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Q16-4
サンセプが発表した楽曲wolfは、女性に圧倒的な支持を受け、デーフェクトゥスの最新情報よりも人々の口にのぼったとマスコミは騒ぎ立てた。当初心配していた、過激過ぎなのでは? という戸惑いも、雲散霧消していく勢いである。
そんな追い風が吹く中、正式に国内で活動するアイドルグループを対象とした祭典、アイドルミュージックアワード、通称AMA に出場することが決定した。
それがライブのMC中、スクリーンに映し出された時。
「……、」
ファンが上げる喜びの悲鳴と共に、コアの足は震えた。変な声が出てしまいそうで、口元にある小さなマイクを押さえる。本来なら耳障りな音が会場に響くだろうが、スイッチが切られていたのか、何の音も拾われずに済んだ。
既に立花の口から知らされていることである。今回、スクリーンに映し出されたのは、日々応援してくれているファンに大々的に知らせたかったからだ。しかし、高まる感情というものがあった。
「やったああぁ!」
ユズが大喜びをして、跳ねている。
「ここまで頑張ってきてよかったな!」
アンドが泣きそうに言って、
「ええ……ここまで、長いようで短いようで……死ぬんでしょうか、私」
フールが柄にもなく妙なことを口走っていて。
「よかった」
たった一言で感情を表すギンに、
「あー……生きてんなぁ、今、ここで。みんなで」
ケィが感慨深そうに後に続く。
そうして、キュウは。
「っ……っ」
泣いていた。
「え、キュウくん!?」
「おい、どうしたんだよ」
ユズとケィがそれぞれキュウの元へと寄っていく。と、ファンから声援が届いた。あめでとう、泣かないで、と。
ぽろぽろと涙を流し、その顔を隠すことなく、いまだに信じられないとでも言うように仲間達を見回していた。
「コア」
そうして、こちらへ視線を合わせ、キュウは震えた声で言うのである。
「これ、夢、じゃ、ない、よね?」
「キュ、キュウ、おれ、」
「全く。こういう時、貴方が一番幼い反応をするんですから」
キュウの様子にフールが困ったように笑う。
「僕……死にそうだ」
言葉に、今度は嬉しそうに笑う。
「私と一緒ですね」
「……うん」
「でも安心してください。これは夢じゃない。私達が頑張ってきた証拠で、ここにいる皆さん、今日ここに来ることができなかったファンの皆さん、私達に関わってくれた全ての人のお陰です」
「ふーる」
舌ったらずにキュウが呼ぶ。
その声はマイクに拾われ、ファンの胸をときめかせたようだった。
それは仲間達にとってもそうであった。キュウは大人っぽく、蠱惑的で魅力的な、神に愛された男だ。誰も彼を嫌わない。嫌えない。彼に嫌われることを恐れる。
「コア?」
いつの間にか隣に来ていたユズが顔を覗き込んでくる。心配しているらしく、スクリーンに重大告知が映し出されたからというもの喋っていないことに気付いた。
「あ……えと、う、嬉しいよ?」
だが、懸命に紡いだ声は響き渡らなかった。
「コアくん、マイク──」
「コア」
「あ、え……?」
直前まで動揺すら見せていたのに、颯爽と現れたキュウが頭を寄せてくる。思わず仰反るようにして引けば、彼は自身のヘッドマイクを指差した。
「……?」
使って、と色付き艶やかな口が動く。
「え……あ……!」
やっと、コアは思考を働かせた。
「え、えっと」
顔を寄せ直し、キュウがつけているマイクに声を吹き込む。何故か、悲鳴が湧き起こった。キュウに近寄ったから、それを羨んだファンがコアに嫉妬したのだろうか──と本気で思いながら、AMAに出場できることを思い出す。
《みんな、どうも、ありがとう。ここまで来れたのは、キュウとかユズ、今舞台に立ってる全員が思ってるように、みんなのお陰、です》
言うと、名前を呼ばれる。ありがとう、と目をやり手を振れば、暗がりの客席で色とりどりのペンライトが揺れていた。
《AMAでも、みんなを満足させるパフォーマンスをするから、ちゃんと見ててくれよな!》
歓声が上がる。コアは笑い、ピースサインを作った。
それが、偽りの自分のようで。
「……ぅぐっ」
一人早く楽屋に戻ったコアは込み上げる吐き気を懸命に堪えた。
「きもち、わる……っ」
テーブルの上にあったペットボトルを乱暴に掴み、水を流し込む。
「ぷは」
だが、既に温くなった水は吐き気を抑えるどころか逆効果で、コアは床に座り込んでしまった。
