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Q7-2
「──うん、大丈夫だよ。なんとか調整できそう」
「すみません、ありがとうございます」
「ううん。これぐらいどうってことないよ。それより、大丈夫? お父さん、大丈夫かな?」
「はい。命に別状はないので。会ったらすぐに帰ってきます」
「ああ、こっちのことは気にしないで。久しぶりに会うでしょう? ゆっくりしておいで」
「……はい」
翌日。アンドは立花に無理を言って、今日のスケジュールを全て白紙にしてもらった。不幸中の幸いなのは、ドラマ撮影がなかったことだ。連日撮影が続いていたので、休養日なのである。
「え、アンドどっか行くの?」
近くにいたコアが会話を耳にしたのだろう、寄ってくる。
「うん。ちょっと家に帰らなきゃいけなくて」
「そうなの? 大変だな!」
「コア、他人事でしょうけど、もっと言い方があるでしょう?」
「えー」
フールもやって来る。
「話は先程立花さんから聞きました。こちらのことは私に任せて行ってきてください」
「あぁ、ありがとう、フール」
「いえ。これもグループを纏める者の務めでしょう」
ふふ、と微笑み、まだ何かを言いたそうなコアを引っ張っていく。
それを見送って、アンドは立花に再度頭を下げた。
「すみません、じゃあ行ってきます」
「はい。気を付けて」
笑顔で送り出され、アンドはそのまま玄関に移動し、靴を履く。リュックサックを背負い、扉に手を伸ばす。
「……」
背後から声をかけてくる者はいなかった。
* * *
昨夜、電話してきたのは、父の秘書を勤めている吉 永 だった。端末画面には父の名前が表示され、父の携帯からかかってきたことを示しているはずだったのに、電話口で応答したのは、父とは違う男だったのである。
それが父のやり方。分かっているはずなのに、腹立たしさを覚えられずにはいられなかった。
その怒りを鎮めながら話を聞けば、父が呼んでいると言うのであった。アンドに──千景に話があると。
どうして父が直接電話してこないのか、吉永を使うのか。問いかけるまでもない事実に、アンドは辟 易 とした。
──父には逆らえない。
それが父本人や吉永の認識で、アンドの認識でもあるからだ。
若い頃に自身で会社を設立し、独自の発想や的確な判断で成功を収めた父は、それからも様々な事業に手を出し、一定の地位を築いている。今では四つの会社の社長を務め、父の一言で数え切れないほどの首を一度に飛ばせるほどの権力を携えている。……だから逆らえない、誰も。
首都近郊にある実家まで、数時間ともかからない。電車とバスを利用し、歩けば難なく着くはずであった。が、宿舎を出たアンドを黒塗りの車が待ち構えていた。嫌な予感はしつつも運転席を確認してみれば、白髪を綺麗に後ろへ撫でつけた優しそうな紳士がアンドに向かって会釈をする。それからドアを開け、外に出てきた。服装は、執事が着る燕尾服。
ちらっと後部座席へ目をやったが、窓ガラスは周囲の景色を映すだけで、中の様子は窺えなかった。
まさか、いるわけがないだろう。
そう思うものの、鼓動は早まる。
「千景様、お迎えにあがりました」
見た目こそ初老の男性だが、その動きは矍鑠としており、衰えは一切感じさせない。だからこそ、吉永は父の秘書を務めていると言えた。動けない人間を父が好意でそばに置いておくとは考えられないからだ。
「吉永さん、どうして……迎えに来てくれるなら電話でそう言ってください。こんな目立つ場所に……困ります」
「これも旦那様からのご命令です」
「でも、ここはみんなと住んでる家なんです。迷惑をかけたら、」
「では、皆さんの為にもお早くお乗りくださいませ」
「……分かったよ」
口調こそは柔和であるが、長年父に仕えると言動まで似てくるのか、アンドに対する態度にそれとなく棘があった。
ドアを開けようとしてくる吉永を制し、アンドは自分で開ける。
その様子を吉永は小さな息を吐いて見逃してくれたが、息が詰まるようだった。
幼い頃は普通だと思っていた、それ。
「旦那様と奥様は、お家の方でお待ちしております」
「……何の用ですか?」
「私 は何とも。直接、窺う他ありません」
「急に、困ります。俺だって仕事があるんです」
「それを旦那様に仰れば宜しいかと」
「……」
──息が詰まる。発車して、遠ざかっていく宿舎に戻りたいと強く思う。キュウと、仲間達といたい。
* * *
実家へ着き、車から降りると、使用人である男女十名ほどが玄関先に並んでアンドを出迎えた。
「──おかえりなさいませ、坊っちゃま」
一音も乱れのない、完璧な挨拶。
「……ただいま」
小さく返し、足早に立ち去ろうとしたところで。
「──千景」
正面の大階段から、アンドを呼ぶ声がした。反射的に後退りしそうになって、何とか自分を制する。
「ようやく帰ったか」
「ただいま帰りました、父さん」
「今すぐ支度をしろ」
「え……? いや、俺、忙しいんです。仕事だって、無理言ってお休みにしてもらって、」
「大事な仕事なら休むことは許されない。だがお前は今ここにいる。ということは、分かるだろう」
「……」
──自分は必要じゃない。
刷り込まれた思考回路が働いて、アンドに疑心暗鬼を植え付ける。
そう、それが父のやり方。分かっている、理解している。
けれど、体は馬鹿みたいに動かなくなり、反抗できなくなる。
父の威厳たっぷりの声音や、立っているだけで周囲を黙らせる威圧感がこちらの存在を押し潰してくるのだ。強い瞳や揺らがない意思を表すような太い眉、体は大きく、柔道経験者ということで万一に暴漢に襲われるようなことがあっても返り討ちにできる実力がある。優れている男だ。一つ欠点を挙げるならば、それは性格だと、アンドは思う。
