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Q5
絶頂期。今がその時なのではないかと、ユズは心をときめかさずにはいられなかった。
yuz side:idOl:kingdom
きっかけは、あの生放送番組だった。
あの放送がきっかけでファンも一気に増え始め、アイドルとしての活動は順調も順調。毎日忙しい。
学生である身としては忙しすぎて、授業中に寝てしまうこともままあるが、その忙しさがありがたいことは十分知っている。
だからユズは頑張る。
何より、メンバーといることが──特に──キュウといることが楽しくて仕方がないから。
『みんな! 凄い仕事持ってきたよ!』
この日は久しぶりの休日だった。けれど、宿舎にいてもやることがなく、なんとなく事務所のレッスン室に籠もっていた。歌やダンスの練習をしていると、一人、また一人と集まってきて、約束するでもなく、そこに七人全員が集まっていた。踊ったり、ふざけたり、ふざけあったり、鼻歌を歌ったり。アンドのラップパートを奪ったり。
そんな休日の楽しい練習室へマネージャーの立花がやって来たのは、ユズ達の行動を読んでのことなのだろう。
少し息を弾ませ、扉を閉めることもそこそこに、彼はある仕事を告げてきた。
『あの、女の子達の熱線を集めるガールズランウェイにゲスト出演することになりました!』
『え、ガールズランウェイって……』
ユズは思わず立花に駆け寄った。
『あのガールズランウェイ!?』
『はい、そうですよ! そこで、新曲を発表します!』
『新曲!?』
その言葉に、ガールズランウェイという単語にハテナマークを頭上に飛ばしていた他のメンバーも反応する。
だが、それ以上に、ユズの気分は一気に高揚した。
ガールズランウェイと新曲。この二つの組み合わせに、どうして冷静でいられるのか。
しかし、ユズを喜ばせることはまだ立花の口から紡がれた。
『ユズくんはファッションとかに興味ありますよね?』
『う、うんっ、特に可愛いものが好きだよ!』
『だと思って、このお仕事を引き受けたんです。ユズくん。君には、ランウェイを歩いてもらいます』
『……、……え?』
──そう、ここからユズの幸運はユズに味方し、人生最大の絶頂期へと押し上げていくのだった。
ガールズランウェイ。
十代、二十代の女性をターゲットとしたファッションショーの一つ。首都を中心とした大きな会場で毎年決まった時期に開かれ、各ファッション雑誌のモデルが旬の洋服に身を包み、全長九十メートルある花道──つまりランウェイを歩き、“かわいい”を発信していく舞台である。
そして、もう一つ、目白押しとして、モデル以外の分野から幾人かの出演者がいる。俳優や歌手、スポーツ選手など多岐に渡り、その華やかで豪華な顔触れであろう面々は、ファンの間で予想がされるほどだ。
そのゲスト出演者枠にサンセプの名前が上がった。まだデビューして間もない、自分達に注目してくれている大人がいる。
『〜〜っ』
そのことに、ユズは嬉々とした感情を抱かずにはいられなかった。
着実に頂点へと登っていっている感覚。オーディションから練習生として、レッスンを重ねてきた日々が報われていくの気持ちよかった。
サンセプは新人アイドルながらも出番は中盤ということで、より会場を盛り上げなくてはならない。そして課せられた使命はアイドルという肩書き通り、歌と踊りで会場を沸かせることだ。それ故の新曲で、みんなの練習にも力が入っていた。リリース予定はないが、上手くいけば、セカンドシングルとして売り出してもらえるかもしれない──そうメンバー間で話した時には、見えない未来に心を馳せてドキドキがとまらなかったぐらいだ。不確定な未来を望むなら、それ相応の努力と成果を披露しなくてはならない。誰もが真剣だった。
そんな中、練習の合間に、ユズは立花と共にある場所に来ていた。
広々とした部屋を埋め尽くさんばかりの人で賑わい、あちらこちらから怒声にも似た声が飛び交っている。
背が高く、堂々と背筋を伸ばして洋服を片手に話しているのはモデルであろう。顔は当たり前のように小さく愛らしく、綺麗だ。
その傍らではスタッフらしき人物がやはり洋服を片手に真剣な表情で話し込んでいる。
先日、立花にランウェイを歩くよう言われたユズは、その衣装合わせに来ているのだった。周囲は女性ばかりで、なんとなく男の自分は場違い感があるが、それでも自分が選ばれたことが嬉しいし、単に可愛いもので溢れているその空間が好ましく、キラキラと輝いて見え、何もかもが新鮮であった。
おのぼりさんと言われても仕方ないほど視線をあちこちに遣っていたユズだったが、ふと、先に来ていた人物を見て、ぽぅと頬を赤らめた。
「キツくないですか?」
「──大丈夫です」
その姿は飽きるほど毎日見ている。けれど、飽きることはない。いつでも見ていたし、できるなら、丸一日側で眺めていたいと思うほどで……。
「キュウくん、かっこいい」
ユズのその呟きが聞こえたのか。スタイリストと話をしていたキュウが、こちらを見た。
──そう、ランウェイを歩くのはユズだけではないのである。サンセプを代表としてユズと、キュウが選ばれたのだ。
「キュウ、ごめんね。ユズの撮影が長引いて。一人で大丈夫だった?」
「はい、問題ないです」
立花は普段と変わらずキュウに近づいていったが、ユズは足を止めてしまった。
──かっこいい、堪らなく、かっこいい。近付けない、近付いたら鼻血が出そう!
