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Q10
「──ははっ! お前のことなんてめちゃくちゃにしてやる……!」
自分を押し倒す同級生を見上げて、焦るどころか、冷静になっていく心を感じていた。
* * *
今日はサンセプ揃っての撮影だ。女性誌の表紙を飾るということで、朝から全員が気合を入れ、現場に撮影入りした。が。
「──ごめんね〜。前の撮影が押してて、十分だけ時間を頂戴」
撮影スタジオに入ると、すぐにカメラマンの男がそう言った。
「あ、俺達は構いません。今日はよろしくお願いします」
「は〜い、出来るだけ巻くからカッコよくして待ってて!」
ぱちり、とアイドル顔負けのウィンクをした眼鏡のカメラマンは被写体にレンズ先を向ける。
一際明るい場所にいたのは、人気モデルであった。レンズを向けられた瞬間、きゅっと表情が引き締まり、いつどこを切り抜かれてもいいと言わんばかりの自信とオーラを纏う。
「──冴 木 美 乃 、確かデビューしたのはちょうど私達より一年ほど早かったですよね」
邪魔にならないよう端に控え、撮影を見学しているのだが、フールがじっと見つめ言う。
「よく知ってるね、フールくん」
「彼を知らないほど、私は無知じゃありません。ライバル意識だってあります。貴方達だって、そうでしょう?」
「うん。そうだね」
ユズは頷いた。
冴木美乃の人気は止まることを知らず、右肩上がりだ。デビューして三年、各雑誌の表紙を飾り、去年は最も多くの表紙を飾ったということで受賞していた。容姿は言うまでもなく整い、愛らしい笑顔も雄々しい表情もできるとあって女性の人気は絶えない。だが最近では、雄フェロモンを撒き散らした野性的な表現が支持され、出る雑誌、競うように過激になりつつある。それで下品にならないのは、冴木美乃の実力でもあるのだろう。
──美と性の両立。それが、彼の強みに違いない。
シャッター音がスタジオ内に響き、カメラマンの褒め言葉と冴木を煽る言葉が弾丸のように飛んでいく。
みんなが見ていた。メンバーも、スタッフも。スタジオにいる全員が、次々とポージングを決めていく冴木を見つめていた。女性スタッフの中にはうっとりとしている者もいるようだ。
だが、ユズは思う。メンバーも負けないぐらい、かっこいいと──どれだけ冴木が人気でも、キュウが放つ怪しげな雰囲気には勝てない、と。
* * *
「う〜ん、なんだかパッとしないわね」
冴木の撮影が五分で終わり、サンセプの番になって数分。それまで楽しそうに笑顔で写真を撮っていたカメラマンの表情が曇った。
「二番煎じって感じで、気が乗らないわ」
「──は?」
瞬間、反発しそうなケィをフールが肘で小突き、リーダーであるアンドが声を上げる。
「俺達がオーダーに応えられていませんか?」
「あぁ、そんなんじゃないと思うんだけど……」
う〜ん、と悩んでいる様子のカメラマンにユズ達も戸惑ってしまう。
ユズ達がカメラマンの要望に応えられていなくて撮影が止まることはこれまでもしばしばあった。プレッシャーや写真を撮ってもらう時の意識や自分の魅せ方。それらは回数を重ねることで学び、補えるものではあったが……。
「ああ! そうだわ、あれにしましょ。何か物足りないと思ってたのよ。マキちゃん、小物類用意できる?」
はいっ、と元気よくスタイリストが駆けていく。戻ってきた彼女が目の前に広げたのは、アクセサリーだった。
「今回のコンセプトは、貴族の怪しげな集会。私の性癖がたっぷり出ちゃったテーマだけど、貴方達ならできると信じてるわ!」
しかし──ユズ達は広げられた光り輝くアクセサリーを見て、互いに顔を見合わせた。
何故なら、既視感があったからだ。
言わなくても分かり、伝わる。それがどうして既 視 感 を感じるのか。
「じゃあ、まずはそれぞれ使いたい小物を選んでもらえる? センスは任せるわ」
休憩も兼ねましょ、とカメラマンの男はにこっと微笑みを浮かべ、サンセプを残し行ってしまう。
ユズは、何とも言えぬ状況にメンバーの表情を窺ってしまった。
「これは……試されている、と思っていいんでしょうか」
フールが思案顔で悩む。
ケィが台の上に置かれたままの金のバングルを手に取った。
「明らかに挑発されてんだろ」
「そうなの?」
コアは首を傾げる。
「まあ、俺達にとっては少し複雑なものかもね」
アンドが全員の気持ちを代弁し、続ける言葉をなくしてしまった。
どうしてこうも動揺を隠せないのか。理由は、衣装と後で持ってこられた小物類に覚えがあるからだ。無論、使った衣装を他の現場で使うということは普通にある話である、が、組み合わせもコーディネイト自体が被るということはない。あってはならないのだ。