「早く支度をしろ」
「……はい」
慈悲や優しさ、他人を慮るという意思が欠如した人間。
* * *
使用人や吉永に促されるまま、アンドは数年ぶりに自分の部屋へ足を踏み入れた。掃除はきっちりされているようだが、最後に見たまま、何を変わっていない。今では少し小さく感じるベッドや机。辞書が並び、参考書が積まれたままになっている。勉強しか取り柄がない、と言わんばかりな室内である。一つしかない窓には格子が外側から嵌められ、草花が目に鮮やかな印象を与える中庭を望むことができる。
父の尊大な自己顕示欲を表すように、敷地は広く、家の玄関から敷地を囲む門までは少々歩くのを億劫に感じてしまうほどの距離があった。使用人を雇うぐらいなので、家も屋敷といっても過言ではない。トイレや浴室は無駄にあるし、部屋数も家族や使用人が使っても余る。母自慢の中庭は常に庭師が手入れをしていて、雑草は一本たりともないだろう。
「──千景さん?」
その時、部屋の扉がノックされ、女性のにこやかな声が廊下からした。
「入ってもいいかしら? まだ着替えてる?」
母の声だった。少し耳障りな高い声、覚えている。彼女の唇はいつも赤かった。
「着替えてないよ。入っていい」
「千景さん。まぁ、少し見ない間に背が伸びたんじゃなくて? 久しぶりね」
かちゃり、と扉がゆっくりと開き、おおよそ子持ちの母とは思えない美しい女性が笑う。
「母さん……」
「あら、イヤだわ。昔のように“お母様”と呼んでくれていいのよ? 私はいつまでも千景さんの母なんですから」
「……母さん、何の用?」
「んもう、千景さんは随分と恥ずかしがり屋さんになってしまったのねぇ」
憂いを口にする母の唇は、やはり今日も赤い。五十間近であるのに化粧は濃く、かといって厚塗りというわけではない。アンドから見ても、母は他に引けを取らない美人だ。社交会では幾人もの男性と会話を楽しんでいたし、モテてもいた。しかし、彼女は父しか眼中にないので、不貞の心配もなく、人気者の妻がいるということはステータスにもなると、父は上機嫌だ。
「貴方ももう二十三でしょう? そろそろいい人は見つかったかしら?」
「母さん」
思わず溜め息が出てしまう。
「会って早々、そういう話は嫌だよ。俺はそういうのは自然に任せたいと思ってる。それに、今は、恋人を作るとか考えられない。仕事が楽しいんだ」
「そう」
「ファンに応えることが仕事だから。みんなを裏切られないよ」
「貴方がいる世界って、恋人ができただけで裏切りになるの?」
「アイドルは夢を届ける仕事だから」
「夢ねぇ」
母の思案は止まないようだ。
「母さん、もう話いい? 着替えなくちゃいけないんでしょ」
「あ……そうね。もうすぐ約束の時間になるわ。遅れたら先方に失礼だものね」
「じゃあ、」
「でも、千景さん。私は、夢は人に与えられるものでも見るものでもないと思うの。夢は夢に過ぎない。現実を見るのよ」
「……分かってる」
部屋を出ていく母を最後まで見送らず、扉を閉めた。
その場にアンドは座り込む。自分を抱き抱え、溜め息を押し殺す。
以前までの自分に戻ってしまうような気がした。孤独で、両親に押し潰されそうになって、理想と現実の狭間で更に身動きが取れなくなっていくのだ。
帰ってきたくはなかった。今日も仕事に勤しんで、仲間達と笑い合って……今頃みんなは楽しんでいるだろう。少しでも、アンドがいないことに何か思ってくれているだろうか?
衣装ダンスに掛けられていた服を見遣る。それに着替えろ、というのだろう。
「……ふぅ」
立ち上がり、ハンガーに手をかけた。かかっているのは、三つ揃いのスーツである。
* * *
それからアンドは誰と会話をするでもなく、来た時と同じ車に乗り込んだ。行きと違うのは、両親が同乗していることだ。運転は吉永。父の服装はアンドのものより数段落ち着いた色合いのスーツで、母は踝辺りまで裾がある紺色のアフタヌーンドレスを着用していた。実に格式張った服装だが、それが神上家の普通であった。
だからだ。気付きもしなかった。両親とアンドを乗せた車がどこに向かい、二人がアンドに何をさせようとしているのか。
* * *
車が止まり、吉永の手によってドアが開かれた先には、有名な一流ホテルが聳え立っていた。豪奢な作りである外観から想像できるように、宿泊するにも少々値段はかかり、利用客は比較的富裕層が多い。一階にあるラウンジが人気で、海外で料理長を務めたシェフが腕を振るう料理は絶品だと、食べるものにも口煩い父が絶賛しているほどだ。
わざわざここへ料理を食べに来たのだろうか。
父がやりそうなことに何の不審感も抱いていなかったアンドだが。
「千景さん、こちらよ」
母の導きがラウンジではなく、エレベーターを示し、上階へのボタンを押された瞬間。ふと、嫌な予感は蘇る。
「母さん、どこに行くの?」
「貴方の将来を決めに行くのよ」
「は……? 何、言って……」
「お前は黙ってついてくればいい」
「父さん、」
アンドは眉間に皺を寄せ、二人の有無言わせない言葉に反発しようかと意気込んだ時、エレベーターが上昇を止め、扉が開かれてしまった。そして、
「──神上様、お待ちしておりました。今日はよろしくお願いします」
人の良さそうな笑みを浮かべた夫婦が挨拶をしてきた。
知り合いかと、彼らが誰なのかを探る中、アンドの目はもう一人の存在を見つける。
「──こんにちは。千景さん」
