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Q13-3

 寂しい家の中で、馨を危ういところで支えたのは、一冊の雑誌であった。綺麗に着飾った男女が思い思いのポーズを取って、こちらに笑顔を向けているそれ。  その笑顔に()(くつ)にならなかったのは、運が良かった、と言うしかない。  ──そして運は、鈴木馨を冴木美乃と引き合わせた。  それは気の迷いだった。自信があったわけでもなく、自分を愛してくれない母親から逃げ出したかったわけでもない。  だって、鈴木馨はもう死んでいるのだから。必要ない、邪魔、いらないと言われた命はその瞬間に天へ召されてしまっている。  故に、気の迷い。もしかしたら、命の(ざん)()があって、最後の足掻きとばかりにどこでもいいから手を伸ばしたのかもしれないけれど。  誰か助けて、と。 『──こんにちは』  無意識に伸ばしていた手が冴木に握られると、不思議と、馨の死んだはずの魂は震え、モデルという自分自身を表現することに楽しさを覚えていた。墓から蘇った気持ちだった。 『馨』 『美乃』  二人は瞬く間に仲良くなり、休日はわざわざ待ち合わせをして遊ぶようになっていった。  その中で、馨のモデルとしての活動は冴木がそうであるように徐々に実を結び、順調であった。一人で一ページ、二ページと任せてもらえる仕事の数も増えていき、鈴木馨の名は知られていく。だが、それでも馨と冴木は二人で一つかのようにコンビで扱われることが多く、自然と互いのことならなんでも知っているような関係になるにはそう時間がかからなかった。 『酷いな』  母親のことを話しても冴木は顔を顰めて、頷いて、怒ってくれた。同情するのではなく、酷いと怒ってくれた。 『オレ、美乃とずっとこの仕事していきたい』 『本当かっ? 嬉しい!』  その思いは、本心であった。  だからだ。 『──馨くん』  雑誌編集者の中でも、名の知れた権力を持つ女性が声をかけてきた時。 『私と一回デートしてくれたら、単独で表紙を飾らせてあげる』  全ては自分の為だと、その言葉の意味を悟ろうともせず、馨は、 『オレだけじゃなく、美乃も。冴木美乃と一緒に飾らせてください!』  純粋な気持ちでその女性の手を取ったのである。  それが、世に言う汚いやり方──枕営業とも取れる行動だったことを知ったのは、ほとんど偶然であった。 『──あの編集長、とうとう現場を押さえられたらしいぜ』 『──終わりだな、あの編集長も。色々手を出してたって噂だったけど』 『あぁ。今回は未成年が相手だったから余計にヤバいらしい』  撮影の休憩中、唐突に耳に入ってきたスタッフ達の会話に引き寄せられて、馨は声をかける。 『あの……、今の話、何の話ですか?』  すると、彼らははっとして急に罰の悪そうな顔つきになり、最終的に苦笑いを浮かべてこう言ったのだ。 『とにかく、馨くんみたいな良い子は、枕なんてしちゃダメだよ』 と。  その言葉の意味を、文明の力学に頼り検索し、馨は知ったのである。  自分のしたこと、その過ち。それまで築き上げてきた誇りのようなものを、自分自身で突き崩してしまった事実を。  本当に食事をしただけであった。美味しいご飯をご馳走してもらい、仕事のことだけではなく、学校や日常生活での話など、会話は盛り上がった。女性が盛り上げ上手だったのだ。馨が何か言えば褒めてくれ、弱音を溢せば励ましてくれた。こんな大人がいるのだと思ったほど、彼女はいい人だった。  そのまま、彼女に誘われるまま足を運んでいたら、馨は……。 『馨、どうした? 元気なくない?』 『美乃、』  堪らなく怖くなって、自分のしたことを清算したくて。冴木に打ち明けた。  いや、打ち明けたかったけれど、それすらも怖くて、馨は胸の内にしまっておくことを選んだ。  闇の中にいた自分を救い上げてくれた冴木。その冴木に正直に打ち明けて嫌われてしまったら? ──馨はまた、今度こそ闇の奥深くに沈み込んで戻って来れなくなる。  そうすると、馨は冴木と一緒にいることに苦痛を覚えていった。心も体も綺麗な冴木美乃。そんな彼の隣に、薄汚れた自分がいたのでは、彼の輝きが半減してしまう。本気でそう思って、モデルの仕事が嫌になっていった。笑えなくなって、カメラを向けられるのが嫌悪感でいっぱいになった。  