そのことは熟練のカメラマンである男も、スタイリストも嫌というほど知っているだろうに。
つまり、けしかけられている──そう思わずにはいられない状況を作り上げられたのだ。
「あいつらが上か、オレ達サンセプが上かってことかよ」
ケィが呟き、ぎゅっとバングルを握った。
「やってやろうじゃん」
「ケィ、何か考えがあるのですか?」
「あぁ、こんなふうに売られた喧嘩、買わなきゃ舐められるだろ」
それぞれメンバーの衣装とアクセサリーを見比べ、不敵な笑みを湛えた。
「オレ様がデフェにも負けねぇセットを作ってやる」
* * *
「──なぁなぁ、翼! 見たぞ! 今月発売された雑誌!」
「あ、朝 田 くん。おはよう」
あの雑誌の撮影から約一か月。平日のこの日、ユズは明 瀬 翼 として学校へと登校していた。特に芸能活動をする生徒が集まるような学校ではない普通の都立高校であるが、アイドルという立場もあり、一応男子校に通っている。他の生徒と同じ制服に身を包み、同じ授業を受ける。早退欠席も加味されるわけではないので、極力単位を落とさないよう、またテストでいい点を取れるよう、ユズは毎日頑張っていた。
芸能関係の学校に入学しなかったのは、“普通”の高校生でありたかったからだ。
校門通り過ぎたところで後ろからユズに声をかけてきたのは、友人の朝田であった。生真面目に襟詰めの制服を着こなし、片手には件の雑誌を持っている。
「見てくれたんだ、それ」
「おう! 友人の活躍を見逃すわけにはいかないだろ?」
「あはは、ありがとう」
朝田は進んでユズの芸能活動応援してくれる友人でもあった。芸能人、言えば聞こえはいいが、実際生徒間でヒエラルキーが作られる学校生活において有利には働かない。無論、興味深げにユズと関わろうとしてくれる人はいるが、極端な話、三分の二は無関心である。残った一の半分が朝田のように応援してくれる人達だとし、もう半分は芸能活動するユズを快く思っていない人なのだ。
ユズも最初はちやほやされるのではないかと少々期待したものの、デビューしても変わらない、言うなれば悪化した学校生活にそんなものは幻想であると思い知らされた。芸能人全てが受け入れられ、人気になるわけではない、ということだ。
つまり、朝田のような友人が珍しいのであった。
「いやー結構な人気じゃん、お前ら」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
「いやマジで。この雑誌も手に入れるの大変だったんだぜ? まずは雑誌自体が女性向けだから男である俺は買いにくかった!」
「あー」
表紙、巻頭を飾っているは冴木美乃だ。雑誌の内容を示した文字の存在を一瞬忘れるような、インパクト。はだけた衣装とそこから覗く素肌、挑発する瞳は力強く──確かに、男が手を伸ばすのを躊躇うカットだった。そのお陰か、雑誌の売れ行きは好調で、各書店では売れ切れが相次いでいると立花が言っていたのを思い出す。
「でもさ、オレ、マジでこれ買ってよかったよ。エロっていうのを学んだ気がする、これで。ある意味男のバイブル? 的な?」
「ははっ、なにそれ」
「いや本当に! お前、ちゃんと完成品見たのか? マジで凄いぞ!」
興奮を隠せない語り口に、ユズは気恥ずかしくなる。どちらかと言えば、朝田はストレートな物言いをする人物ではあるが……。
「うん……自分でもちょっと驚いてる」
「自分のエロさに?」
「いやいや。そうじゃなくてさ。みんなの凄さに、さ」
撮影時を思い出す。ケィが先導して、元々充てがわれていた衣装とアクセサリーを合わせ、ポージングの指示までした、セルフコーディネイトだったのだが。
『なんて素晴らしいの!』
あのカメラマンを興奮させるほど、ケィの考えはサンセプにぴったりと当てはまり、成功した。
雑誌が発売された当初、やはり危惧していたように、既出の類似性を指摘された。が、それ以上に好意的な反響が多く、何故か先方が企画の一つであったと声明を出したことにより大騒動とはならず、ファンを喜ばせるに至ったわけなのだが……。
どうして相手方が騒動を収めるような動きをしたのか。詳しいことは、ユズは分からない。
今日、立花が先方の事務所にアンドと赴き、説明をしに行く手筈になっている。
「いやー……これは……近年稀に見る素晴らしい芸術だ!」
「それ言いたいだけじゃない?」
「はっはっは!」
それからチャイムが鳴り、ユズと朝田は教室に急いだ。掲載された雑誌が売れて話題にのぼってたとしても、今ユズは一学生でしかなく、周囲にはカメラも照明もなく、あるのはただ好奇な目と、軽蔑するような遠巻きな空気だった。
* * *