控え目な、雑踏の中ではもしかしたら聞き取れないようなか弱く小さな声。だが、愛らしく、鈴のような声音は不思議とアンドを惹きつけた。彼女がもし歌が上手かったら、人気者になるかもしれない──そんなことを考えてしまう。
「やあ、待たせてしまいましたかな。うちの息子が準備に手間取ってしまいましてね」
「いいえ、いいんです。こんな機会を用意してもらえて、私どもがお礼を言わなければ」
「さあ、早く行きましょう」
夫婦の腰の低い挨拶に気を良くしたのか、父が上機嫌に男性の肩を掴み、歩んでいく。
「千景さんも行きましょう」
足を止めたままのアンドの肩には母の手が添えられ、何が起きようとしているのか分からぬまま、先を行かされる。
先程の女性、というより少女も後をついてくる。夫婦の娘なのだろう。
納得し、父達の後を追い、妙な感覚に囚われた。
なんだろうか、この既視感を覚える光景。二組の夫婦、その子供が一人づつ。
『将来を決めに行くの』
母の言葉が蘇る。
「……」
──自分は馬鹿だ、何故もっと早く気が付かなかったのだろう。
とある部屋の前につき、自然に先頭を歩いていた父が入っていく。それから相手方の夫婦、娘。次はアンドの番。
「母さん」
「千景さん。貴方はお父様の後継者です。婚約者がいなくちゃ。私も安心できないわ」
「そんな、勝手に!」
「勝手なことではないわ。これは貴方が産まれた時から決まっていたことです。貴方は立派に成長し、お父様の会社を継いで、お父様のようになる。そして子供を作って、自分がされてきたことを子供に伝えていく──それを重ねて、子々孫々、繁栄が続いていくのですよ」
母は優しくなどない。父を愛しているが故に、彼女の思考もまた、似たり寄ったりだ。
……アンドは部屋に足を踏み入れるしかなかった。
客室だと思っていた室内にはベッドはなく、部屋の中央に、真っ白なクロスが垂れ下がったテーブルと、椅子が六脚だけあった。それぞれ対面するように三脚づつ。クロスの上には同じく真っ白なお皿と、ナフキンに包まれた銀のカトラリー。
正面には外が見渡せるほどの大きな窓があり、暖かな陽射しが照明のようだ。まるで何かの舞台上であるように。必要なものだけが、そこにあった。
──お見合いだ。両親が用意した、アンドとあの子の……。
「では、皆さん座りましょう。お食事も用意していますのよ。美味しいものでも食べながら、親睦を深めましょう」
うふふ、と母が笑い、相手方の女性も嬉しそうに笑う。父も、男性も、そして娘も──照れたように、アンドに微笑んでくる。
ただ一人、アンドだけが、笑えずにいた。
* * *
席に着くと、何が合図だったのか、料理長本人がやって来て、コース料理の説明を手早くし、退室していった。何度もこのホテルに泊まりに来たことがあるアンドも知らない料理が並んでいくところを見るに、この日の為の特別なコース料理らしいことは明らかだ。それほどまでに両親はこのお見合いに賭けているのか。彼らが笑うたびに、アンドの心は擦り減っていく。
最初は父親同士の仕事の話から始まった。それが規則だとでも言うように、互いの自慢話をし、謙遜して褒める。しかし、どうしてかは分からないが、父の方が尊大で謙遜もあまりそうと聞こえなかったのは……言うまい。
相手は九条と名乗った。やはり会社をいくつも経営している名家である。最近では大きな事業に成功し、神上家に勝らずとも劣らずな、勢いのある名前だ。
それを知った途端、父の考えていることが明白になった。自分を追い越すかもしれない家の令嬢と自身の息子をくっつけることで、事実上の吸収をしようというのだ。
「千景くん、アイドルになったんだってね」
「……、あ」
不意に、話題が変わった。
とうとうお見合いじみてきたと思う隙もなく、上げられた話題に焦燥感が芽生える。
「テレビ見たら千景くんが映っててびっくりしたよ。最近も頑張ってるみたいだね」
「あ……ありがとうございます」
父が嫌う話題なのでは、と反射的に父の機嫌を気にしてしまうところを、九条の棘のない素直な賞賛に気持ちが楽になる。
が、それを許さないのが、父である。
「お恥ずかしい限りですよ。二十三になってもまだ遊び足りないとは」
「いやいや。結構、千景くんのグループは人気があるそうじゃないですか。羨ましい限りです」
にこにこと笑う九条にアンドの緊張感が一旦は落ち着くも、
「あまり褒めないでください」
割り込んできた父の、眉間に皺を寄せ、不愉快さを隠そうともしない口調に嫌な意味で心臓が跳ねた。
「辞めろと言ってるんですがね、なかなかの聞かん坊で」
だが、明らかに曇った父の表情に気付いていないのか、九条は無邪気にも褒め続けてくる。
「辞めるだなんて勿体ない。いいじゃありませんか。アイドルはみんなに勇気や希望といった、明るいものを届ける仕事ですよ」
「九条さん、しかしだね、」
「お前もそう思うだろう? 桜子」
それに加え、席についてからというものの、一度も口を開かない娘に九条は話題を振る。
「あ……えっと」
一気に視線を集め居心地悪そうにしながらも、微笑みは絶やさず、アンドを真っ直ぐ見つめてきて言うのであった。
「素晴らしい、と思います」
「……」
それが純粋な賞賛だと分かったのは、彼女、桜子の顔色が名前を表すように淡く色付いて、その表情がアンドがよく見るものと同じだったからである。ライブなどに足を運んで、アンド達を間近で見ようとするファンと違わなかったから。
「この間、ファッションショーに出演なさっていましたよね? そこで踊っている千景さんを見て、言葉は平凡ですが、本当に、心の底から格好良いのだと思いました。それにラップ、と言いましたっけ? 早口も最高でした。胸が熱くなって、周りの方も懸命に声をかけてらっしゃって……聞こえてないのにと思っていたのですが、その瞬間、貴方がこっちを見た」