「ユズ?」
「! あ……」
だが、キュウの方から距離を詰められてしまった。
「大丈夫? 撮影、疲れた?」
「う、ううん、平気っ」
「うん。どう? 僕、これを着るんだけど」
腕を小さく広げ、彼は見つめてくる。
残念ながら立花はスタッフと話しており、助けは求められないようである。
異様に渇く口をなんとか動かし、ユズは感想を述べた。
「かっ……かっこいいよ、王子様みたい」
「王子様……」
キュウが身に纏っているのは、スーツのようだった。色は青みがかった黒で、ジャケットの丈が後ろだけ少し長い。すらっとした細身のパンツがよく似合っていて、蝶ネクタイと呼ばれることが多い黒のボウタイも、彼に馴染んでいる。まるで、その衣装がキュウの為にあるようだ。これで髪までセットされたら、あまりの格好良さにユズは鼻血どころか卒倒してしまうかもしれない。
「王子様か」
しかし、キュウはユズの評価を気にしているようで、何かを考え込んでいる。
「キュウくん? どうしたの? ボク、なんか変なこと言った?」
「いや……王子様は僕の役目じゃないから」
「? あ、キュウくん」
キュウは去っていってしまう。
入れ替わるように、スタッフと話していた立花が戻ってきた。
「ユズ、今から衣装合わせするよ」
「は、はい!」
──何か悪いことをしてしまったのだろうか。
キュウと話したかったが、仕事である。なんとか頭を切り替えて、ユズの担当をしてくれるという男性スタイリストに笑顔で挨拶をした。片隅ではまだキュウの表情がチラついていたが。
次の瞬間には忘れた。
「ユズさんにはこれを着てもらいます」
「え」
「俺も手伝うんで、まずはサイズチェックしちゃいましょう!」
「……??」
何故ならば、ユズに、と用意されていた衣装が、純白のドレス──ウェディングドレスだったからである。
* * *
「あの……。これ、間違ってませんか?」
「いえ! 大丈夫です! バッチリ! お似合いです!」
「はあ……」
仕事である。仕事であるからにはいつで全力で、最大限自分が持っている力を出すというのがユズの信条である。
だが、今回ばかりは戸惑いを隠せないし、混乱した。できるなら、放り出してしまいたい。
「でも、男のボクがこれを着たらダメなんじゃないですか……?」
真っ白なドレス、一生に一度の女性の憧れ、結婚式でしか着れない、ウェディングドレス。色味はないのに豪華に感じるのは、ところどころにあしらわれたパールと、細かい刺繍のお陰だろう。レースもふんだんに使われ、足元でふんわりと大きく広がっている。
「大丈夫ですよ」
しかし、男性スタイリストはユズの不安をよそに笑顔でテキパキと仕事をこなしていく。
「結構、重いでしょ。ここにベールも頭の上に乗るんだから、女性って大変ですよねぇ」
「は、はぁ……」
「ユズさん、見た目が中性的だから本当にお似合いです。今回の企画、成功すると思います! 俺の用意した衣装もバッチリだ」
その場でスキップをし始めるのではないかと思うほど上機嫌な男性スタイリストは、紙にペンを走らせながら、時折ドレスに触れて、うぅむと唸っている。
「もうちょっと腰引き締めた方がいいかな……、ユズさん、今はキツくないですか?」
「はい」
「じゃ、ちょっとここで試しに締めちゃいますね。キツかったら言ってください」
「……はい」
逃げることはできそうにない。
男がウェディングドレスを着る。それだけでも憂鬱なのに、その姿を大勢の観客の前で披露するというのか。女性ばかりが出場するファッションショーで、女性を差し抜き、男の自分が。
この先、起こりかねないことを想像して、ユズの胃はきゅっと縮んだ。
けれど。自分は酷く現金だと思う。
「ユズ」
聞き間違えようもない、大好きな声音。
頭だけをそちらへ向けると、先程の衣装に加え、新たに黒の手袋を嵌めているキュウの姿があった。
──やっぱり格好いい!