暴かれてしまいそうだったから。  以前、冴木は 『写真には、その斜体の内面が出るんだ。だから笑顔も、本当か嘘かすぐに分かる、』  と言っていたことがある。それが本当なら、馨のしたことは、誰の目にも映るのではないか。それを知っている冴木には隠せないのではないか。  ……そこまで来てしまっては、駄目だった。 『ごめん、美乃……オレ、もう、一緒にいられない』  別れを告げることにした。  しかし、冴木はしつこかった。突如態度を変えた馨を気遣い、何があったのだと聞いてきた。嫌なことがあるなら、自身の力で変えてみせるとも言ってくれた。その頃になると冴木は一流モデルの仲間入りをしていたのだ。ある程度の我が儘も融通も利くから、と。  だからこそ、馨は早く逃げ出したかった。彼の傷となる前に。彼の、一生を守る為に。 『……なんで』  だが、モデルを辞めて数ヶ月後。運命の再会を果たした馨だったが。 『──あ、馨。久しぶり』  冴木の隣にいる女性を見て、顔面が蒼白になった。 『美乃っ』  話があると“彼女”から引き離し、冴木と二人きりになる。 『なんであの人と一緒にいるの? あの人は、』 『知ってる』 『ぇ』 『あの人と一緒にご飯食べれば、表紙に選んでくれるんだって』 『美乃、』 『いいでしょ』 『美乃!』 『なに』 『ダメ、だよ。美乃は枕なんてしなくても、』  引き止める馨に、美乃は乾いた笑いを寄越した。 『馨。芸能界は汚いところだよ』 『!』 『媚び売って、誰かの足元を狙って掬って、上に行く。上がれば上がるほど敵は増えていく。なら、味方を増やすのは道理だ』 『……よし、の……』 『馨と二人なら、こういうのも我慢できる。そう考えていた。よかった、ここで会えて。復帰しよう。俺がお願いしてあげる。あの人、結構偉い人だから言えば叶えてくれるよ。さ、馨、』 『嫌だ』  冷えていく。 『馨?』  勝手に偶像化していたのか、それとも。 『嫌だ』  ──冴木を、美化していたのか? 『オレは、そんなこと、したくない!』 『あ、おい! 馨!』  その場から走り去って、馨はどうしてあの女性編集長が冴木といたのかと考えた。未成年に手を出して職を失ったのではなかったのか。偉いから、揉み消せたのだろうか。  考えれば考えるほど、後ろ暗いことが窺えて、馨はぎゅっと目を瞑った。 『いってぇな! 前を見ろ!』  周囲に構っていられなかった。  あれほど嫌だと思っていたのに。冴木だけは、そんなことしてほしくないと思っていたのに。 『っ、なんで……ッ、なんで!!』  冴木は食事を共にしていただけ? それとも? 『ぃやだ……美乃、それだけは、しないで』  ──冴木美乃は、神だった。  闇から馨を助けてくれた神様だった。  神様は汚れてはいけない。汚してはいけない。 『……ーー〜〜っ、ッ!!』  ──“冴木美乃は、既に汚れていた” “そう思って”しまった自分に、心底幻滅した。  * * * 「なぁ、オレ、サイテーなヤツなんだよ。勝手に神格化して、想像と違ったからって勝手に幻滅して……」 「……」 「冴木は、また一緒にやろうって言う。さっきもそうだ。オマエらを見捨てて、自分と一緒に活動しようって」 「…………」 「……幻滅しただろ?」 「聞きたいことがある」  キュウが言った。 「冴木さんに誘われて、ケィはなんて答えたの?」 「……嫌だと言った。冴木ともう一度組む気はない。オレはサンセプであって鈴木馨じゃないんだ。それは、本当だ」 「なら──」 「でも、オレのことを知ったら、オマエらは幻滅するんじゃないか、嫌がるんじゃないか……そう思う。だって嫌だろ? 枕とか、汚いやり方でのし上がることをオマエらは嫌がってた。それが分かってるからこそ、オレのしたことを知られるのが、」 「なら答えは決まってる」  ケィの言葉を強い意志で遮り、キュウは口を動かし続ける。 「僕は、僕達は、ケィを仲間だと思ったままだ。それは揺らがない」  普段よりも強い語調に、強い光を放つ瞳に。  ケィは気付く。 「なんで怒って、」 「分からないのか?」 「っう」  刹那、彼の怒りが膨れ上がったのが分かった。  胸倉を掴まれ、強引に顔を引き寄せられる。 「ケィは、何も分かってない。僕達が、そんなことで君を見捨てると思っているの?」 「っな、に」  ぐ、と首が絞まる。 「昔にあったことだ、今じゃない。