「桜子さん……」
「ふふ、おかしいですよね。私の周りにはたくさんの方がいたのに、声援を送ることもできなかった私を見るはずがないのに。確かに、目が合ったと錯覚したのです」
それを聞いて、アンドは自然と言葉を溢れさせていた。
「錯覚なんかじゃ、ありません」
「えっ」
「あ、……えっと、観客席から見るより、ステージからの方がよく見えるんです。それにファンの方と直接会える場所は大切にしようってメンバーと話していて。意識的に、目を合わせるようにしています。だから、桜子さんが目が合ったと感じてくれたなら、それは、凄い嬉しいことです」
「まあ、」
桜子が、恥ずかしそうに口元を手で隠しながらも破顔する。
「そう言ってもらえると、嬉しいですね。たとえ勘違いでも。千景さんは、アイドルが天職ですね!」
「え……」
「だって、どうしたらファンの方をよく喜ばせることができるか、常々考えておられるのでしょう? 素晴らしいです。そう簡単にできることではありませんよ。千景さんは、想像通りお優しい方です」
「……ありがとうございます」
割れかけていた心に、光が灯る。寸前のところで傷は上塗りされ、壊れるのを防いでくれた気がした。
──それが勇気であると気付く前に、アンドは徐に立ち上がり、がばりと九条一家に向けて頭を下げた。
「すみません。俺、アイドルなんです」
「千景!」
父が声を荒らげる。
だが、恐れはしなかった。心には蝋が垂らされて、もともと開いていた傷は塞がれ、父の威圧など跳ね返してしまうものだったから。
「この場は、お見合いで、間違いありませんよね?」
九条が呆気に取られたように瞬きを繰り返しながらも、しっかりと頷く。
「そうだね。桜子と千景くんのお見合いの席だ。神上さんから提案があってね。桜子に聞いてみたら君とぜひ会ってみたいと言うものだから、今日、お見合いすることになったんだ。千景くんは知らせてもらえなかったのかい? その様子だと、そうみたいだね?」
「……はい、すみません。ですが、今日来なかったら、桜子さんがこんな俺でも応援してくれていることを一生知らないままでした。桜子さんには俺よりもっと良い人がいると思います。申し訳ないですが、このお見合いはなかったことにしてください」
「千景!!」
母がヒステリックに叫ぶ。
優雅で和やかな食事の席は突如、終わりを迎えた。
桜子が真っ直ぐ、アンドを見ている。
父がアンドを叱咤し、母が早く席に座り、詫びるよう促してくる。それに九条は微笑みながら気にしないでください、と言ってくれているようだ。
どうしてこうも違うのか。生まれも育ちも違う、けれどお金を持っていることには変わりなくて、同じ人間なのにどうして自分の両親は九条一家のように包容力を有していないのか……。
ふと、思い出す。父方の祖父が、よく小さなアンドに言って聞かせた言葉。
【ノブレス・オブリージュ】
自分は桜子と結婚することはできない。アンドの身はもうアイドルとして作り替えられていて、ファンのものであり、キュウのものなのだ。
そう、キュウだ。キュウ。自分に手を差し伸べ、仲間だと言ってくれる優しく美しい男。包容力も人並み以上に持ち合わせている、美しい怪物。
「失礼します」
これ以上、ここに留まるのは、更に場の混乱を招くだけだと、アンドは足早に部屋を飛び出した。背後から父と母の声が追い縋ってくるが、追いつけまい。母はハイヒールで走った試しもないだろうし、父は肥満体質が仇となってそもそも走ることができない。
「千景様!?」
廊下に吉永が控えていたが、捕まりはしない。
走る、走る。エレベーターを待つのも煩わしく、少し先にある階段で一息に階下まで降りていった。
その時、アンドは新鮮な感情を得た。雛鳥が親元を離れ、巣から羽ばたいていくような、そんな爽快感が──。
* * *
「ッ」
「よくもやってくれたな」
一歩、遅かった。なんとか実家まで帰り着いたものの、アンドが部屋を出たすぐに両親も吉永が運転する車で追ってきたのだろう。自室に置きっぱなしにしていたリュックサックを手に取り、誰にも挨拶することなく──一つ後ろ髪を引かれるような気掛かりがあったものの──立ち去ろうとしていたアンドが玄関先に足先を向けたと同時に、扉は開き、焦った様子の三人が入ってきたのである。
そしてスーツを脱ぎ、私服に身を包むアンドを見つけるなり、父は歩み寄ってきては平手打ちをかましてきたのだ。ばしん、と大きな音が鳴る。
歯を食いしばっていなかったせいで、口内を切ってしまったらしい。鉄の味が、ぬるりとした不快な感触と共に広がり、アンドは父を見た。
「なんだ、その反抗的な目は。お前はいつも私を裏切ってばかりだ。どうしてくれる?!」
「……」
「今日だって、お前の為なんだぞ! 二十三になっても女の一人や二人を抱けないなんて無能にも程がある! それで神上家を継げると思っているのか!」
「俺は、継ぐ気なんて、ない」
「なにぃ?!」
「千景さん! お父様は貴方のことを思って言っていることなのよ? 子供が道に迷ったら、手を引いて導くのが親の務めですもの」
「……」
──ああ、確かに。“こう言われるのは”、少々腹が立つかもしれない。
アンドの脳内に、詰め込んだ台詞が浮き上がる。叩かれた衝撃で頭が一時的におかしくなったかと思うが、アンドの脳は、親の支配から抜け出しただけであった。
それが分かり、すっと冷えていく。
「俺は、神上家を継がない。もう決めたんだ。俺はアイドルとして頂点に立つ。そう仲間と約束したんだ。だから、父さん──」