内心、震え上がるが、今の自分の格好を思い出し、慌てた。
「あ、わ……きゅ、キュウくん、そのっ」
「似合ってるね」
「……、……」
その一言。お世辞でもあり得そうな、ありふれた言葉なのに。
キュウが言うだけで、それはユズにとってかけがえのないものになる。
「ユズ、可愛い」
「っ!」
そう、現金なのだ。
キュウに褒められただけで、この格好が好きになる。
「わあ!」
いつの間にか立花まで側に来ていた。ユズとキュウを交互に見つめ、嬉しそうな顔をする。
「凄いっ、二人とも似合ってる。これは話題になること間違いなしだね! いやー、理想の夫婦だ」
「え……夫婦?」
「あ。ごめん。こんな言い方は嫌だかな。でも凄く似合ってる、可愛いしかっこいい。二人が揃って歩いてるところを想像するとなんだか泣けちゃうなぁ」
「た、立花さん?」
一体、何を想像しているというのか。
立花は感無量といったふうに涙ぐみ、それを見ていた男性スタイリストも確かにと頷いている。
「ど、どういうこと……?」
戸惑いに戸惑いを重ねていると、キュウが言った。
「ユズ、もしかして聞かされてない?」
「え?」
「ユズと僕、一緒にランウェイを歩くんだよ」
「……一緒……?」
「うん」
「この衣装、着て?」
「うん」
躊躇いもなく頷かれ、ユズは焦る。
「ボっ、ボクがウェディングドレスで、キュウくんが……スーツ?」
「……スーツというより、タキシード、だと思う。僕、新郎役だから」
「し、新郎?」
「うん」
「ち、ちなみにボクは……?」
「新婦でしょ」
* * *
「ご、ごめん、ユズくん。まさか、そんなにも嫌がるとは思ってなくて」
できる男、立花がおろおろとした態度でそう言う。
「違うんです……」
ウェディングドレスを脱ぎ、休憩に入ったユズは、人気のない廊下の椅子に腰掛け、顔を手で覆った。
「嫌とかじゃない」
「じゃ、じゃあ?」
「……違うけど」
もわもわ、と脳裏にタキシード姿のキュウが浮かぶ。
「はぅっ!」
「どっどうしたの?!」
「苦しい……っ」
「え!? だ、大丈夫?!」
胸辺りの服をぎゅっと握り、蹲る。
そのせいで立花に心配をかけてしまうが、どうしようもなかった。
だって……だって──!