「なにが、ちゃんと見ててくれ、だ……っ、見られることが、今一番怖いのに……っ」
早く立たなくては、仲間達に見られてしまう。平気なふりをして、心配されても大丈夫だと言わないと。
そう思うのに、体は言うことを聞いてくれない。力が抜けてしまって、コアから気力を奪っていく。
けれど。
「!」
部屋の外から足音がして。それが聞き慣れた足運びをしているのに気付いた瞬間、体は正直になった。コアはすっと立ち上がり、楽屋にやって来たキュウを笑顔で迎えたのである。
「あ、もう帰ってたんだ。黙っていなくなるから、みんな心配してたよ」
「あ、あぁ、うん」
「特にユズが。最近のコア、少し疲れてるみたいって」
「だっ、大丈夫だよ! おれは元気! 今日のライブでも駆け回ってただろ?」
ぴょんぴょんとその場で跳ね、アピールするも、キュウは小首を傾げる。
「僕も、ちょっと心配してた。不安なことがあるの?」
「え……」
「無理に聞くつもりはないけど、コアが話したいならなんでも聞きたいと思う」
穏やかな声音に、心は素直だ。
もうこの背負っている罪を打ち明け、楽なってしまいたい、解放されたいと思う。しかし、今、それをして誰が喜ぶというのか。喜ぶのは、記者である能津湖だろう。
あれから一通り、能津湖の狙いを考えてみた。すると、ものの数分で答えが導き出せたのだ。
──コアを舞台の上から引き摺り下ろす為。ひいては、サンセプを破滅させる為の手段に過ぎなかったのだ。
餌を撒き、コアが食いついたところで新たな餌を示し、その味を覚えさせる。そして深く食いついたところを囲い、逃げ道を一気に萎 ませるのである。それが今のコアだった。
あれ以来、能津湖からの連絡は絶えず携帯に送られてきている。これまでの誘いや脅迫、揺さぶりだったり、甘言でお互いにあのことは水に流そうと言ってきたり。コアを籠 絡 しようと、必死であった。
その一方で、江塚からも連絡はあった。が、まるで能津湖とのことを知らないような文言に、コアは引っかかるまいと気を引き締めた。江塚は能津湖の紹介で知り合ったのである。能津湖がしていることも承知の上で、彼と付き合っているのだろう。だからこそ、知らないふりをしてコアを外に誘き出そうとしているに違いない……。
故に、全てを疑いかかって、二人からの連絡は無視し、必要以上に端末に触れないようにしている。
そうすれば、間違って二人からの連絡をとってしまうこともないだろう。そう、思ったから。
着信拒否ができないのは、恐れがあるからである。芸能界は広いようで狭い。噂話は常に出回っていて、この世界に秘密を持ち込むことはそれが露見しても責められないという暗黙のルー ルさえあるほどだ。そうなのだから、もしも万が一、コアが“一方的に”江塚との連絡を絶っていると知られれば、何も知らない人は無礼な人間だと烙印を押し、グループ全体の印象を下げるだろう。それは、仲間達に不利を被ってもらうことになる。
何よりも仲間への影響を恐れたコアは、ただただ無視することしか出来なかったのであった。
「コア?」
思考の海を漂っていたコアは、改めて呼ばれ、キュウに焦点を合わせた。
「あ……」
「大丈夫? 最近忙しいから疲れてるんだよね? 僕には隠さなくていい。もたれ掛かられても僕は倒れないから」
「キュ、キュウ」
「うん」
優しく微笑まれる。
「だ、い……大丈夫だよ。疲れてるのは本当だけど、楽しいから。キュウ達と一緒にいるの、すごく嬉しいし……ずっと、こんな時間が続けばいいって、願ってる」
笑って。
「……ぁ」
キュウの腕を掴んだ。思ったよりも手指に力が入ってしまって、彼は少々戸惑ったようであったけれど。
それだけは許してほしい。
言わないまでも祈り、コアは鞄に潜む秘密を忘れようと必死になった。
だから──その光景を再び目にした時。
「……はは」
「ぎ、ん?」
「くっふふ……あはは!」
逃げ出したくなった。
二つの瞳がコアを見つめ、笑うのだ。口端が歪み、舌が見え隠れする。
「あり、がとう、コア……こんなもの、お前が持ってたなんて……あははは」
「なに、……なん、」
何がそんなに面白いというのか。
今自分が浮かべている顔か? 間抜けな顔をしている?
足元が揺らぐ。しっかりしているはずの床がひび割れ、コアの体重を支えられないとばかりに沈み込む。
早く逃げなければ、
「ありがとう、ずっと欲しかったんだ……ありがとう、コア!」
早く逃げなければ! 床が崩れ去る前に。狂気的なギンから!!