「もういい、お前には失望した! お前の頭なら一流の大学にだって入れたのに、妙なグループに現を抜かしやがって……、もう二度と顔を見せるな。お前とは縁を切る。神上家にチャラついた人間はいらない!」
「……っ」
「千景さん……」
母が俯く。
「残念だわ」
赤い唇だけが動き、その華奢な肩がすとんと落ちたように見えた。
「貴方には、私も失望しちゃったみたい。ずっと我慢して貴方を育ててきたけれど、どうやら私の子には勝らないみたいね」
「…………、失礼します」
アンドは、巣から旅立った。
* * *
広い玄関先で一連の騒動を見守ることしかできなかった吉永は、せめて自分だけでも、と思い、外へ出て行こうとした。だが、
「お前は誰に仕えている」
「……神上様、ひいては総 一 郎 様です」
主人に咎められ、千景を見送ることは叶わなかった。
主人である総一郎は忌々しげに舌打ちをし、胸元のポケットから純白のハンカチを取り出して、右手を拭う。息子を殴った手が汚いとでも言うような仕草に、吉永は視線を逸らした。
「あなた」
総一郎の妻である椿 が、猫撫で声にも聞こえる声音で夫にしなだれ掛かる。
「ほら私の言った通りになったでしょう? あの子は、駄目だったのですよ」
「ああ。そうだな」
腹立ちが収まっていないのか、普段は溺愛している妻の態度に乗り切れなかったのか。吉永には推測できなかったが、総一郎の返答は荒々しい。
「でも、大丈夫。私達にはまだ、いる」
「……」
「早速、準備に入るわ、あなた」
「うむ」
椿が階段を上がっていく。その足取りは、息子一人を失ったばかりの母の歩みではなかった。
後に残された総一郎はハンカチを元の場所に詰め込み、吉永を顧みる。
「吉永。癪ではあるが、九条家にお詫びの品を用意しろ。形はどうであれ、向こうのお嬢さんに恥をかかせてしまっただろうからな」
「はい」
「小さな心が傷ついていないといいが……。まあ、その心配も必要あるまいな。千景の素行を褒めやがって」
「……」
「九条も九条だ。てっきり千景を諭してくれるかと思いきや、この私を諭してきやがった。立場を考えろと言うんだ! 私は大企業の社長だぞ! 九条が小さな会社をいくつか持っているだけで、到底私とは天と地の差があるって言うのに!」
「では、何故、九条様に頼み込んでまでお見合いをしたのですか? もっと同等の御家を選ばれたら宜しゅうございましたでしょうに」
「それじゃあダメだ。九条家を取り込んでこそ、神上の名前は高貴なものになるんだ」
「……さようで」
ダメなのはお前の方だ、と吉永は内心、呟いた。
ようは、怖かったのだ。ここのところ停滞している総一郎の会社とは違い、年々業績を上げている九条家の成長は目覚ましく、神上家に勝るとも劣らない大財閥がその動向に注目している。噂では、九条の会社のスポンサーに名乗りを挙げている財閥もあるという。
「格が違うんだよ、私と九条では」
「はい、そうでございますね」
どちらが格上か、言うまでもない。
「吉永」
「はい、総一郎様」
「手続きを進めろ」
「畏まりました」
雛鳥は親元を離れて、立派に成長する。大空に羽ばたき、風も雨も、関係なく飛んでいく。
「──父様、さっきから煩いんだけど。受験が控えてるっていうのに集中できないじゃないか」
「おお、泉。調子はどうだ?」
──ここにもまた、雛鳥が。
「……今、お兄様がいたんじゃないの?」
「泉、お前に兄などいないよ」
「は、」
「どれ、私直々に勉強を見てやろう」
「……吉永、」
純粋な瞳が吉永を見下ろす。教えろ、と懇願しているようでもあったが、総一郎に命じられたことを手早く済ませなければならなかった。
神上家の長男と“なった”泉の視線から逃れるように低頭し、吉永は立ち去った。
* * *
自分がどうやって宿舎まで帰ったのか、アンドはしっかり覚えていた。実家を飛び出したのはいいものの、都会のように早々タクシーに会えるはずもなく。バス停も近くにはないので、歩く羽目になった。痛む頬が父に叩かれたことをずっと証明し、離縁されたことを忘れさせてくれない。
縁切りは、予想していたことだった。父に呼び出され、お見合いをさせられるのだと知った時、アンドはそれを望みもした。
けれど、実際そうなってみると、塞がったはずの傷が柔くなり、じゅくじゅくと化膿しだす。透明で粘度のある液体が、まるで、両親に縋って謝り許してもらいたいと思っている自分の姿のようで……痛い。心が痛くて仕方ない。
一人で歩き、途中、サンセプのアンドだとバレそうになり逃げながら、なんとか公共交通機関を利用し、また歩いて宿舎の辿り着いたのだ。幸いだったのは、リュックサックに帽子とマスクが入っていたことだ。人気者ぶるつもりはないが、ファンが集まって怪我をしたら危ないと、事務所側で正体が露見しそうになった場合、即、姿を晦ますことが規則になっている。それ故に、顔を隠せるアイテムは重要だった。
それに、今の顔をファンに見せるわけにはいかない。アイドルは、いつ何時も気丈に振る舞い、ファンという客に笑顔を届けなくてはならないからだ。
「ただいま……」
草臥 れた体は、家の中に入ると同時に限界に達し、アンドに膝をつかせた。
「はあ」
必然に玄関先で座り込むアンドはキャップを脱ぎ、無造作に放り投げる。
アンドを出迎えたのは、暖かなオレンジの明かりだけだった。照明がついているということは、誰かしらいるはずなのだが。
「……」
無論、誰かが帰ってきたら出迎えなくてはいけないというルールはない。だが、アンドの心は、求めている──。
「──おかえり」
「……」
「アンド」
求めれば、彼は応えてくれる。──なんでだろう?