「……ごめんね、ユズくん。そんなに嫌だとは思わなくて……僕はマネージャー失格かもしれない。楽しい仕事をしてほしいって思ってたけど……」
「はぁ」
「ユズくん、今からじゃ話を断れないから頑張ってもらうしか──」
「ありがとうございます、立花さん……!」
「いや僕も本当申し訳な……、え?」
「キュウくんかっこいい……!!」
いやん、と恥じらう乙女の如く、ユズは悶える。
だって──かっこよすぎて、直視もできないぐらいなのだ。正直、凝視したいけれど、心臓が持たない。
「かっこよすぎて死にそう……」
「え? ゆ、ユズくん?」
「ありがとう、立花さん……!」
「だ……大丈夫?」
「……大丈夫だよ」
顔から手を離し、心配顔の立花を見上げる。
「ユズくん」
「どうしてこの仕事の依頼が来たの?」
「え、えっと」
「ボクがウェディングドレスを着るのは可愛いからってよくないと思うけど、キュウくんがタキシードを着るのは大賛成」
「は、はあ」
「……ありがと」
「? つ、つまり、この仕事、嫌じゃないってこと? で、いいの?」
「うん。頑張ってやるよ」
「よ、良かったぁ。じゃあ、ちょっと僕はスタッフさんと話してくるから、ここにいてね」
「はーい」
返事をし、立花が去っていくのを見つめて、ふぅと息を吐き出す。
脳裏にちらつくのは、強く焼きついた美しい男の姿。一生で一度は見ることになるだろう、未来の姿。
想像通り、彼はこの世の誰よりもかっこよかった。
「ユズ」
「!」
はっと顔を向ければ、彼がいた。キュウだ。
「な、なん……っ」
目に悪いことに、キュウはタキシードを着たままだった。
それだけでもユズにとっては心臓に負担がかかるというのに──今日は命日らしい──ストレートだった髪がオシャレにスタイリングされていて……雄 味 が増していた。
「なんだ、ユズはもう脱いじゃったの?」
そんなことを言って、普通に隣に腰を下ろしてくる。
その振動とか、空気が揺れていい匂いが香ってくるとか、あ、少し腕が触れたとか──
「〜〜っ」
いっぱいいっぱいだ。
「どう? 髪もやってもらったんだけど」
「押し倒されたいです」
「え?」
「ううん、なんでもない」
危ない、本音が口から飛び出た。うっかり聞かれでもしたらどう言い訳しようか。
「その髪、かっこいいね」
「そう? 王子様感、消えた?」
「え……」
王子様みたい。
そう言えば、ユズがそう言ってからのキュウの様子がおかしかったのだ。
思い出して、ユズは冷静に努めて彼を視界に入れた。
黒のタキシードに同色のボウタイ。白のシャツが魅力的で、動悸がして視線を下げていけば、本来は綺麗な肌が見えるだろうに、そこは皮の手袋で隠されていて。ぴったり肌にくっついていて、なにやら妙な気分になる。すらりと長い足が緩やかに開かれているのもいいし、怖いぐらいに似合っている。
そして、セットされた髪だ。襟足の長さが伸びているところを見るに、付け毛なのだろう。毛先が外側に跳ねており、無造作ながらも緻密に築かれていて、プロの仕事だと分かる。
「サンセプはアイドルだけど、王子様じゃないでしょ。だから、ユズに王子様っぽいって言われて、ちょっと変えてみた」
「あ」
「手袋をして、狼をイメージした」
「お、狼?」
「うん。スタイリストさんのおすすめ」
「なるほど……」
「よくない?」
「いい! ……すごく、いいよ。サンセプのイメージに合ってると、思う」
「そう? よかった」
──あ、笑った。
胸が、痛くなる。
「うん、」
甘い痛みだ。
「吸血鬼みたい」
「はは、吸血鬼」
「うん」
「いいね、吸血鬼。ユズの血は甘いかな? 水よりも濃い?」
「わ、わかんな──」
あ。
微笑んだままのキュウが目を伏せ、赤い唇を寄せてくる。隙間から真っ赤な舌が、見えた気がした。
「っ」
もしかしてこのまま噛み付かれてしまうのだろうか。
怯えた刹那、ふふっと首に吐息がかかる。
「ユズ」
優しい声音で呼ばれる。
「キュウ、くん」
──夢みたいだ。これはたぶん、
「ユズ、呼ばれてるよ」
ぱちり。電気が消えるみたいに夢が醒める。
「ユズくん! ちょっといい?」
「あ……はいっ! ……ごめん、キュウくん。ボク、」
「いってらっしゃい」
「っ。い、行ってきます!」
たぶん、アイドルを好きなったファンの気分なのだ。
* * *
ウェディングドレスを着て、ランウェイをタキシード姿のキュウと並んで歩く。
