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 遡ること、数時間前。雨音が小さく響く店内でのことだ。 『あの、店員さん。少し、いいですか?』  食事を終えた客の会計をしているカナタは、声をかけられた。  すっかり慣れた手つきでレジを打ちながら、カナタは声をかけてきた客──女性に向かって、小首を傾げる。 『はい。いかがいたしましたか?』 『実は、お願いがありまして……』  ポンと思い浮かぶ【お願い】は、両替だ。ごく稀に、そういった頼みを受けることがある。……マスターが設けたルールとして、引き受けられないのだが。  カナタは小首を傾げたまま、女性客の言葉の続きを待つ。  すると……。 『──これを、厨房にいる若い男の人に渡してもらえませんか?』  声を潜めて、女性客はカナタに一枚のメモを渡した。  それは、両替よりも高頻度で頼まれる【お願い】──ツカサとの仲介役だ。  メモに書かれているのは、女性の連絡先だった。折りたたまれた紙の隙間から電話番号と思しき数字の羅列が見えたので、間違いない。  少し前までならば、カナタは眉尻を下げてオロオロしながらも断っていた。以前、マスターから『ツカサに客からの連絡先を渡してはならない』と言いつけられていたからだ。  ……しかし、今は心持ちが全く違う。 『ごめんなさい。そういったことは、お受けできなくて』  思わず低い声が出てしまっていると、自覚はあった。  それでもカナタは頭を下げて、真摯な対応で女性客からの頼みを断る。  女性客はしょんぼりと落ち込みつつ、引き下がってくれた。……これは、よくある展開だ。勇気を出したと分かる手前、少々胸は痛む。  だが、それ以上に……。 『今週だけで、五回目だ……』  他者をあっさりと魅了してしまうツカサに、モヤモヤとした感情を抱いてしまうのだ。  悪天候が続くと、ツカサへのアプローチが急増する。いつもは厨房に籠っているツカサが、窓側に置いてあるピアノを弾くために姿を見せるからだ。  ツカサはいつも、決まって三曲のピアノ演奏をする。その間に客足が増えても、増えなくても。ツカサはきっかりと三曲弾く。  つまり、一曲目の途中で来店した女性客はラッキーだ。残り二曲分、普段は見られない美丈夫を眺めることができるのだから。  客は当然、厨房には近寄れない。そうなると、別の店員にツカサとの仲介役を頼むしかなかった。それがたとえ、彼の恋人であろうと……。  カナタは肩を落としつつ、レジから離れる。そうするとすぐに、ニコニコと楽しそうに笑うリンが近付いた。 『相変わらずホムラさんはモテモテだね~っ?』 『嫌になっちゃうよ。オレのツカサさんなのに、いろんな人から好意を持たれちゃってさ』 『あれれ~っ? ヤキモチですか~っ?』 『そうだよ、ヤキモチだよ』 『おっと、素直っ!』  むくれてしまったカナタを見て、リンは必死に拝みたくなる気持ちを抑える。そういった状況ではないと、さすがに理解しているらしい。  だがそこに、全く状況を理解できていないツカサが現れた。 『カナちゃん、どうかしたの? なんだか顔色が悪いよ? ……もしかして、ヒシカワ君にいじめられた? 消そうか、ソイツ?』 『ちょっ、ホムラさんっ?』 『リン君じゃ、なくてですね……』  顔を上げて、カナタは起こったことを素直に話す。 『ツカサさんに連絡先を渡してほしいって、お客さんから頼まれました。今週だけで五回目です』 『ちなみにそれとは別で、僕は三回頼まれましたよ~っ』 『アタシも三回頼まれたねぇ』  さらっと会話に参加したウメの証言も含めると、どうやら今週だけで十一人がツカサに想いを告げようとしたらしい。  無論、全員とも丁重に断った。渡した後が怖いと、カナタを含む全員が分かっているからだ。  カナタが落ち込んでいる理由を聴いた後、ツカサはニコリと笑った。  そして、カナタを憤慨させる一言を……他でもないツカサが言い放ったのだ。 『──なんだ、そんなことかっ。どんな大事件かと思ったけど、取るに足らない些事で良かったぁ~っ』  カラッと笑うツカサを見て、カナタは思わず……。 『──はっ?』  カナタらしくない低い声を、他でもないツカサに返してしまったのであった。

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