午前の授業を終え、昼休みの時間になった。基本は学食を利用するのだが、どうしてか芸能人であることはユズの場合、最悪な認識の作用──例えば、学生に優しいリーズナブルな値段の定食などを選ぶだけで、芸能人アピール、ひいてはお金を稼いでいる、人気気取りなど妙な陰口が囁かれる──を起こすので、できるだけお弁当を持参するようにしていた。
『芸能人も大変だな』
と、朝田なんかは哀れんで同情してくれるのだが、どうにかしてくれるわけではない。というより、どうにもできないのが、現状だった。
「──明瀬!」
国語の担任教師が声をかけてくる。
「はい?」
「明瀬、この前、授業に出なかっただろ」
「あ。すみません、仕事があって……」
「仕事もいいが、学生の本分は勉強だということを忘れるな。補講として課題を出すから、明日までに提出すること」
「は、はい」
一方的に課題らしき紙の束を押し付け、教師は去っていく。──彼らもまた、ユズに非協力的であった。教師が一貫として芸能活動を認めていないとなれば、自ずと生徒達も反感を覚えるだろう。学校は生徒が主体となる場合と、教師の言うことが絶対であるという雰囲気ができあがる場合もあるが、ユズの通うこの学校は圧倒的に校舎であった。……いや、鼻につくユズをどうにかいい気にさせないよう、教師達の言動を生徒が利用している節があるのかもしれない。
そんなふうに、冷静に分析してしまうほど、ユズに友人は少なかった。
宿舎に帰れば、メンバーがいる。仕事に行けば、メンバーがいる。大好きな人達だ。けれど、学校内で、一人でいることが多かった。
「……はあ」
本校舎とは別にある旧校舎の三階にて。ユズは小さな溜め息を吐き出した。もしも記者がこんなところを目撃したら、格好の餌食だろうかと意味もなく考える。
【新人アイドル、サントラップセプテットの愛されキャラ、ユズは実は嫌われ者!?】
そんな見出しと共にあることないこと盛り合わせ、誇張され、だが反論はできない現実を掲載されてしまうかもしれない。
巾着に包んだお弁当を抱え、教師から半ば押し付けられた課題を片手に憂鬱な吐息が知れずと漏れていく。ユズは一人だった。朝田という友人がいても、朝田はユズだけが友人というわけではない。羨ましいほど彼は他の生徒に人気で尊敬され、信用もされているようで、彼の周りは常に人集りができている。嘘みたいなことだが、実際それを目の前にすると自分との差に嫌気がさしてしまうのは、言いたくない事実だ。
故に、こうして昼休みになると誰もいない旧校舎に忍び込んでは一人の時間を潰すのである。授業中はまだいい、教師の話を聞き、ノートを取っていればいいから。もちろん、体育など二人組や四人組を作ることを強いられる時、苦痛が発生するが、朝田が手招いてくれるのであぶれたことはない。人気者の朝田に誰も逆らえない、というのが正しいけれど。
「今日は、なにかな」
学校での楽しみといえば、お弁当である。その日の食事当番が用意してくれることもあり、今日はキュウが作ってくれた。
『これ食べて頑張ってきて』
と言ったキュウの表情が浮かんで、必然と笑顔になる。元気が出る。
本校舎に背を向け、寂れた廊下に腰を下ろしたユズは早速お弁当が入っている巾着を広げた。
お弁当箱はシックなものである。可愛いものが好きだとはいえ、寂しい学校生活を送っているのにお弁当箱がポップでキュートなものだと露見したら絶対に揶揄われることが目に見えている。こういう場合、無難に過ごすのが結局はいいのだ。波風立てず、言いたい奴には言わせておけばいい。だって自分は……。
「──うわぁ!」
その時、ユズが上がってきた階段から悲鳴のような声が響いてきた。自分以外は誰もいないはずなのに、と思い顔を上げると、
「うわっ」
思わずそんな驚きの声を発してしまう。
「ちょ、だっ大丈夫!?」
駆け寄り、ユズは出会う。
「え、へへへ……ごめん、転んじゃった」
どこか恥ずかしそうに、青年がユズに向かって笑いかけてきた。段差につまづいたのか、打った額が赤くなっている。
「大丈夫? 膝は? 頭打ったの?」
階段で転ぶなんてどれほど急いでいたのか。
心配になって聞けば、青年はふるふると首を左右に。
「平気。転ぶのには慣れてるし、受け身も取れるから」
そう言うが、ユズが見た瞬間、青年は完全に突っ伏すようにして額を床につけていたのだが。
「大丈夫なら、いいけど」
「うんっ」
「……」
「明瀬君」
繊細で、気の弱そうな声音がユズの本名を口にする。
「あ、あの」
青年は、
「ぼ、僕と……友達になってくれませんか?」
クラスメイトなのにそんなことを言った。
「ぇえっと、どういう……?」
もしや、完全に哀 れられている?
クラスに溶け込めないでいるユズを不憫に思って、辺 鄙 な旧校舎まで追ってきたのだろうか。友達になる為に?