ユズに与えられた仕事は、こうだ。その前に大事な新曲お披露目があったが、正直、心ここに在らずだった。ミスはしなかった。けれど、ファンサービスはあまりできた気がしない。
だって、その後にキュウとのランウェイが控えているのだ。冷静でいれるわけがない。
しかし──その心が躍る様とは裏腹に、現実は厳しかった。
“彼女達”の嫉妬は……思っていたよりも。
「なんだよ、これ」
女の子なら誰でも憧れるだろう、純白の衣装。衣装合わせの時に着た、ユズの為の、ユズに合わせられたウェディングドレス。
しかし気付けばそれは、その純潔を汚されていた。
それを一番に発見したケィは驚いた顔をしていたが、だんだんと事態の深刻さを理解していったのだろう。表情が焦りに変わり、ユズよりも悲壮な顔を向けてきた。
「ユズ、おいこれ……」
「……やられちゃったかぁ」
「は?」
「想像してた。男のボクがウェディングドレスを着るって知った時から、こういうことが起こるんじゃないかって」
「おい、ユズ──んな暢気なこと言ってる場合じゃないだろ、オマエとキュウの出番はこれから、」
「知ってるよ!」
「っ……ユズ」
「知ってる。ボクが冷静だって思う? それならよかった、頑張って冷静でいようとしてるんだよ」
言いながら、徐々に冷静でいられなくなっていくのをユズは自分で感じ取っていた。
予想はしていた。嫌がらせをされるのではないか、と。
ウェディングドレスを男が着るのだ。モデルからしたら、なんでと思うのも無理はないし、新人アイドルにしては大役だ。彼女達の仕事を奪っていることになるのかもしれない。そもそも、ガールズランウェイがその名の通り、女の子の祭典なのだ。そこに男の自分が出場すること自体、何かの間違いで──。
「ユズ」
「!」
いつものようにキュウが名前を呼んだ。けれど、会いたくはなかったと思う。
本来、女の子が着る衣装に浮かれていた自分が受けるべき報いを受けた姿など、キュウには知られたくない。
だが、ケィが事情を話してしまう。
そんなことをしていると、騒ぎを聞きつけたメンバーとスタッフ、立花まで集まってくる。近寄ってこないのは、美しく着飾った女達だけだった。
途端、恥ずかしくなる。何も考えず、自分の感情に素直になって、ウェディングドレスを着るつもりだった自分が。
──見ないで……見ないでほしい。
「大丈夫だよ」
「っ」
耳にそんな独り善がりな幻聴が聞こえる。
そう言ってほしいだけだ。大丈夫。そう言って守ってほしいだけ……。
「ユズ」
「!」
キュウがしっかりとこちらを見ていた。
「ぇ」
「いいきっかけだ」
「キュウ、くん?」
「加藤さん」
「──は、はいっ」
「少しいいですか」
「はい、なんでしょうか」
「あの、──」
キュウはそれから男性スタイリストと何かを話し合い、汚されたウェディングドレスを手に取った。
「ユズ」
もう一度、言い聞かせるように。
「大丈夫だから。ちゃんとメイクしてもらってね」
「あ……で、でも、キュウくん」
「いいね? 僕達は、一度引き受けた仕事を疎かにはしない。そうでしょ」
「キュウくん……」
「これは僕と加藤さんに任せて」
その言葉に、加藤という男性スタイリストは頷いて見せた。
「うん。キュウくんの案はいいと思うんだ。なんとか形にできるよう頑張ってみるよ」
そう笑顔で言ってくれる。
「ほら、ユズ。プロがこう言ってくれてるんだよ。僕達は、それに応えなくちゃダメでしょ。みんなで作ってきたものを、お客さんが待ってるものを壊すのは、ダメでしょ」
その瞬間、ちらりとキュウの瞳がどこかに向けられたのをユズは見た。だが、それがどこかなんて関係なかった。
キュウの言葉が、大丈夫というその自信が、ユズを気丈にする。
「う、ん……わかった」
首を縦に振ると、綺麗な笑顔を彼はユズにだけ見せてくれた。
「大丈夫つったって、あれ、どうすんだよ」
ケィの言うことはもっともだ。
ユズは見ただけだが、白い衣装にあれだけの色がついてしまったら、もうどうすることもできないに違いない。
しかし、信じようと思う、キュウを。何より、せっかく大好きなキュウと並んで歩けるのだ。胸を張って。
その場を奪われるのは嫌だ。しがみつくんだ、みっともなくてもいい。陰口を叩かれようと構わない。彼女達は元よりユズの視界に映っていないのだから。
「ユズさん、こちらに来ていただけますか」
