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 カナタはそっと、ツカサから距離を取る。 「えっ、なに? どうして距離を取るの? それは寂しいよ、カナちゃん」 「少し、恥ずかしくなってしまって……っ」 「えぇっ? 今さらっ? 初めから距離を取られるよりも傷付くなぁ……」  しかし、さほど広くもない浴槽だ。  ツカサが腕を伸ばせば、すぐにカナタは捕まってしまう。 「こっちにおいでよ、カナちゃん。甘やかしてあげるからさ」  空いている方の手で、ツカサは自分の髪を後ろに撫でつける。  普段とは印象が違う見た目に、カナタはさらに顔を赤くした。 「ツカサさん、ズルいです……っ。カッコ良すぎます……っ」 「そう? ありがとう。……でも、カナちゃんだって可愛すぎてズルいよ。それに、酷い」  腕を掴まれたカナタは、ゆっくりとツカサに近寄る。  ツカサの腕に閉じ込められ、カナタは赤面した顔をなんとか隠した。 「俺をその気にさせといて、恥ずかしいから『ハイ、おしまい』なんてさ。同じ男として、それはあんまりじゃないかなぁ?」  またしても、ツカサの指がカナタの体を這う。  しかしそれは、先ほどの指使いとは違って……。 「──今度は【イケないこと】をシよっか」  そして、普段のツカサと同じだった。  カナタは身を震わせ、ツカサの指を感覚で追う。  ツカサの肩口に額を当て、カナタは体を震わせたまま、小さく呟いた。 「──【いいこと】じゃ、なくてですか……っ?」  カナタはほんの少しだけ顔を上げて、ツカサの首筋に鼻の頭を擦りつける。  ぼんやりと思い出すのは、喫茶店でのやり取りだ。 「……ツカサさんの首、齧ってもいいですか?」  ツカサが冗談で言っていたことを、カナタは本気にする。  すぐに、ツカサはカナタの頭を撫で始めた。 「モチロンいいよ。カナちゃんになら、食い千切られたっていいからさ」  許可を貰ったカナタは、ツカサの首筋に唇を寄せる。 「……でも、ツカサさんなら仕返しをしそうです」 「【仕返し】じゃなくて【お返し】だよ。カナちゃんが俺の首を食い千切ってくれるなら、俺はカナちゃんの舌を食い千切ってあげるだけ」  ツカサは囁きながら、カナタの後頭部に回した手で、頭を撫で続けた。 「可愛くおねだりをしてくれたカナちゃんの舌に、俺は言葉にできないほどの想いを込めて、歯を立てる。そしてそのまま、カナちゃんの血で彩られた口を使って、カナちゃんのこの可愛い喉笛を食べるよ。そうすればカナちゃんの言葉も、声も、全部俺だけのモノだ。……あははっ! 考えただけでドキドキするねっ!」  あまりにも無邪気な声で、ツカサは楽しそうに夢物語を口にする。  ……ただ、ひとつ。  ツカサが口にすると、カナタにはただの【夢物語】と思えないのが、なぜだか妙に不思議なだけで。  それ以外は、どこにでもいる仲睦まじい恋人同士のじゃれ合いだった。  カナタが首筋に甘噛みしても、ツカサは一切動揺しない。  むしろどこか満足そうな声で、呑気なことを口にした。 「美味しい?」 「……嬉しい、です」 「そっか。そう言ってもらえると、俺も嬉しいかな」  そのまま、ツカサは甘く囁く。 「このままくっついているのもいいんだけど、さ。……そろそろ、カナちゃんに【いいこと】がシたいなぁ」  首筋を甘噛みされているツカサは、あまりにも平然としている。  ……だと、言うのに。 「……っ」  ただ耳元で囁かれただけのカナタは、内心で慌てふためいてしまった。

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