しかし、青年及び斉 藤 はユズの考えを嘲笑うように、訥 々 と訳を話し始める。
「僕たち、喋ったことはあまりないけど、だからこそ友達になりたいというか……えっと……」
必死そうに。
「と、とにかく、友達になりたいんだ!」
「はあ」
あまりにも教室で見るクラスメイトとは違う姿に、ユズはどちらともとれない返事をしてしまう。
斉藤はどちらかと言えば、友人は少ない印象を受け、朝田のように人の中心に立って行動するような人物ではない。授業中に指名されれば答えるものの、その声は限りなく小さく、もっと声を張りましょうと通知表に書かれてもおかしくない声量の持ち主で。目立つことが嫌いそうだと思っていた。
だが、どうやら違うらしい。
「斉藤くんって、ちゃんと大きな声、出るんだね」
「え……」
些か失礼なことを言ってしまったことに気付くとほぼ同時に、彼の幼さを残す丸みを帯びた両頬が淡く色付いた。
「あ! ご、ごめん! 急だったよね、ごめんね、気持ち悪い? ごめん、ごめんなさい……!」
突然変わった様子にユズはとうとう慌てた。
「ちっ、違う! そんなんじゃないよっ。ボクこそごめん、変な言い方しちゃった。まさか友達になろうなんて言われるとは思ってなくて。そんなこと言ってくれる人、いないと思ってたから」
一つの流れとして、ユズの芸能活動を認めないという動きがある。それに伴い、ユズ本人を批判する動きも存在する。そうなると、大概の人間は遠巻きに様子を窺い、自分自身が標的にならぬよう、より強者の意向に従う。誰々がユズを認めないなら、自分も認めない方が学校生活を順風満帆に送れると。意向に逆らい、その誰々の反感を買うのを恐れているのだ。学校というのはそういうものである。誰かが強者で、誰かが虐げられる弱者となる。
「でも、なんでいきなり? もう学年も変わるし、クラス替えもあるよ。ボクなんて友達にしなくても、」
「明瀬君がいいんだ!」
一度も染めたことはないだろう綺麗な黒髪が彼の視界を狭めている。それに黒縁の眼鏡をかけているものだから、野暮ったさに拍車がかかっている。
が、真っ直ぐ見つめられた瞳に力が籠り、きらきらと輝いていた。
「僕は、明瀬君と友達になりたい」
「……」
これが出会い、不思議な交流の始まりであった。
* * *
その日から斉藤とは昼休みの間だけ口を利く仲となった。というのも、教室では話しかけてこないのだ。目さえ合わさない。果たして友達になろうとは何かしらの冗談で、やはり揶揄われたのだろうかと首を傾げるユズの前に斉藤が現れたのが、次の日の昼休みの旧校舎であった。
理由を聞くと、彼はどこかぎこちなく笑い、言うのだ。
『明瀬君は人気者だから。僕なんかが喋りかけてたら大バッシングだよ』
とこれまた妙なことを言って、ユズを黙らせた。
こうなると斉藤には何か目的がありそうだが、その目的を悟るのは難しく、できなかった。斉藤自体が謎なのだ。
そんなこんなで友人といってもいいのか分からない関係が構築されて一週間。昼休み、旧校舎に向かう足取りが軽やかであることに気付いたユズは、あれ、と思った。あれほど斉藤を訝しんでいたのに、いつの間にか、秘密の逢瀬を楽しんでいる自分がいたのである。
思い起こせば、普通の学校に通うと決めたのは、普通の学校生活を送りたかったからで。友人だって普通に欲しかった。
渇望していたのか? 友人という存在を……?
斉藤との会話は長続きしなかった。話題らしい会話の種もなく、隣に座ってお弁当を食べる。二人の間は人一人分ほど空いているのだが、その距離感がちょうどよかった。彼はいつも決まったパンを持ってきて、小動物のように頬を膨らませ咀嚼している。その姿が警戒心の強い栗 鼠 やハムスターのようで、けれど嫌な気持ちにはならないのだ。
しかし、ある日。斉藤との妙な友人関係にも慣れてきた頃。ふと、朝田が言うのであった。
「お前、斉藤と仲いいの?」
「え、なんで?」
放課後。急いで帰ろうとするユズを引き止めた朝田は、珍しく一人で教室に残り、ユズに話しかけるタイミングを窺っていたようで。
首を傾げれば、朝田の表情は芳しくなく、どこか怒っているようでもあった。
「どうして斉藤と仲いいの?」
「え……。最近、よく話すようになったんだ、けど」
違和感を覚える。が、その違和感の正体が分からない。
朝田は顔を顰め、教室内を見渡す。ユズの他には誰もいない。
「こんなこと言いたくないけど。俺は、お前に友達ができるのはいいと思うんだけど」
と、言いにくそうに口を開く。
「どうしたの?」
「斉藤、お前で賭けてるよ」
* * *
「──どうした、ユズ」
「……」
「なぁ」
「…………」
「おいチビっ!」
「うわぁっな、なに!?」
「なに、じゃねぇよ。さっきから呼んでんだろ」
「あ。ぁ、ごめん」
「どうしたんだよ?」
仕事中であることを忘れるぐらいに、ユズは思考の海を漂っていた。
朝田から斉藤について教えられた日の放課後。夜にかけて、歌番組の収録があった。リハーサルを終え、本収録に向けて順番を待っている状態だったはずだ。
目の前の大きな鏡に映る自分は、浮かない顔をしている。隣に同じく椅子に座って携帯端末を弄っていたケィが心配するのも無理ないほど。
「なんだよ、学校疲れた?」
「あ……うん、ちょっと」
「本番までには直せよ、その顔」
「うん。それは、大丈夫」
デビューして一年。まだまだ新人の域を出ないが、プロであることには違いない。ファンや他のアーティストを目当てに番組を見てくれる人達の前で、暗い表情は見せられないのは当然だ。
……朝田が言っていたことは本当なのか。聞いた時は既に放課後で、教室の中には朝田以外には誰もいなかった。何よりも斉藤が部活動をしているのかどうなのかも分からないのだ、昼休みにただ話をするだけの関係なだけで……。故に、確かめることができなかった。そのせいで胸には朝田の言葉が突き刺さったまま、抜けていないのである。
「……」
──気合を入れなくちゃ。