「はい」
ユズは、キュウのことしか見ていないのだから。
* * *
衣装が汚れていた──誰も何も言わなかったが、犯人がいることは誰が見ても明らかだった──ことが発覚したのが、出番の約一時間前。どうせ時間を無駄に使うだけで、出場を諦めるだろうと何人かは思っていたかもしれない。けれど。
「ユズさん、衣装が届きましたよ!」
女性スタッフが急いで持ってきた衣装を見て、ユズは思わず笑ってしまった。どうしてあれだけキュウが自信満々だったのか、分かってしまったからだ。
そして、サンセプとして、これからどういうふうに活動していくかも、教えてもらったような気がした。
「そうだよね、キュウくん」
ユズは小さく呟き、
「あのっ……着るの手伝ってもらえますか?」
椅子から立ち上がった。
「──ねぇ、サンセプのキュウ出るんだよね?」
「うん、そのはず。ユズと一緒にランウェイを歩くって……あ、出てきた!」
「え? ……あれって」
数分前、舞台袖。派手なBGMと光が乱舞する舞台を目の前に、ユズの緊張感は最大限に高まっていた。
スタッフが忙しそうにし、入れ替わり立ち替わり、着飾ったモデル達が光を浴び、闇に消えていく。
「次、行きます」
ユズの番が来た。
「ユズ」
隣に立つキュウが、ユズにしか聞こえない声量で言う。
「可愛いユズをみんなに見せに行くよ」
「う、うん。キュウくんのかっこいい姿もみんなに見せる」
ふ、っと笑う気配。
「お願いします!」
スタッフの手によって厚いカーテンが開かれ、熱気と歓声が肌を刺激した。足が震える。だが、一歩踏み出した時、世界が変わったように──。
みんなが見ている、ユズを、キュウを。
歓声が止まない。その場の空気から、みんなが驚いていることが伝わってくる。
それはそうだろう。ユズだって、一度は納得し着ている今でも、驚きはあるし、それ以上に興奮しているのだから。
純白のウェディングドレス──汚されたそれは──漆黒へと、変身を遂げている。
『そ、染めたぁ!?』
『うん』
『ど、どうやって……まさか、墨汁……?』
『違うよ。ちゃんとした衣装用の塗料。時間がなかったから荒業だけど、もうこの衣装は僕のものだから何しても大丈夫』
『え……?』
『だから、安心して。ユズは歩いて魅せることに集中するんだよ』
「ユズー!!」
「かわいい!!」
「似合ってるよ!」
「きゃああああっ」
熱いライトに照らされたユズとキュウを見て、悲鳴にも似た歓声が会場内を轟かせる。今日一番の歓声であることは、謙遜したいけれど、できないほどに明らかだった。
みんなが舞台上に向かって手を伸ばしている。手に触れないはずなのに、伸ばさずにはいられないという興奮が伝わってくる。
染料で白から黒くなったウェディングドレスを着、狼をイメージしたというキュウのタキシード姿と並べば、不思議と一つの空間ができあがった。
聖なる結婚式が瞬く間に闇の儀式へ。
「少し、やりすぎたか」
「うん……でも、みんなが見てる」
華やかな会場が、ユズ達の雰囲気に合わせて色を変えていく。もしかしたらそれまで
モデル達が築き上げた雰囲気をぶち壊してしまっているのかもしれない。けれど。
「……、……っ」
鳥肌が立つ。止まらない。キュウの腕に絡めた手が震える。武者震いのような……言葉にできない感情が、自分の中で渦巻き、思わず、
「ぅぁ……」
声が出てしまった。
もうすぐランウェイの先端に辿り着く。
……もうすぐ、終わるのか。
早くも、ユズは舞台の幕が下りてしまうことに寂しさを覚えていた。
不安でいっぱいで、嫌がらせをされたことに本当は少し、気後れしていた。やっぱりこんなところに来るべきではなかったと。
花嫁は女の子の憧れだ。キュウの隣に立つことも、もしかしたら──……。
終わってほしくない。キュウの隣に立つこと、キュウの花嫁であること。
優越感と充足感が、ユズを幸せにする。
大好きなキュウとのランウェイ。──終わってしまう。
ランウェイの先に辿り着き、高まっていた会場の興奮は最高潮に達しているようだった。
あとはここで決めポーズをして、くるりと反転し、帰るだけだ。
ドレスの裾を踏まないよう、気を付けて。
ライトが熱い、絡めた手も熱を持っている。片手に握った花が萎れないか、ふと気になった。
「ユズ」
その意識の逸れを咎めるように、キュウが呼んでくる。
「な、」
なに?
