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Q9

And side:daily:the young a duck  聖なる前夜祭。文字通り、祭りのような賑わいを見せるメンバー達に気付かれず、こっそりと宿舎を抜け出すのは相当難しかった。  だが今、アンドは、冷たい夜の中を一人で歩いている。  事前にあった電話で宿舎の前には来ないでほしいと伝えた為、落ち合う場所は大通りから一歩外れた道にあるファミレスだ。  雪は三時間ほど降っただけですでに止んでしまったらしい。路面には白の色はなく、虚しくも雨の後のように濡れているだけであった。  積もってくれればよかったのに。  都会に暮らしていると、雪が降るだけでまるで子供がプレゼントを貰った時のような嬉しさを大人でも体感する。積もったら積もったで雪かきなど、雪に慣れていない都会人は足を取られたりと大変だが、やはりそれらに勝る喜びがあるのだ。そんな様子を見て、雪慣れした人は冷たい視線を送ってくるのだろう。  アンドは早くも雪が恋しい。  暗い夜道に煌々と灯る光が、なんだか暖かさを伴っているようで。光に引き寄せられる虫のようにアンドがその分厚い両開きの扉を開くと、ウェイターが近寄ってきて好きな席を選ぶよう言ってきた。夜遅いということもあり、客は疎らだ。待ち合わせであることを伝え、ある人物の姿を探した。自分の高身長が幸いし、すぐに目的の人物を見つけられた。 「吉永さん」  アンドを宿舎から忍び出させたのは、父の秘書、吉永だった。  普段はきっちりと整った、皺一つない燕尾服を着用しているのだが、目の前にいる彼は初老の男性らしい格好をしていた。チェックのシャツに、薄茶のセーター。ノンフレームの丸眼鏡の奥にある瞳は力強い光を放っているが、脇には細身の杖が立て掛けられている。  どう見ても、大財閥の秘書だとは思えない変装っぷりであった。フールがこの変わりようを見たら、変装の参考にしたいと小一時間は彼を拘束しそうだ。  それほど、吉永は馴染んでいた。 「まずは、座りなさいませ」  吉永が対面に着席するよう勧めてくる。  断る理由はなかった。吉永から連絡を貰い、用件を耳にした瞬間から、アンドの覚悟は決まっていたから。  窓に面したテーブル席。硬いソファに腰を下ろし、アンドは冷や水を持ってきたウェイターにホットコーヒーを頼んだ。それから運ばれてくるまで、アンドも吉永も口を開かなかった。  淡々と、感情すらこもっていないような寛ぎを勧める声を聞き、ウェイターが去り。一瞬静かになったところで、ようやく吉永の唇が動いた。 「ファミレスというものは、便利ですな。それにお値段もリーズナブルで。懐にも優しい」 「……そうですね」  害悪のなさそうな優しい男性に化けた吉永は定食を注文したらしく、健康に気を使ったのか、雑穀米を口にして大きく頷いた。 「千景様も何か頼んでは? 会計のことなら気にしないでください。旦那様からこちらが負担するよう仰せつかっていますので」 「そんな……いいです。夜遅くにしっかりしたご飯を食べてしまうと体調を崩す原因になりますし」 「困ったものです。私はがっつり食べているというのに」  本当に困ったというような顔をして、吉永は口を拭くと、隣に置いてあった鞄──小さなショルダーバッグ──から数枚の紙を取り出した。  それをテーブルの上に置く前に手を掲げウェイターを呼び、空の皿を運ばせると几帳面にもテーブルを拭き、紙を広げて見せた。  世間話もせずに、本題に入るところが彼らしいところであった。 「ではまず、こちらの書類を確認していただけますか」  事務的で単調な口調。  何かを期待していたわけではなかったが、アンドは何故か落胆していた。──彼も所詮は父達と同族なのか、と。 「はい」  手元に紙を手繰り寄せ、覗き込む。だが、確認も何もアンドが何かを言って変更されるようなことではない。 【誓約書】  見ないふりもできないほど大きく印字されている。内容は至極、簡潔的であった。  ・神上千景は、その氏名から神上の氏を神上家の当主である総一郎に返還し、名を改めること。  ・千景は今後一切、神上家に関わらないと約束すること。  ・この誓約書をもって、法律的手続きを経たとする。 「承諾なされましたら、サインを」  吉永が紺に金の縁取りをされた万年筆を差し出してくる。  それを受け取りながら、アンドは薄い紙一つで、あれほど世間は切ることが難しいと言っている親子関係が切れるのかと思った。  顔を見せるなと父に言われた瞬間から、行動は早かったように思う。直後に、吉永は父から命を受けたに違いない。一週間も経たないうちに父の意向と誓約書への同意をお願いされたアンドは、今は仕事が忙しいからと、こうして今日会うことになったのだが。  聖なる日の前夜祭。みんなが温かな家で幸せを噛み締めているだろうに、自分は冷たい紙面を前に先程まで確かに潤っていた心がかさついていく様を感じている。 「確かに、受け取りました。……千景さん、どうかお元気で」  寒い冬の夜、ファミレスを出た吉永はそう言ってアンドに一礼をすると、申し訳程度に杖をつきながら姿を夜闇に消していった。 「……はぁ」  吐いた息が白く色付いて空気中に消えていく。それと同時に、アンドの葛藤も消えていくようだった。アンドは、ただの千景になった──。  * * *  宿舎が近付いてきた。仲間達はまだ起きているだろうか、アンドの不在に気付いているだろうか。どうやって誤魔化そう。どうせなら何かを買い出しに出かけたと、コンビニで買い物でもしようか。  一人で歩きながら考え、その方が言い訳もしやすいだろうと思い、元来た道を戻ろうとして、ある影を視認した。 「?」  立ち尽くしているその影は人の形をしていて、真っ直ぐ、アンドの方を見ているようである。 「……」  息を吐き出す。  それが誰なのか、視力のいいアンドはすぐに分かってしまった。いや、視力が悪くても彼の輪郭は記憶しているのかもしれない。 「キュウ、こんなところでなにしてるの」  いつもは彼から声をかけられるので先手を打ってみれば、 「アンドこそ」  少し怒ったような顔をして、美しい男はこちらを見上げてきた。いつから外にいたのだろう。剥き出しの頬と鼻の頭が赤く色付いている。ふっくらと膨らんだ体を見る限り、防寒対策はきっちりしてきたようだが、心配になった。 「アイドルが一人で出歩くものじゃないぞ」 「……それを言ったらアンドもなんだけど」 「俺はほら、襲われても対処できるけど、キュウはそうじゃないだろ? こんなまん丸で。動けないだろ」  キュウの両手を握って万歳をさせる。上がったものの、どこかぎこちない。  すると、彼の唇が不平不満を表した。 「今日は、アンドのお祝いなのにアンドがいなくなったらみんな困る」 「あー、やっぱみんなにバレちゃったか。上手く出てきたつもりだったんだけど」 「僕のことは欺けないよ」 「……」  それはつまり、キュウが初めにアンドの不在に気付いたということだろうか?  握った両手が氷のように冷えていて、申し訳なくなった。 「ごめん、キュウ。何も言わずに抜け出したことは謝るよ。でも、今日だったんだ。今日が、“かんどう”の日だったから」 「感動?」 「……分からないよな、ごめん。キュウ、寒いだろ」 「……?」  自分がしていたマフラーを外し、キュウの長い首に巻きつける。  と、彼はよく分からないと言うように、小首を傾げた。  なんだろう──その仕草がいつもより可愛く思えて、癒された気分になった。 「キュウ、お前、いつもはかっこいいけど、今日可愛く見えるな」 「……なんのつもり?」 「別に他意はない。本当のことだよ。マフラーも、寒そうだから貸してあげる」 「……ありがとう……」  何重にもなった長いマフラーに鼻先を埋めるようにして、キュウが縮こまる。  その姿もやはり愛らしくて、 「キュウ、赤の他人の俺達も家族になれるのかな」  と、絆されたように口にしてしまった。  瞬間、キュウの表情は変わらなくて、ああもしかして悟られていたのだろうかと思う。  それが嫌ではないけれど、申し訳のなさが募った。