自分にとって大切なことは仕事、アイドルでいることだ。みんなと一番を目指すのだから。テレビに映るチャンスをしっかり生かさなくては。
そう自分自身に言い聞かせ、ユズは鏡の中を怖いほどじっと見つめ、集中しようと努めた。
その日の収録は、いつも以上の力を出せた。終わってみて思うのであった。
──自分は、自分で思うよりも、斉藤の存在を特別に思っていないのだと。
* * *
翌日。昼休み。ユズは普段と変わりなく旧校舎の最上階、三階へと向かう。昨日の仕事終わり、思想の管理に成功したお陰か、そこへ行くことに躊躇いはなかった。斉藤の思惑がどうであれ、自分は傷つくことないのだ。だって、一人に戻るだけなのだから。
そう思っていたのだが。
「あ。明瀬君!」
階段を上り終えたユズを待ち受けたのは、斉藤の純粋無垢という他ない笑顔だった。その表情は、クラスメイトでただ一人、ユズだけが知っていると言えた。教室の中でそんな顔を見たことがない。
だからだろうか。つい、呆気に取られてしまう。
「どうしたの?」
斉藤が不安を感じたのか、眉尻を下げる。
「……ううん。なんでもない」
なんとか答えながら、動揺した。
大丈夫なはずなのに。
「そうだ、明瀬君。この前話してた小説持ってきたよっ」
「うん」
足を動かし、彼のそばに寄る。
「ねぇ、聞いてもいい?」
「うん? なに?」
「斉藤くんがボクに近付いてきた理由って、本当は何」
「ぇ……。…………」
* * *
「──ねぇ、翼!」
「……」
今、自分を押し倒しているクラスメイトは一体誰なのか。よく知っているはずなのに、全くの別人だった。それが彼の正体か。
ユズは口端に力を込めた。
「どうして“翼”は、“俺”の言うことを聞いてくれないの?」
ユズを押し倒し、馬乗りになっている人物……──朝田は爽やかな容貌に仄暗い影を落とし、誰もいない教室でその本性を現す。
「朝田くん」
「ねぇ、どうして? 言ったでしょう? 斉藤は、翼を揶揄ってるだけだよ。友達になんてなりたいわけじゃないんだよ」
「……そうなのかな」
「そうだよ。信じてくれる?」
朝田が笑う。ユズは表情なく、彼を見つめた。
その笑顔にはサンセプが載った雑誌を見て興奮した時のような、無邪気な少年の気配は全くない……。
「どうして」
「うん?」
「どうしてボクが斉藤君と関わっちゃいけないの? 自分でちゃんと判断できるよ」
「……分かってないね」
朝田から表情が消える。だが、無表情のユズと同じというわけではない。
「俺は、君が傷付かないようにしたいだけだよ」
「……そう」
「どうしてそんなに冷めてるの?」
「……朝田くん」
「うん?」
「ボクは、もう全部知ってるんだよ」
時間は巻き戻る。
『斉藤くんがボクに近付いてきた理由って、本当は何』
『ぇ……。…………』
ユズが聞くと、斉藤から笑顔が消えたのが分かった。
朝田が言っていたことは事実なのかと唇を噛み締める寸前。
斉藤がユズの腕を掴んできた。
『いっ、』
『あ、朝田君に何か言われたの!?』
『い、いたい……痛いよ、斉藤くん、』
『あ……ごっごめん!』
腕が解放される。と、どれほど強く握り締められていたのだろう。血の流れが再開する感覚がする。
反射的に握られた箇所を摩りながら、斉藤を視界の中に映せば、彼はいやに焦った様子でこちらを見返していた。
数秒の沈黙後、斉藤が口を開く。その姿は、教室での彼、そのまんまであった。
『ぼ、ボクは、君を、守りたくて……』
『え』
『あっ、……君を、傷つけたくない、と思ったんだ。だから、あの日から僕は』
『分かるように言って。どうしてボクは斉藤くんに守ってもらわなきゃないの? ボクも男だよ。外見が可愛いからって、女の子みたいにか弱いわけじゃない。か弱かったら、こうして一人で旧校舎になんて来ない』
『ぁ……』
言葉が膨らんでいく。端々に斉藤への非難じみたものが滲んで、自分でも嫌気がさした。
ごめん、言い過ぎた。そう謝ろうと思った瞬間、
『明瀬君は、朝田君と仲がいいでしょう?』
『……?』
まるであべこべになったように、斉藤が朝田の名前を口にしたから何も言えなくなった。
『どう、いうこと……?』
そう問い返すのが精一杯で。
友人がいなくても、ここでは存在が認められていなくても、学校生活は平凡だった。何の変哲もない、危害も加えられないのだから安心して勉強に専念できていた、と言っても過言ではないだろう。
けれど、今。それが変わってしまいそうな予感がしていた。
取り壊されることもなく、朽ちていくばかりの旧校舎、三階で。ユズの日常は終わりを迎えようとしている、ようだ。
斉藤を見つめ続けたままでいると、彼は降参したような仕草をし、眉尻を下げた。
『僕は、朝田君の本性を知ってしまったから。その悪意が君に向く前に、守ってあげたかったんだ』
時間は現在に戻る。
「知っている……? どういう意味?」
「全部。朝田くんのこと、ボクは知ってる」
「……それって」
斉藤から聞いたこと。信じたくなかったこと。
「ボクが学校で一人なのは、朝田君が少しでも画策していたからなんでしょ?」
「…………は?」
「知ってるんだ。もう隠さなくていいよ」
「なにを……?」
朝田の表情が崩れていく。
だから、“間違いない”のだと思った。斉藤に教えてもらったことこそが、現実で起こっていることなのだ、と。
「今度はボクが聞くよ。どうして?」
「……、…ぃ」
「ボクを仲間外れにして、孤立させて。なのにどうして朝田くんだけが、ボクと友達になってくれたの? 雑誌まで買って、褒めてくれたの──」
「うるさいっ!!」
大声がユズの全身を床に叩きつけ、朝田の両手が、手首を掴み押さえつけた。
「あ、さだっくん、痛い……っ」
「痛くしてるんだよ。翼が何も分かってないから」
仄暗かった瞳が、黒く変色していて。
「どうして分かってくれない? 俺は、翼を想ってるのに」
「っ、ぅ」
力が強い。斉藤のそれとは比べようもないほど。情けないことだが、ユズ一人の力では彼を振り解けそうになかった。
絶望?
