日の朝のことだ。  マスターが朝刊から顔を上げて、その両眼を何度も瞬かせたのは。 「……おぉ?」  マスターの前に、可愛らしいデザインの皿が置かれる。  そこに盛られているのは、プリンだ。  マスターはプリンを見つめた後、そのプリンを差し出してきた相手を見上げた。 「なん、なんじゃ、なん……っ?」 「は? なに? ボケたの?」 「それはこっちのセリフじゃいッ!」  マスターが普段通り憤り、朝刊を力任せに閉じる。  怒りの矛先は、当然……。 「気が向いたから、マスターの分も作ったよ。食べたかったら食べて。残したら二度とマスターにはなにも作らないけど」 「選択肢はせめて最低ふたつ用意せんかッ!」  プリンを手作りしたツカサだ。  普段と変わらず表情がうまく読めないツカサから、マスターは即座に視線を移す。  視線の先にいるのは、微笑ましそうにツカサたちを眺めていたカナタだ。  マスターの視線に気付いたカナタは、小首を傾げた。  マスターは至極真剣な表情をして、小声でカナタへ話しかける。 「カナタ、困ったぞ。ワシは傘を新調しとらん」 「雨なんか降らないですよ」 「カナタ、ワシはどうすればいい? 車のワイパーも立てとらんぞ」 「雪も降らないですよ」 「カナタ、カナタ! 大切な物は一度地下室にしまった方が良いかもしれん! 天井に穴が開くかもしれぬ!」 「槍も降らないですよ」 「ねぇ、マスター? なんで全部、俺じゃなくてカナちゃんに言うの?」  カナタとマスターの間に、ツカサはサッと手を出す。  二人の視界を塞いだ後、ツカサはカナタに笑みを向けた。 「カナちゃんにはおかわりもあるからね」  その笑みを見て、カナタはクスクスと笑う。 「ふふっ。ありがとうございます」  カナタの笑顔を見て、ツカサは目を細める。  ツカサはカナタの隣に座り、横顔を眺めた。 「本当は今すぐキスをしたいけど、カナちゃんのキス顔は俺だけのものだから、今は我慢するよ」  すぐに、カナタは顔を赤くする。 「プ、プリン、いただきます」 「うん、どうぞ」  二人のやり取りを見て、マスターは眉を寄せた。 「お主は本当に、包み隠さなくなってきたのう」 「まぁね」  ツカサはプリンを食べ進めるカナタを眺めて、目を細める。 「ねぇ、シグレ。知ってた? 変わっても、変わらなくても……俺は俺なんだってさ」  手に入れたばかりの言葉を、ツカサはマスターに教えた。  当然、マスターにはツカサの言っていることはいまいち伝わらない。  ただひとつだけマスターにも分かったのは、突然名前を呼ぶくらいには、ツカサが上機嫌だということ。  ゆえに、マスターは「ほう?」と曖昧な返事しかできない。  けれどツカサは、それはそれで存外気分が良かった。  まるで、カナタとの秘密が増えたようで。 「カナちゃん、美味しい?」  スプーンを口に運ぶカナタを眺めて、ツカサは訊ねる。  カナタは隣に座るツカサへ目を向けて、コクコクと頷く。 「おいひいっ」 「あははっ! 可愛い~っ」 「よそでやってくれんかのう」  三人は思い思いの気持ちを抱きながら、ツカサが作ったプリンを平らげた。

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