「アンド? どうしたの? お父さんの容態、あまりよくなかったの?」
「……キュ、ウ」
「うん」
そうであった。今日一日、仕事を休んだのは、父の容態が急変し、実家から呼び出しがあったから、と伝えてあったのだ。
行ってみればどうってことはない、ただ自分のお見合いが準備され、父の政略に利用されそうだっただけだ。
「はは……」
乾いた笑いが口端から漏れる。しかし、マスクに吸収され、くぐもった音が出ただけであった。
──キュウに迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思い、努めて笑顔を浮かべようとしたアンドだったが。
「アンド、血の匂いがする」
そう言ったキュウにぐいっと顔を掴まれ、その指が意外にも強く頬を押し潰した。
「い゛ッ!」
「アンド?」
何もない、普段だったら気にもしない強さだったろう。が、思ったよりも痛んで、我慢できなかった。
その異変にキュウが気付かないはずがない。素早くマスクを取られ、見られてしまう。
「アンド……これ、なに」
一瞬にして彼の声が硬くなり、怒ったような感情を滲ませる。
「何があったの?」
言いながら、今度はお腹に手をやってきて、僅かに押してくる。
キュウの行動に瞳を向けると、
「殴られたの?」
アンドを一切疑っていない瞳が目の前にあり、思わず泣いてしまいそうになった。最近、涙腺が弱くなっているらしい。
「キュウ、」
そして心も弱っていた。アイドルとしての悩み。ドラマ撮影での悩み。家族の悩み。その全てが一気に襲いかかってきたようで、一度は蓋をされた心の傷も再び広がり始めていた。
そんなところにキュウだ。優しく美しい怪物。彼は神に愛されている男だ。歌もダンスも、演技も性格も、何の欠点もない。純粋に羨ましく思う。
──いいな、この男になれたら……いいのに。
「アンド?」
縋り付くように彼を抱き締めると、ゆっくりとだが、背中に腕が回された。
そうされては、もうダメであった。自分よりも小さな肩口に額を押しつけ、最早しがみつく。
「……っ」
「……よしよし」
すれば、キュウは何を思ったのか。優しい手つきでアンドの頭を撫でてくる始末で。
いきなり抱きつかれたのに動揺もせず、戸惑いすら見せないで、それが当たり前だと言うように撫でてくるから、この男はずるいのだ。
「アンド。今は僕しかいないから、まず奥に行こう」
「……」
そう諭されて、小さく頷き返すのが精一杯だった。
* * *
キャップもリュックサックも玄関先に置いたまま、子供のように手を引かれリビングへ連れて行かれた。キュウの言葉通り、他のメンバーはまだ帰っていないらしい。ソファに座り、一度離れたキュウが救急箱を持って隣に座ってくる。
「アンド、こっち向いて。口の中、見せて」
言われた通りに口を開いた。すると、鈍く左頬が痛んでまた顔を顰めてしまった。心が弱っていると、我慢も容易にできなくなってしまうらしい。
顎に手を添え、キュウが咥内を眺める。
「傷、できてる。血は止まってるみたいだけど」
「うん。キュウ、大丈夫だよ、口の中は治療しなくても自然に治る」
「治療するのはそこじゃない」
救急箱から取り出されたのは、熱冷ましシートだった。
「少し顔が腫れてる。冷やさないと。明日、ドラマの撮影でしょ?」
「……行きたくない」
つい本音を呟いてしまうと、キュウはふっと笑ったようで。アンドの弱音を受け止めも非難もしない彼は、透明のフィルムは剥がすと、真剣な顔をして患部を見つめ、丁寧に貼り付けてきた。
「っ、冷た」
しかし、熱でも持っていたのだろうか。瞬時に気持ち良さに浸され、痛みも薄れていく。
「あと怪我してるところはないよね?」
不意に太腿に手が伸びてきて、ぎょっとする。
「だっ、大丈夫。顔だけだから……」
「なら、いい」
救急箱の蓋が閉じられる。
それから沈黙が続いた。キュウは、訳を聞いてこないのだろうか。アンドが口の中を切り、顔を腫らしている理由を。気には、ならないだろうか……。
いや、そうではない。アンドは聞いてほしいのだ。キュウに理由を、どうしてこうなったのか。
「キュウ、話聞いてくれるか?」
問うと、返事がないまま、しかしじっと見つめられて。
いいのだと勝手に解釈をし、アンドは口火を切った。家と両親のこと。今日仕事を休んだ理由。お見合いをさせられたこと。父の秘書である吉永のことや、幼少期のことまで。話始めたら止まらなかった。ずっと見ないふりをしていた感情が溢れ出し、キュウに豪雨の如く浴びせてしまう。
だが、彼は一切嫌な顔をせず、静かに頷いて、アンドが語るに任せてくれた。
関係ない話なのに嫌じゃないだろうか。中学校に上がるまで、出かける時はいってらっしゃいませと頭を下げられ、家に帰ってくればおかえりなさませと頭を下げられることが普通だと思っていたアンドを嫌にはならないだろうか? ……親に見放されたアンドのことを、キュウはどう思っただろう。
少し怖くて、足元を凝視するしかないアンドの耳に、キュウの声は聞こえてきた。
「お疲れ様」
「え……、!」
すっと、体が傾いていく。キュウの方へ、左へ引き寄せるのはキュウの腕ではないか?
状況をいまいち把握できないアンドをよそに、キュウはアンドの体をしっかり抱き寄せ、抱き締めてきたのである。
「……」
「……キュウ?」
特に何も言ってこない。ただ一言、労っただけで彼はシートが貼ってある方とは反対の頬を撫でてくる。
戸惑ってしまう。けれど、それがキュウの優しさだと気付いて、アンドは大人しく彼に身を任せることにした。言ってしまえば、これが自分の求めていたことである。
「キュウ」
「……」
「ありがとう」
「うん」
天に二物以上のものを与えられている男は驕ることなく、ただただアンドを抱き締め続けてくれた。安心した。だからだろう、ぽろっと言葉が転がり出て、それにキュウは答えてくれた。
「俺、リーダーで最年長なのに情けないな……キュウは甘やかし上手だな」
「弟がいるから」
「やっぱり」
「弟が泣くと、僕はいつもこうして抱き締めてあげてた。そうすると、不思議なぐらいすぐ泣き止んで笑ってくれるんだ」