「想ってるんだよ、俺は翼だけを想ってる。だから雑誌も買って褒めたし、害悪から守ってあげてた」
「害、悪?」
「そう。悪だよ。俺以外が翼に近付くことは、いけないことだよ。悪だ。許さない」
「許してもらう必要あるの」
「あるよ。だって考えてみなよ。翼を捨てないのは俺だけだ。他の人は不用意に、ただの興味で翼に近付いてさ。少しでも幻想と違ったら離れていくんだよ? それなら最初から関わる必要ないでしょ?」
「……ボクは、そうは思わない」
ぴくっと、朝田の瞼が一瞬痙攣した。
「関わらなきゃ分からないことっていっぱいあるよ。嫌なこともいいことも、なくちゃ楽しくない」
「……」
「幻想は幻想でしょ? 幻滅されても頑張るのが僕だし、好かれたいと思うのが僕だよ。何も結果が出てないのに、朝田くんに全部決めてもらいたくない」
「……なん、でそんなこと言う……? 俺が、今まで何をしてきたか、わからない翼じゃないんだろう? だったら感謝するのが本当なんじゃないの!? 傷付かないよう、ずっと守ってきたのに……! 嘘も本当も吹き込んで、翼に変な人が近付かないよう頑張って、頑張って、頑張ったのに!!」
「いらない。……そんなのいらなかったよ」
「!!」
──日常が壊れていく。友人を、失う。
斉藤が教えてくれたのは、ユズに近付いた本当の理由だった。始まりは、斉藤が朝田の本性の一端を目撃したことだったという。
芸能界という難しい世界で頑張っているユズを懸命に応援し、周囲に振り回されることなく友人でいる朝田を斉藤は尊敬していた。だが、そんなある日。朝田が周りに同級生を集め、ユズの悪口を吹聴していた。サンセプのことを悪く言い、人気があるのはユズ自身の力で。学校で一人なのは、自分は神のような存在でみんなが恐れて話をかけてこないのだ、と──天狗になっている。そう言って朝田は下品な声で笑っていたらしい。
そんなことを知る由もないユズを慮 って、朝田の本性に触れた時、ユズが一人にならないよう斉藤は近付いたのだと。旧校舎でだけ口を利いたのは、朝田に自身の考えを見抜かれるわけにはいかなかった。消されてしまうかもしれないから。
だが、斉藤は最初の目的がそうであっても、ユズと話をするのは楽しかったと言ってくれた。彼は本の虫と幼い頃から言われていたそうで、小説のことに詳しかった。今人気の作品から、あまり知られていないマイナーな神作品まで。斉藤は何でも知っていて、普段漫画ぐらいしか読まないユズも、彼の話は楽しんで聞いていられた。
「これだけ、聞きたい」
朝田が呻くように言ってきた。
「なに?」
「どうして俺のことより、斉藤の言い分を信じる気になったの?」
「あぁ……」
ユズは油断した。その瞬間、力を込めていた口端が緩み、引き上がってしまったのだ。
「朝田くんにこうされるまで、どっちも信じていなかった。けど……ボクの知ってる朝田くんは、こんな硬く冷たい床に力づくでボクを引き倒さない」
「…………ふっ」
目の前の体が震える。
「はは……そ、っか。ははっ、俺は、最初から……あははっ! 信じてもらえてなかったんだ!! わかった、分かったよ。ははっ! お前のことなんてめちゃくちゃにしてやる……!」
刹那、ワイシャツのボタンが飛び散った。空中に放物線を描き、落ちもしないうちに、ユズの着ていた制服は朝田によって乱されていく。
そんな状況にあって、ユズは冷静だった。
脳内には斉藤の言葉がよぎる。
『朝田君は、多分、君のことが、好きなんだと思う』
『だから、その想いが暴走して……』
言いにくそうに他人の心情を口にした斉藤は、申し訳なさそうにしていた。ユズや朝田本人に対しても、罪悪感を覚えていたのだろう。隠していた感情を暴いてしまうことに。
斉藤は、優しい人なのだと思った。
とうとう朝田の手が、ベルトへと伸びた。バックルを外され、寛 げられる──。
「……なんで」
呟き。
ユズは彼を、冷めた目で見つめ続けていた。
「どうして抵抗しない? 嫌じゃないの? 辱められようとしてるんだよ? それとも、怖すぎて混乱してるの?」
ねっとり。その表現が合うぐらいに、頬から首、胸元を撫でられる。
そうされても、驚きも焦りもしなかった。
「分かってるよ、自分が何をされそうになってるか」
答え、ぐっと彼の襟首を掴み、顔を寸前まで引き寄せて言ってやった。
「けどね、ボクはこんなことぐらいで傷付かないよ」
「なん、」
「ねぇ、朝田くんは知らないでしょ? ──ボクにはちゃんと好きな人がいるんだよ」
「は、」
「こんなふうに君に襲われても、ボクのこの想いは穢れないから」
「ちょ、」
「好きな人は穢れないから」
「翼……お前の好きな人って……あのグループにいるのか? ……はっ、なんの冗談だよ、アイドルは、お前達は、女に媚び売る商売だろ?」
「その言い方はどうかと思うし、少なくともメンバー全員、女の子を“女”なんて言わないし、媚び売る商売とも思ってない」