彼がもしも全てを悟っているのだとしたら、きっと優しい彼はアンドの言葉に対して優しい言葉を紡いでくれるだろうから。  だから、吉永と会った時は保っていた気丈さもぼろぼろと瓦解していくのだ。 「俺、一人になっちゃったよ」  キュウに聞こえるか分からない音量で呟く。構って欲しいと言わんばかりの言動に、アンドは自分で辟易としてしまったが、彼が何も言わないのを理由に、それまで堰き止めていた想いが溢れ落ちていった。 「俺はずっと、幼い頃から親が敷いてくれたレールの上を何も考えずに進んでいたんだ。それが当たり前だって思ってた。けれど退屈で……キュウも知ってるかもしれないけど、友達がオーディションに一緒に来てくれって言わなかったら、今ここにはいないぐらい、俺は父親の会社を継ぐ為に勉強して勉強して、勉強しまくって、七光りだって言われようとも多少は汚い手を使ってでも地位を手に入れてたと思う。将来を約束されてた。……でも。アイドルっていう仕事が楽しいんだ。今が楽しい、キュウやみんなと一緒にいることが凄く楽しくて、生き甲斐にもなってる。みんなでアイドルの頂点に立ちたい、その思いは変わらないし、一番になれるって思ってる、自信があるよ。けどさ……」  捲し立てていっていた言葉を弱く、アンドは俯いた。 「分かっていても、それを望んだとしても現実になると……なんかこう……胸の奥がさ、痛いというか、ぽっかり穴が空いたみたいで……ごめん、キュウ、また俺変なこと言ってるな。……不安なんだ、親と対抗したことでもし、キュウ達に迷惑がかかったら──」  その時、アンドの体に何かがぶつかってきた。 「……キュウ?」  彼を受け止め、顔を確認する。 「アンドは一人じゃない」  キュウは、赤い顔をしながらも──寒いのだろう──顔を覗き込んだアンドの瞳をじっと見つめて言った。 「僕も一人じゃない。みんなも、一人じゃない。仲間がいる、仲間は家族だ。楽しいことも、嫌なことも共有して、笑って泣いてみんなで生きていく。アンド、僕達はちゃんと家族だよ」 「……血が、繋がっていなくても?」 「血が繋がっていないからこそ、家族になれる」  そうでしょ──囁きが聞こえる。  夜の中、誰が通りとも知れない道路の片隅で抱き合う。アイドルである自覚こそ抜け落ちているが、今はキュウの温もりがアンドを真っ直ぐ立たせていた。 「アンドはアンドでいればいい。何があったってアンドでいれば、僕達も僕達でいるんだから。そばにいるんだ。困難なんて乗り越えてこそ、家族でしょ?」 「!」  記憶が封じ込められた箱がすっと開き、文字の羅列が脳内を満たしていく。該当する文言を見つけて。  キュウを抱き締め、力を込めた。 「だから安心しなよ、アンド。僕はどこへも行かない。こうやってアンドの帰りをちゃんと待ってる」 「キュウ……っ」  家族を失い、新たな家族を得た……──なんて、くさい言い回しだろうか。  だが、この男は何度も助けてくれる。ひたひたと忍び寄る闇夜からアンドを見つけ出し、更には手を伸ばして連れ出そうとしてくれる。一緒に行こう、と歩んでくれる。  ──キュウを、みんなを家族と思っていいのだろうか。宿舎を家と、本当に帰る場所なのだと認識してもいいのだろうか? 「っ、ありがと……キュウ」  擦れ合う上着がまるで雪の上を歩く時のような音を奏でる。アンドとキュウの距離だ。隙間を埋めるように彼を抱き寄せて、肩口に額を押し付けた。 「ふふ……うちのリーダーは一番大人なのに、甘えん坊だ」  どこか嬉しそうなその声がいつまでも耳朶に響いてきて、父から勘当され、もう二度と関わるなと拒まれたアンドは本気で、美しいキュウは天使なのだと思ったのだった。  * * *  夜の闇に紛れるようにして歩いていたある男は、妙な現場に遭遇して足を止めた。瞬間、生来持っているセンサーが反応する。  ──これは面白そうだ。  にやり、と犬歯を剥き出しにして狡猾に笑んだ男は、携帯端末を掲げ──シャッターを切った。

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