「キュウの弟はキュウが大好きなんだ」
「そう、みたい。……アンドは甘えるのが上手じゃないね」
「えっ、そうかな……? 長男だから」
「弟がいる?」
「うん……。多分、俺が両親の期待を裏切ったから、その分の期待が弟にいってる。話したかったけど、今日、会えなかったな」
「そうか」
キュウの手は頬から頭に移動し、アンドを笑わせた。アンド自身は自信ないが、弟がいるとこうも甘やかし上手になるらしい。
「あ、そうだ。アンドが話すから言いたいこと言えなかった」
「え、な、なに?」
「こうして甘える時は、もっと体をくっつけるんだよ」
「!」
そうして、キュウは半ばアンドを抱き抱えるように残り少ない距離をなくしてきたのだった。
* * *
「──アンドー? これ、オマエの荷物だろ? 玄関先に置きっぱで何してるんだよ、って……どういう状況だ? これは」
仕事を終え、一人帰宅したケィがリビングへ行くと、ソファで二人の男が抱き合っていた。
というとやや語弊があるが、キュウの腕の中にがたいのいいアンドがすっぽりと表せるほどに収まっていたのだ。
「何、どうしたの?」
聞けば、キュウは少し眠そうな目をケィに向けて人差し指を立てる。
「あ?」
「寝てるんだ」
「あぁ……」
静かにしろ、ということらしい。
普段はリーダーとして率先してグループ内を纏めてくれるアンドの異様とも言える姿に興味を覚えたケィは、側まで近寄り、覗き込んだ。
「なんで冷えピタ貼ってんの?」
「叩かれたんだって」
「は? 誰に。まさか撮影現場で?」
一瞬、心臓が早鐘を打つが、キュウは首を否定の形に振る。
「僕から詳しいことは言えない。でも、アンドが誰かを殴ったとかではないから安心して」
「そりゃあ、疑ってないけどさ。コイツに演技でも誰かを殴れるとは思えねぇなぁ」
「あ」
「うん?」
「おかえり、ケィ」
「お、おぅ……ただいま」
「──ただいまーっ!!」
「あ、コアが帰ってきた」
「うるせぇな、疲れて帰ってこいっていうの」
「ふふ」
宿舎が騒がしくなっていく。一人、また一人と帰宅する者がいて。リビングに入ってきては驚いたり、羨ましいと口に出したり、無言で見つめるだけだったり。
その中で、アンドは眠り続けた。悩み事が多く、眠れる時に眠れなかったというのもあるかもしれない。
だが翌日、自室のベッドで起床したアンドは真っ先にキュウへお礼を言いに行った。キュウのお陰で安眠できた、と。
すると彼は、
「お礼なんかいらない。僕達は家族なんだから。僕のそばで眠れたってことは、アンドは僕を家族として認めてくれているからだよ」
三 度 、アンドを助けになるようなことを紡ぎ、笑って見せたのだった。
* * *
九月上旬。ドラマ撮影も残すところ三分の一になった頃、ドラマの初回放送日を迎えた。月曜日、九時。この時ばかりは全員が宿舎にいて、仕事を急ピッチで終わらせてきたと息を乱しやって来た立花を加えて、観賞会が行われることになった。一足先に部屋に行くと逃げようとしたアンドだったが、嬉々としたケィに捕まり、問答無用でテレビの前に座らせられた。変な汗を掻く。後十分、五分……時計の針が九時に近づくにつれて、落ち着かなくなっていく。無駄に体を揺すったり、普段なら気にしない仲間の視線が気になったり。彼らも彼らで、そんなアンドの様子を楽しんで観察している節があるから尚更だ。──後、一分。
「……っふ、あ」
妙な声が出てしまう。三十秒、十秒。コアが満面の笑みを浮かべ、カウントダウンする。
嫌だ、見たくない、自分の黒歴史になるのではないか?
「わああぁぁ……っ」
穴があったら入りたいとはこのことに違いない。
だが、両側を立花、キュウに挟まれてしまえば、逃げることなど最早不可能である。どちらも、みんなが楽しそうにしているのも、原因の一つだ。
「あっ、始まる!」
ユズが声を上げ、テレビ画面がふっと切れ変わる。喧騒的なコマーシャルから、ドラマ本編へ。
本能的に後退しようとするアンドの腕を、キュウが掴んだ。
ドラマの内容は、先述したように、とある一家に降りかかる様々な困難を家族の力を合わせて解決していく物語。主人公は一家の大黒柱である父で、次に重要な役どころは次男の悟だ。アンドが演じる長男の卯月は両親共に仲が良く、家を出て行こうとする次男を止めるストッパー役である。
ドラマが始まると、アンドのことをにやにやと見ていた仲間達もそれぞれ話に集中し始めた。
自分がいつどこで出てくるか分かっている為に、アンドの心臓は爆発寸前だ。刻一刻と近付いてくる。
しかし、不思議と、アンドのその緊張感や高揚感をなくしたものがあった。それは、共演者の演技である。
中でも志葉の演技は群を抜いてアンドを引きつけた。相対するシーンが多いからか。それともそれが志葉が持つ、本来の魅力なのか。
気付けば、誰よりも前のめりで画面を凝視し、半ば自分の演技など眼中になかった。下手なのは自覚しているのだ。演技をしていると、それはどこか演技の範疇にあって必ずしも自然ではないということは理解している。 だが、志葉はどうだ。指先や髪の毛までその時に相応しい動きをしているのではないかと思う。いや、相応しいのではない。それが正解、なのだ。
「……」
「…………」
その日、約一時間の放送が終わった瞬間、仲間達が感想を言い合う中、アンドは無言でリビングを出て自室へ引きこもった。明日の撮影に備え、予習をしようと台本を開いたのである。最初は書き込みばかりで綺麗だった本も、紙自体にヨレが生じるほどの読み込みを示している。
アンドの気持ちをみんなは理解してくれたのだろう。先に無言で引き上げたアンドを呼び戻しにくる者はおらず、静かで落ち着く空間を彼らは用意してくれたようだった。
* * *
それから撮影は怒涛の勢いで進んでいった。監督の怒声にも力と熱が入る。志葉に檄が飛ぶこともあった。
しかし、現場の雰囲気は、アンドがなけなしの勇気でアドリブを入れた時を境に、今では明るくなっていた。演者とスタッフの距離も適度に近く、笑い声も増えてきた印象にある。
そして嬉しい一報が撮影現場に舞い込んできたのは、初回放送の翌日のことであった。
「──えー。視聴率が二桁、取れました」