舞台上だけれど答えそうになって。
次の瞬間、
「え」
絡めていない手を掴まれ、衣装に合わせて色の濃い花で纏められたブーケが顔の前に固定される。
そう、まるで、何かを隠すように。
「……、……」
「……」
「…………っ?!」
刹那、割れんばかりの黄色い声が鼓膜を劈いた。
「……」
「……」
悲鳴だ。最早それは喜びや驚きといった、既定の感情では収まらないほどの。
「……っ、」
「……」
──離れていく、キュウの顔が。狼っぽい、オスっぽい、顔が。
「なに、して……」
強引に反転させられる。
早く掃けなければ。時間が止まったように思えても、ショーはまだ続いていて、後続のモデルたちがウォーキングしているのだ。早くしないと邪魔になってしまう。見せ場を譲らないと──。
(あ……ブーケ、投げるの忘れてる……)
手に残った瑞々しい花弁の集まりを見つめる。
それから隣にいるキュウ見上げた。
彼は、真っ直ぐ前を見つめていた。冷たいぐらい、ユズに何も思わせない。
さっきのは? どういう意味? ただの演出? 確かに、結婚式なら必須だろうけれど。
「……」
「……」
会話はない。
だが、不思議と震えはなくなっていた。
さっきのは、緊張感を解してくれる為?
──みんなは、なんて言うかな? さっきのを見て、キュウに迷惑かからない?
聞きたいことがたくさんあるのに、光はユズ達を照らさなくなっていく。夢はここで終わりだと言うように。
しかし、夢でないことはユズが一番よく分かっていた。
唇に残る感触は、酷く柔らかくて、一生夢に見るだろうからだ。
* * *
「──はあぁ、楽しかったぁ。みんな可愛いし、洋服も最高に可愛かった!」
「ねっ、来てよかった!」
「……でも、あれさ」
「ああ、あれね」
「本当に、してたのかな」
「どうだろう……ブーケで隠れてたから、よく見えなかった」
「うん。演出だって変わってるけどさ……」
「うん……」
「……さいっっこうだったぁ!!」
* * *
燃え尽きたようだった。
出番が終わり、衣装を脱ぎ、化粧を落とすと、どっと疲れがやって来て。スタッフに挨拶をし、良かったと褒めの言葉を貰えば、もうダメだった。
ユズは、充てがわれた楽屋で、魂が抜け落ちたように椅子に腰掛けていた。
「……はぁ」
しばらくすると、楽屋の扉が開き、マネージャーの立花が顔を見せた。
「ユズくん、帰るよ」
「……はぁい」
怠さを感じ始めた体に鞭打ち、立ち上がる。
ふいっと上げた視線が、メンバーを捉える。
「なんだよーユズ、疲れてんの?」
「それは疲れるでしょう。初めてのことですし、ライブの後にウォーキングなんて慣れないことをしたんですよ?」
コアとフールがそんな会話をする。
だが、ユズの意識は、キュウに奪われたままだ。
そうだと言うのに、彼は暢気に欠伸を噛み殺していた。
最後列に加わり、帰路につく。
擦れ違う人全員に別れの挨拶をし、睨んでくるモデルもいたが、ユズの意識は彼女達にはなかった。
あるのは──。
「ユズ」
緩慢と顔を上げる。
と、隣にキュウが立っていた。メンバーは気にした様子もなくそれぞれ会話を楽しみ、今日のことを語り合っている。楽しかったとかもう一回やりたいとか、聞こえてくる。
「ユズ」
もう一度呼ばれ、返事していなかったことに気付いた。
「あ、うん、なに?」
慌てて答えれば、キュウが顔を覗き込むようにしてきた。
「っ」
すれば、まざまざと先程の情景、心象が蘇る。
「ユズ?」
「う、うん、聞いてるよ」
「さっきキスしたのは、」
「ふぇ」
「?」
「……ううん」
つい、声が出てしまった。
「ごめん……びっくりして……そんな直球に言われると、思わなかった」
「うん」
「……」
前方の騒がしさとは裏腹に、静かな沈黙が二人の間に満ちる。
その静寂を破ったのは、ユズの方であった。
「どうして、さっき、キスなんかしたの?」
「可愛かったから」
「!?」
「ユズが、可愛かったから」
「か、可愛かったら誰にでもするの?」
言いながら、自分は何を言っているのだと思う。
けれど、確かめたい心が逸って止められない。
「キュウくんは、自分で思ってるよりも何倍もモテるんだからね。何も考えないですると、後悔する──」
「後悔なんてしない」
自分では止められないのに、キュウだけは、止めてしまう。キュウだから。
「僕は、自分のすることに後悔なんてしない。いつだって本気だし、本音だし、それが自分のやりたいことだよ」
「……やりたいこと? ボクにキスすることが……?」
「うん」
「そんな……、こまる」
「ごめん。でも、あの時、あの時のユズが誰よりも可愛いかったんだ」
「演出のつもりじゃなかったの? みんな、演出だって思ってる。本当にキスしたなんて……思ってないよ」
不意に、アンドと目が合った。だが、彼はユズに微笑みかけると会話に戻ってしまう。誰一人、ユズとキュウのやり取りに興味を持っていない。彼らだって見ていただろう。あのランウェイを。疑惑を疑惑のまま放っておくのか?