それともその昔を引き合いに出されて、サンセプが消されると思っている?」 「っぐ、ちょ……」 「そんなことで消える僕達じゃない。君がしたことは枕営業じゃない。ただ女性と食事をして、その女性が君を気に入って表紙に選んだだけだ」 「それ、はっ」  苦しい。彼は相当怒りを覚えているらしい。 「ケィ。自分が必要とされていること、全然分かってない。冴木さんの誘いを断ったのはいいことだよ、褒めてあげる」 「あ、ぁげる……?」 「僕は許さない」 「は、……?」 「僕達のこと、それだけケィを見捨てるような人間だと思っていたこと、許したくない!」  キュウの力に負け、ケィはベッドへと押し倒される。  覆い被さるようにのしかかってきたキュウは、泣く寸前だった。 「過去を話していなくなろうとしないで。僕達は七人でサンセプだ。誰かが欠けたら、もう一番にはなれないんだよ」 「……キュウ、オレ、は」 「僕の傍にいろ……!」 「…………」  ──どうしてキュウはそこまで言ってくれるのか。自分の為に肩を震わせているのか。 「キュウ、……泣くな」 「っ、ぅ」 「オマエが泣くところ、初めて見た」 「ふぅ、ケィが、泣かした、んだ」 「うん。悪かった」 「……昔に拘らなくていいんだ。僕達が今一緒にいること、今に、拘ってほしい」 「……あぁ」  泣いてまで引き留めてくれた、彼は。  そこまでしてアイドルに本気なのだ、と改めて思い知った。  芸能界は汚いところ。世間もそういうのがあるだろうと予想はしつつも、眩しいほどのライトに照らされた商品に釘付けになり、一時でも熱狂する。季節が巡るように、注目される商品も変わっていって。  誰もが、一瞬の煌めきを求め、溺れ、惜しまれることなく散っていく。  その中でもしも人々から消えないでほしいと願われる商品になれるのなら──一番になれるのなら。 「オレも。オマエらと一緒にいたいって思う。もうここまで来たら、逃げられねぇよ」  見上げれば、頂が遥か先に見えるのだから。 「……っ」  心臓が痛む。骨を、肉を、皮膚を引き裂くように、鼓動する。  生きていることを、実感している。  死んでいたはずの魂は、今、しっかりとケィの中にあった。 「キュウ、オレ、オマエが好きだ」  * * * 「お疲れ様でした」 「あ、お疲れ様です。今日はありがとうございました。また次、お会いした時はよろしくお願いします」 「冴木」 「! ……ケィ」 「出待ちはタブーとされてる。でも、先にオマエがやったんだから、おあいこだよな?」  ケィは、冴木に会いに行った。連絡先は仕事関係上交換していたが、それは使わず、以前冴木がそうしたように、彼の仕事終わりを待って、スタジオの外で待機していた。  こうしてケィが来ることを、冴木は予期していたのだろう。そしてどんなことを話されるのか、知っていた。  驚くことも、取り乱すこともなく、ケィが歩き出すと彼もその後ろを追ってきて。  昔とは正反対のような光景が生まれていた。まだ子供だった頃。冴木を神様だと信じて、冴木がいればなんでもできると思っていた時は、いつも冴木の後ろを歩いていたのに。 「どこまで行くの? ケィ」  そんな問いかけが、小さく聞こえてきた。  スタッフの前で声をかけたから、また冴木とケィの仲が良いと噂が広まるだろうか。 「冴木、今日はオマエに話があって来た」 「どうせ別れ話でしょう? 俺とはもう仕事しないって」 「……そうだ」  足を止め、振り返る。  大きな公園の、両脇に木が生い茂る、薄暗い場所。秘密の会話をするには好機で、冴木と二人きりになるには勇気のいる場だった。  一本だけある街灯に、蛾がたかっている。彼らはわざわざ危ない場所に吸い寄せられ、運が悪ければ焼かれて死ぬ。それでも光に集まる彼らは、どこかケィの目指しているものに似ていた。 「オレは、アイドルだ。モデルじゃない、だから冴木とは一緒に活動できない」 「……」 「昔のこと、一方的に逃げたこと、悪かったと思ってる。一緒に頑張ろうって言ったのはオレだったのに、オマエを一人にしたこと、汚い場所に置いてったことは……悪いと思ってる」 「なら、償う意思を見せたらどう?」  冷え切った声音。 「それは、無理だ」 「じゃあ、前言ったように、写真送ろうか。人気絶頂のアイドルのスキャンダルはいくらで売れるかな?」 「脅しても無駄だ、冴木。