撮影が始まる前、呼び出された一同に向けて監督が放った言葉である。そのあまりにも重々しい口調に、新参者のアンドは何か良くないことなのかと恐れたが、続いて紡がれた内容に胸の高鳴りを感じられずにはいられなかった。
「今時珍しい、二十パーセントに手が届く数字だ。誇りを持っていい。この作品は、ドラマやテレビの面白さを視聴者に再認識させるものになる。……今日も頑張っていこう!」
* * *
「アンドくん!」
その日の撮影が終わり、立花の送迎を待っていたアンドは、志葉に声をかけられた。
「志葉さん、お疲れ様です」
「お疲れ様っ。今日、この後仕事ってあるの?」
「いえ。このまま家に戻ります」
「そっか。メンバーのみんなと暮らしてるんだっけ?」
「はい」
「大変そうだなぁ」
どこか遠くを見て、独り言のように呟く。
志葉がこうして話しかけてくるのは、今や珍しいことではなかった。
『俺、この作品で助演男優賞狙ってるんだ。負けないから』
この言葉をきっかけに、志葉がよく絡んでくるようになったのだ。俳優にとってはあり得ないようなミスをアンドが犯しても、その場で笑いに変えてくれたり、裏でアドバイスをくれたり。いい先輩になってくれていた。
そんなふうに接してくれているからこそ、アンドもまともに話しかけることができる。
「でも、楽しいですよ。みんなでいると。家事を分担してるんですけど、やっぱ個人の特徴が出てきて」
「へえ。みんな仲良いんだな」
意外、とでも言うように目を丸くする。
「あ、いやさ。俺も昔は仲間とシェアハウスで住んでたりしたんだけど、よかったのは最初だけだったなぁ。家事分担に文句言ったり、女連れ込んだりしてさー。アンドくんのところはそういうのないの? あ、あったら大変か、アイドルだもんな」
「はは……ないですよ。男同士、仲良くしてます」
「ふ〜ん。あ、それで! 今日、一緒に飲みに行かない? もっと話したいなって思ってたんだけど」
「え……俺、ですか?」
「今俺はアンドくんに話しかけています」
半目で真面目に返され、アンドは慌てて言葉を紡いだ。
「お、お誘いはありがたいですが……すみません、マネージャーに迎えに来てもらうことになってるので」
「マネージャーぐらい断ればいいんじゃない?」
「そういうわけには……。あっそれに、メンバーもご飯を用意してくれているので……!」
なんとか断ろうとぎこちない笑みを湛え、穏便に済ませようとする。
「なんだよー。いじめられるとでも思ってんの? 可愛がってるの間違いだからね」
「それは。分かってます」
「……はあ、振られちゃったら仕方ないか。監督でも誘って媚び売るかー」
「媚び、ですか」
「そう。この業界は一と二に媚び、三に人脈、四と五に媚びだからね。覚えておくといいよ!」
「は、はあ」
「じゃあ教えてよ!」
「な、何をですか?」
反射的に身構えるアンドにずいっと体を寄せて、志葉は不敵な笑みを浮かべる。
「メアドでも番号でもいいよ。アンドくんの連絡先、教えて」
* * *
一体、連絡先を手に入れた志葉の目的は何なのかと悶々と考えていると、いつの間にか立花の運転する車がダンスレッスンに使うスタジオの前で止まった。
そこで我に返り、立花の話を上の空で聞いていたことを認識する間もなく、自動で開いた扉からある人物が乗り込んできて驚く。
「キュウっ?」
「お疲れ様」
運転席合わせて十人は乗れるロケバスだが、ジャージ姿のキュウは迷うことなくアンドの隣に座る。
「今まで、ダンスのレッスンだったの?」
「ううん。自主練。気になるところがあったから」
「キュウ君はストイックだよね。雑誌の取材の後、スタジオで降ろしてくれって言われた時は感心する前に心配しちゃったもん」
立花の言葉にキュウは小さく笑って、ふと、こちらを見上げてくる。身長差がある為、座高ももちろん差はあるのだが……。
「っ」
「あのさ、アンド。枕して」
「……。…………はっ?!」
まくら、枕とはあれか、芸能界あるあるの……──と思考を飛躍していくと失言に気付いたのだろう、キュウが言い換える。
「間違えた。枕になって」
「ま……間違え、るな」
「うん、ごめん」
「びっくりした……」
「うん。でも安心して。アンドに枕なんかさせない。立花さんがしろって言っても僕が許さないから」
「ぼっ僕だってそんなこと言わないよ……!」
焦燥感いっぱいに立花が答えるうちに、キュウの頭が傾いで、とん、とアンドの肩にぶつかった。
「キュウ?」
「ちょっと、疲れた。やりすぎ。眠いから、アンドの肩、枕にしたい」
「ぁ、あぁ……そういう……」
やっとキュウの言葉を理解し、アンドは黙る。だが、ふっと香るものがあって話しかけてしまった。
「キュウ、いい匂いがするな」
「うん? あ。踊ってたら汗だくになったから、シャワー浴びた」
「そっか。いつもとは違う匂いがしたから」
「はは。アンド、犬みたい」
「え! 犬……?」
「うん。僕の匂い覚えてるの? ふふ、おかし」
「え……っ」
くすくすと笑い、彼は肩に擦り寄るようにして眠る体勢に入る。
もう、喋らなかった。左肩に感じる重さと温かさがアンドの気持ちをじんわりと和らげて、睡魔を運んできたからだ。
立花もそれを感じたのかもしれない。車の運転がいつにも増して優しいものになり、緩やかな振動がよりアンドを夢の中に誘った。
* * *
クランクインから約四ヶ月。最後のシーンの撮影が終わった。カットの声がかかり、監督がモニターで確認をする。数十秒の沈黙。監督が顔を上げた。
「お疲れ様!」
そこで初めて、監督本来の笑顔を見た気がした。
「やったな!」
志葉が肩に手を回してくる。他の共演者も、みんながアンドを見ていた。
その中で、父役を演じていたベテラン俳優が一歩前に進み出てくる。
「──よく、ここまで頑張ったな」
彼から褒められるのは、これが初めてであった。
それを認識した瞬間、
「……、」
「あ!」
ぽろっと、涙が出てしまったのだった。
志葉が笑う。
「アンド、お前、この世界にもっと貪欲になれ!」
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