「じゃあなんだって──」
「君に言っても分かってもらえないと思うから」
「はぁ?!」
「……あー、もうそろそろいいかな」
「は……?」
手を、朝田の両肩に置く。
「もう飽きちゃった。朝田くんがこのことをどういうかはどうでもいいけど、まずはボク怒ってるから。その怒りを、受け取れ……っ!」
「うがぁッ!!!」
それまで少しずつ体の位置を整え、何をしようとしているのか悟られないよう、朝田の顔を掴んで意識を逸らしていた。それが功を奏した。
ユズの片足は思いきり朝田の股間に入り、苦悶させることに成功したのだ。少しの刺激でも痛みを感じる足の間へ思いきりぶつけてやった、膝を。
痛みに項垂れる朝田の下から這い出て、ぱっぱっと制服についた埃を払い落とした。できるだけワイシャツのボタンを留め直し、床に蹲ったままの朝田に笑いかける。
「これからもサンセプを愛してね、朝田くん」
言って、朝田を残し、教室を出た。
* * *
「あ、明瀬君っ」
痛みから回復した朝田が激昂して後を追ってきたら面倒なことになるので、急いで教室から離れたユズの前に、斉藤が姿を現した。
「斉藤くん!」
「だ、大丈夫? 制服が、」
「うん、なんとか。上手くいったよ」
「じゃあ……」
「うん。しばらくは痛くて起き上がれないと思うけど」
振り返るが、人影はない。校舎内は静かなもので、まるでアクションゲームでボスを倒した時のような、妙な静寂が周囲に満ちていた。
「よかったぁ。明瀬君に何かあったらって心配だった」
「はは、大丈夫だって言ったでしょ。同じ男なんだから。どこを突けば弱点かなんて分かりきってるし」
「それでも朝田君が剛力かもしれないし」
「まあ、確かにね」
「だから、もう少し遅かったら僕はこれを投げ入れに行こうかと思って……」
「なにそれ」
斉藤がおずおずと出してきたものに、ユズは目を丸くする。
掃除道具の一つである銀のバケツにカラフルな色が詰まっていた。楕円状に膨れている。
「水風船だよ。これなら濡れるだけだし、隙は作れるかなって」
「……はあ」
間抜けな声を上げてしまう。
だが、彼はこんなものをどうやって用意したと言うのだろうか。容易に手に入るものではない。
「あ」
ユズの疑問を見透かしたのか、斉藤が訳を口にする。
「ぼ、僕には弟がいて……幼稚園に通ってるんだけど、親が迎えに行けない時は僕が迎えに行って、その帰り道で公園に寄ったりするんだ。そこで遊ぶ時用に」
「そう、なんだ」
「うん。……ごめん」
何故か、彼は顔を俯かせ、謝る。
謝る必要ないのに、ユズはそう言ってあげられなかった。それよりも、彼が一人で水風船を必死に膨らませているところを想像して笑いが込み上げ、──泣きそうになった。
「は、はは……」
「ぇ。あ、明瀬君?」
「はっははは、おかしい……斉藤くんって、おかしいね!」
「え!? おかしい?! やっぱり!?」
「あはははは!」
「え、えぇ、どうしよ」
困り顔でバケツとユズの間で視線を往復させ、しきりに眼鏡を弄り出す。それが癖であることを知っているのは──……。
「いいよ。それ、使おう」
「え! ま、まさか教室に戻って投げに行くの!?」
その言葉にまた笑いが込み上げる。
「ははっ、違うよ。ボク達だけで使うんだ」
「……え?」
* * *
斉藤はやはり優しい人物だった。
幼稚園生の弟を楽しませる為に水風船というアイテムを鞄に忍ばせていて、その大切なアイテムをユズの為に使ってくれて。
「うわ! 冷た!」
「ご、ごめんっ、そんなクリーンヒットするとは……」
「こうしてやる!」
「うわあ?!」
「あははっ」
運動部が活動に励んでいる最中、ユズと斉藤はグラウンドの端でバケツに入った水風船を投げ合う。地面に落ち水が跳ね、腕に当たっては制服が濡れていった。それでも楽しく、だんだんと容赦がなくなっていくのだ。注意されたっていい、この一瞬、ふざけられれば──。
「ねぇ、樹 くん」
「な、なにっ?」
濡れてしまったレンズを袖口で拭っていた斉藤が、弾かれたようにこちらを見る。
「ボク、樹くんと友達になりたい」
「!」
「今日、久しぶりに学校が面白いって思ったよ。これからも斉藤くんと仲良しでいられたら、楽しく笑って卒業できると思うんだ」
「……明瀬君」
斉藤が手を下ろす。時間にすれば、数秒。一瞬だったけれど、視線は混じり合い、頷いてくれた気がした。
しかし、それをユズが確信する前に、
「──おい、なんか楽しいことしてんな!」
「あ」
「あ」
陸上部の生徒が駆け寄ってきて、日に焼けた顔をくしゃっとさせて笑う。
「俺も混ぜてくれん?」
「え……ぁ、ど、どうする?明瀬君」
「ボクはいいけど……」
「やった! ちっちゃい頃以来だなー水風船なんてさぁ」
と、赤い水風船を手に取る。
「で? いいってことは、俺もお前にこれ当てたっていいんだよな?」
「……、え゛?! ボク!?」
ユズはそこで驚いた。
「お前以外に誰がいるんだよ」
飽きられてしまう。