あれぐらい、仲間での戯れだって言えば終わることだ。キスしているならスキャンダルだが、ただ抱き合ってるだけだしな」 「……冷静になったもんだね。初めて見せた時は慌ててたのに。誰の入れ知恵? もしかしてキュウかな」 「アイツは関係ねぇ」 「嘘。どうせ慰められたんでしょう? 必要だって言われた。ケィが必要だよ、みんなで一番を目指そうって。そうじゃない? 一番安いセリフだ」 「その一番安いセリフに、オレは、バカみたいについて行きたくなった」 「ケィ」 「冴木にしたこと、公表するならしてくれていい。でも、オレはモデルにはならない。冴木と一緒に活動はしない」  独りよがりであることは十分に理解していた。勝手に期待して、勝手に落胆して、自分勝手に差し伸べられた手を振り払おうとしているのだ。  ──怖かった。自分のしたことが世間的には悪いことで、もしもそれがバレたら? 幻滅されたら?  せっかくの居場所をなくしてしまう、また一人になってしまう。不必要だと、言われてしまう。  ならば、自分からいなくなってしまおう。その方がまだ傷は浅いから──。  全ては自分の為。自分が傷つかないようにしたことだった。一度も冴木のことを考えはしなかった。  それなのに、彼はまだ一緒に仕事がしたいと言ってくれる。言動はどうであれ、馨を必要としてくれている。 「酷いな」  吐き捨てるように、冴木が言う。 『酷いな』  懐かしい昔日と、リンクした。 「公表なんて、できるわけないだろ。お前が俺にしたことは正直誰かに言ってやりたいけど、それは俺の破滅でもある。汚い場所にいるからって汚いことを何度もしてきた。自分を売って、表舞台に立ってきたんだ。それを、綺麗な俺を好きでいてくれるファンに明かせると思う? 酷い、狡いよ、ケィ」  冴木が片手をズボンのポケットに突っ込む。そこから携帯端末を取り出し、幾つかの操作をした後、例の写真を見せつけてきた。 「これも、もう脅しの材料にはならなそうだね」 「言った通りだ。なんとでも誤魔化せる」 「ということは、彼らは付き合っているの?」 「オレは知らない」 「ふははっ、それって本当の仲間だと言えるのかい?」 「けど。オレは、キュウが好きだ」 「……!」  目の前の、暗がりに浮かび上がる魅力的な瞳が、大きくなる。 「キュウは、男だろう?」 「性別は関係ない」 「……はは、女性に媚びるアイドルが、男を好きだって? 本当に?」 「別にリークしたっていいぜ。恋人になるわけじゃないんだ、ただの片思いだから」 「…………ふっ」  携帯端末の画面から、キュウとアンドが映った夜の写真が消える。 「随分、言うようになったね。馨は、俺の後をついてくる可愛い子だったのに。反抗を覚えて、いけないな」 「……」 「馨の不幸は蜜みたいに美味しかったよ。俺をいい気にさせてくれた。可哀想な馨の面倒を見ることで、大人達は俺を褒めてくれたし、色々なものをくれた。地位、名声、権力。……でも、誰も愛情はくれなかった。芸能界は汚いところだよ。俺達みたいな人間をただの商品としか思ってないんだから。人気があれば押し上げて、人気じゃなくなれば簡単に蹴落とす。必要ないと切り捨てる」 「立花さんや社長はそうじゃない」 「自分のところは違うって?」  鼻で笑う。 「自慢をしてるつもり?」 「……そう思われても仕方ない」 「はっ」 「でも、冴木。汚いばかりの世界じゃなさそうなんだ。これまでアイツらと頑張ってきて、アイツらだけは、夢に真っ直ぐなんだよ」 「……聞きたくない」 「冴木。ありがとう。オレとまた仕事したいって言ってくれたこと、嬉しかった」 「もう終わった気?」 「……美乃。今度は、自分の実力で、オマエと仕事がしたいって思うから」 「…………」 「──なんか、最近、美乃くん見ないよね? どうしたんだろう」 「──一時はあんなにいっぱい雑誌出てたのにねー」 「あっ、でも、最近はデフェのミカくんにハマってるんだ!」 「え! 私もなんだけど! 私は、ハネト派っ」  今日も街では商品についての論評がされていく。注目される者、そうでない者。現れる者、去っていく者。光と影、天国と地獄。  一歩間違えれば奈落へと突き落とされる世界に身を置く彼らは、今日も笑顔で夢を追っていく。

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