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背後から腕を引くツカサを、カナタは慌てて見上げる。
そして、その気迫に思わず気圧されてしまった。
「おかえり、ウメ。意外と早い帰宅だったね。てっきり、次に会うのは葬式だと思っていたから驚いたよ。まぁ、喪服なんて用意していないけどさ」
この態度を、カナタは知っている。これは、完全なる【威嚇】と【牽制】だ。
ツカサは流れるような所作でカナタを自身の背後に隠し、女性客とカナタの間に割り込む。
友好的な敵意という矛盾した情をぶつけられている女性客はと言うと、なぜか笑みを浮かべていた。
「おやおや、ツカサ。ちょっと会わない間に、随分と賢くなったじゃないか? ん?」
「あはは、なんでだろうねぇ。ウメにそう言われると、まるで『臆病者』と言われているような気がしてならないよ」
「ふははっ! 本当に賢くなったじゃないか!」
「あははっ。……喜びなよ、ウメ。その安い挑発、俺が高値で買ってあげるからさ」
空気が、猛スピードで不穏な方向へとシフトチェンジしている。
そう気付いたカナタは慌てて、ツカサの腕をクイクイッと引っ張った。
「あっ、あのっ! ツカサさん、こちらのお客さんとはお知り合いなんですかっ?」
「『お客さん』? コイツが?」
「えっ? だって、今日のお昼に来店されて──」
「は? 昼に来ていたの? コイツが?」
カナタを振り返ったツカサの目は、あまりにも冷たい。
──『完全に、切り出すタイミングを誤った』と。そう気付いた時にはもう、既に遅い。
ツカサは不機嫌そうに口を引き結んだ後、小さく息を吐いた。
吐息以上ため息未満のその呼吸が、ツカサの重々しい感情をダイレクトに伝えてくるようだ。
やがてなにかを諦めたかのように、ツカサは対峙している女性をチラリと横目に見た。
そして、またしてもカナタにとって衝撃的な事実が露呈する。
「──この人はウメ・ムラサメ。前に少し話した、マスターの嫁だよ」
ツカサからの紹介を受けて、カナタの目は点になった。
……しかし、これでようやく全てに合点がいったのだ。
接客中に店のことを色々と訊いてきたのは、ある意味で【覆面調査】だったことや、会計時に言っていた謎の言葉も、ダイニングで料理をしている理由も、ツカサがここまで嫌悪感を剥き出しにしていることも、全て……。
「マスターさんの、お嫁さん……っ?」
たったその一言で、全てがまかり通ってしまうのだ。
ツカサから紹介された女性客──ウメは、ニコリと笑みを浮かべて指でピースサインを作った。
「いつも旦那が世話になっているね」
どうやら、ツカサのジョークではないらしい。
「……マスターさん、の?」
「妻であり、嫁だよ」
「でも、あの……? ……とても、お若いんです、ね……?」
どう見ても、ウメは三十代。そして、マスターは六十代後半だ。これがいわゆる【年の差婚】というものかと、カナタは感心する。
しかし、その考えは誤りだったらしい。
「カナちゃん。一応言っておくけど、二人は同い年だよ」
「えっ? マスターさんって三十代なんですかっ?」
「あぁ、カナちゃん的にはそっちの解釈になるんだねぇ。そうじゃなくて、こっちが六十代。マスターは年相応だよ」
「えぇぇっ!」
素直に驚愕するカナタを見て、ウメは妙に嬉しそうだ。
「美麗すぎてたまげたってかい? カナタは素直だねぇ? その美辞麗句の礼としておっぱいくらいなら揉ませてやってもいいけど?」
「え、っ」
「醜い脂肪をカナちゃんに触らせるワケないでしょ。いい年して、みっともなくて恥ずかしい奴だよね、ホントに」
「懐かしい罵倒だねぇ! 嫌いじゃないよ、アンタのそういうところ!」
「俺はお前が大嫌いだけどねぇ」
あまりにも。それはもうあまりにも、空気が悪い。
その空気が和やかになるには、シクシクと泣きながら帰ってくるマスターが必要だったのだが……彼はまだ、店で掃除を続けていたらしい。
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