「だ、だって、話したこともないし……」
「なんだよ。アイドル様はコミュ障か? そんなんでファンと握手できんの?」
「そっそれはできるけど」
学校でユズに話しかけてくる者は誰もいない。だから朝田だけが友人と認識していたのだし、旧校舎で斉藤に出会ったのだ。
朝田の画策でユズは嫌なやつであると先入観を植え付けていたはずで──。
「じゃ、行くぞ!」
「え? えっ、あ、ま、待って!」
「待てと言われて待つ俺では、ないッ!」
「うわぁっ!!」
陸上部員が投げた赤の水風船が見事、ユズの顔面を叩く。びしゃりと、たっぷり入っていた水が弾ける。
「お〜、鈍ってねぇな、俺のコントロール」
「ちょ、ちょっと惑 君」
「あ? おっ、次はお前だな、樹!」
二人の会話が耳に入り、ユズは目を見開く。
「え、ふたりって知り合い!?」
陸上部員が何を言ってるんだとばかりに見てくる。
「知り合いっていうか、幼馴染だけど」
「き、聞いてないんだけど!」
「ご、ごめん、明瀬君。急だったから」
「え? 関係あるとダメなの?」
「……いいや」
後ろ手に隠していた青を閃かせる。
「遠慮する必要がないなって、思ったんだよ!」
「うぉわ!」
「わっ惑君!」
「お返しっ」
ユズの水風船も真っ直ぐ、吸い込まれるように陸上部員の顔に張り付き、爆ぜた。
「あははは!」
こうして、ユズの日常は壊れた。唯一の友人を失い、二人の新たなクラスメイトを手に入れたのである。
「お前、俺が同じクラスにいること知らんの?」
「え。明瀬君……本当?」
「ごめん!」
* * *
「ただいまー……」
宿舎に一歩足を踏み入れると、どっと疲れが出た。いつもなら手を使わずに靴を脱ぐのに、玄関先に座り、上体を丸めて意味もなく靴紐を解く。どんどん、何もかもが面倒臭くなってきて、知らずのうちに溜め息が飛び出てしまった。
「……」
ようやくの思いでリビングの扉を押し退けると、
「──おかえり。ユズ」
愛しい彼が待っていた。
「キュウくんっ」
ソファに座っていたキュウの懐に飛び込む。
「どうしたの?」
大して驚いた様子もなく、受け止められ。
ぎゅっと目を瞑った。
「何かあった?」
「……ううん」
「そう」
「すこし」
「うん?」
「少し、充電」
ぱちり、瞬く音がしたようだった。
「僕がユズの充電器なの?」
「ふふっ、充電器。いいね、それ。キュウくんはボクの充電器だ」
言いながら、頬を彼のお腹に擦り付けるようにして甘える。子供っぽくてもよかった。
「なんかねぇ……今日は、色んなことがいっぱいあって、疲れた」
ついさっきは否定したのに疲れたと言うユズに、キュウが笑った気配がする。
「友達を失って、新しい友達ができた」
「そうなんだ」
ふわりと、頭に大きな手のひらが乗ってきた。それから優しくそこを撫でてくれる。
「ふふ……!」
それがいかにも可愛がられているといったようで、更に擦り寄り、甘え倒すことにした。
「ね、キュウくん」
「うん」
「ボク、キュウくんが好きだよ。歌もダンスも、優しいところも。全部、好き。一緒のグループで活動できて、すごいよかった」
「うん、ありがとう。でもここで終わりじゃない。もっと上に行ける、僕達なら」
「うん……っ」
「だからもっと良くしていく。もっと歌もダンスも、優しさも。ユズが良いって思うこと、もっと良くしていこうと思う。好きって言ってくれてありがとう。素直なユズ、僕も好きだ」
「! ……うんっ」
──伝わらなくてもいい。“好き”という感情が、想ったように相手に伝わらなくても十分だ。ただ許されるだけで……想うことを許されるだけで、ユズは満足だった。
「さて、もうすぐ立花さんが迎えに来る時間だよ。用意してきたら?」
「うん。でも……もうちょっとだけ」
腰を抱き締めるように、ぎゅっとする。
そんなユズの甘ったれな行動にキュウは呆れたような笑い声を漏らしながらも、頭に置いた手を退かすことはなかった。
ふと、気になることがある。スキンシップが苦手なキュウは今、顔を赤くしているのだろうか、ということ。以前、他のメンバーが知らないことを告白してくれたが……。
「……」
だが、見るのはやめた。見てしまったら、それ以上を望んでしまいそうだから。
自分は、キュウのファンなのだ。誰よりも近くにいるけれど、誰よりも遠くにいる。想うことが許されるなら、それでいい。
他の誰もが許さなくても、キュウが許してくれる限り、ユズは彼を──廿 九 日 京 を好きでいられるのだから。終わりを迎えるその瞬間まで。一途でいる。
物音がした。玄関の方から聞こえたからメンバーの誰かが帰宅したのだろう。それとも迎えに来た立花か。
惜しい気もしたが、ユズは勢いよく上体を起こした。
「あ〜っ元気になった! これで仕事頑張れそ!」
そう言って、キュウに笑いかけた。
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