「でも、唇はくっついた」
言葉に、ユズは弾かれたようにキュウを視界に戻す。
「僕は、ユズの感触、したよ?」
「ぼっ……ボクだってしたよっ、キュウくんは言葉が直接すぎ……っ」
「他の子を可愛いと思っても、僕はキスしない。ユズだからしたんだと思う。初めてだからよく分からない、」
「初めて!? 初めてだったのっ?」
「うん」
「な……はっ、初めてを簡単にボクにくれないでよ!」
「……あ。ごめん……重たい?」
「ち、ちが……、っ、ああもう!」
「ユズ?」
「もういいや、細かいことは! 盛り上がったんだし、いいや!」
キュウが首を傾げる。そんな姿もかっこいいと思った。可愛くはない、ユズにとってキュウはどんな時もかっこいい。
彼の腕に手を絡め、遅れていたメンバーとの距離を詰める。
車に乗るまでの短い時間でもいい、まだこうしていたい。
その思いが伝わったのか。
「なあ、このあと、みんなで飯食べに行かね?」
ケィが提案をしてくる。
「え、ご飯? 宿舎で食べないの?」
ユズの問いに、コアが声を上げた。
「今日は、特別じゃん。だから特別なもの、食べに行こう」
「あ……うん、いいけど」
「キュウはどうですか?」
「うん」
フールの確認にキュウが即答する。
「じゃあ、決まりですね。あとは何を食べるかですが」
「俺は、いい」
そう言ったのは、ギンだった。
纏まりかけていた予定に、突如ヒビが入る。
「どうして? なにか用事があるの?」
聞くと、彼は綺麗な名前の由来にもなった銀色の長髪を揺らして頷く。
「美容院、予約入れてる」
「美容院? そんなの今度にすればいいじゃねぇの」
ケィの言葉には首を振る。
「無理言って、営業時間外に予約を入れてるんだ。迷惑はかけられない」
「あー、もう十時か」
「だから、今日はごめん」
事情があるなら仕方ない。
「んじゃあ、今日は大人しく家に帰るか」
「そうだね」
リーダーであるアンドが同意を示して、外食案は却下された。
「え、でも夕食担当誰だっけ?」
「ケィ、貴方ですよ」
「げぇ! 最悪! ……ラーメンでいっか」
遅めの夕食は、即席麺らしい。
だが、それでもいいとユズは思い、キュウを引っ張ったまま、列の先頭に躍り出た。
「じゃあみんなで帰って食べよう! ギンくんも、帰ってきたらちゃんと一緒に食べるんだよ?」
「ああ。豚骨がいい。早めに戻る」
「キュウくんは? なににする?」
「……塩」
「じゃあボクも塩にしよー」
「私は醤油でお願いします」
「おれはー、みそ!」
「はいはい、作ればいいんだろ、作れば。オレがやってやんよ。アンド、オマエは」
「うーん、俺は……醤油、かな」
「マネージャーは?」
「えっ」
それまで微笑ましそうについてきていた立花が途端に瞬きをする。
「アンタも食べるだろ?」
「ぼ、僕もいいの?」
「当たり前ですよ、立花さん。貴方がこの仕事を貰ってきてくれなかったら、今日はないんですから」
「……みんな」
「あーっ、マネージャー感動してる?」
「こ、コアくん、見ないでくれ。本当、君達マネージャーになれて、よかった……っ」
そう言って、涙ぐむ立花。
「よしよし、泣き虫なマネージャーも積もる話があるようじゃん。早く帰んぞ」
「うんっ」
──幸せの絶頂にあった。
みんながそれぞれの笑顔を浮かべ、立花は一人泣いていたが、嬉しさでいっぱいだった。
今日が続けばいい。今日みたいな日が一年中続けば、いいのに。
いつの間にか繋いでいた手が温かくて。
一つの賭けでそこに力を込めれば、同じぐらいの強さで返された。
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