「ギン……あんた、どうして、」
しかし、無理だった。目の前の現状は自分自身が招いたことで、仲間を見捨てられるわけがない。
「ごめ……ごめんっ」
コアは膝から崩れ落ちた。同じく座り込むギンに触れ、罪を懺悔する。
「あんたを、おれと同じ奈落に落としちゃったみたいだ……。でも、見捨てないから。ギンも、こんなの悪いことだって知ってたんだろ? だから、今までこんなことなかった。隠せるはずがない、薬をやってること……な? 見捨てないから。責任持って、おれが、あんたを守る……っ」
その言葉にギンは、ただ笑って応えた。
あの日、能津湖が忍ばせただろう透明のフィルムに包まれたそれを、たとえ寂れた路地裏であろうと捨てることはできなかった。捨てたことによって足がつき、自分が一瞬でも所持していたことが露見するのを恐れたのだ。これ持っていることがバレたら、もう一生信じてもらえない。身の潔白も、正義の味方であることも。
『──歩人は、みんなを守る正義の味方になるの。お母さんと約束ね。優しい子になることを願っているわ』
「おれが、守るからっ……だからっ……だから壊れないで、ギン」
くふふ、と。ギンは肩を震わし、コアの手を握ってきた。そうして、自分の思いに、間違いはなかったと知らされたのだ。
ギンの双眸にはまだ光が宿り、正気を失っているとは到底思えなかったからだ。コアの望みがそれを見せるのではない。ギンの意思が、強い意志が、それを伝えてくるのだ。
「うん……うんっ、絶対救うよ、誰にも見つからず、ちゃんと、胸張ってサンセプだって言えるように」
「……こ、あ……たの、む」
「!」
決めてから、早々に行動に移さなくてはならなかった。間もなくこの場所には仲間達がやってくるであろう。疲れた、と。先に帰ってきていたのか、と。それを予想できないコアではない。
額や目尻にあった汗を乱雑に手で拭い、ギンの脇に手を入れ、立たせた。
「まず、ここから離れよう、みんなが来る」
言いつつ、床に散らばっていたゴミを手中で握り締める。
ギンの体はすんなりと持ち上がり──彼自身は脱力しているようだったが──コアの力はいつの間にか大人の男性を抱えられるほどについていたらしい。
これなら急ぐことも可能だろう。物的証拠を手の中に収め、ギンを連れ出してしまえば、仲間達にはバレることない。
そう自分を勇気づけて、コアは楽屋からギンを支え出たのである。
しかし、事態はそう容易に好転しなかった。
「ギン……?!」
以前、キュウが怪我をした時、彼が誰にも見つからないようなところにいてと言ったコアの言葉を守るようにしていた人気のない非常階段の前にギンを連れてきたコアだったが、ギンの容態は急変していた。
「はっ、は」
荒い呼吸をし、脂汗を掻いている。苦悶の表情を浮かべ、まともに喋れる状態ではない。
「きゅ、救急車……!」
慌ててポケットを弄る。が、急いで楽屋から離れた為、衣装もそのままであれば、携帯端末も所持していないのだ。はらはらと、透明のフィルムが落ちていく。
「ッ、」
それを拾いしゃがんで、コアはギンの顔を覗き込んだ。
「な、なぁ、ギン……? これ、本当に口に入れた? これ食べるとどうなるの? 笑ったり、そうやって苦しくなる? おれはどうすればいい? どうすればギンは楽になる?」
静かな空間に、ギンの呼吸とコアの呼吸が重なって響く。
いくら人気がないとは言え、いつ誰が通りかかるかも分からない状況だ。もしかしたら今日が、非常階段の点検日かもしれない。その時間が迫っていて、今も、作業員がここへ向かっているかも。
最悪の展開を何度も脳裏で描くにつれ、コアの焦燥感は募っていった。
「ねぇっ……ギン、何か言って? 言ってくれなきゃおれ、」
「も、と」
「え、なに? 何て言ったの?」
小さな呟きを聞き逃さないよう、彼の口元に耳を近付ける。
「も……っと、さっきの」
「……」
「もっと、ほしい……さっきの、まだ、ほしいっ」
繰り返される呼吸の合間に紡がれた言葉。
それはコアにとって、絶望であった。
手の中に取り戻した、罪の証拠。
「これは、なんなんだ……一体……ッ!」
コアは“それ”が悪いことだと知っている。手を出してはいけないことも、関わってはいけないことも。
しかし、“それ”が一体何なのか。どういう作用があって、どういうことをすれば、ギンが元に戻るのか分からなかった。……知りようがなかった。
誰かに頼るしかないのか、自分ではギンを救うことができないのか。
「なぁ、あんたを放っておけば治る? それとも医者に見せた方があんたの為?」
「──おい、君、ここで何をしている?」
「!!」
「──はぁっ、はあ! なんで……なんで、こうなったんだよ……っ!」
コアは思い知る。
「なんで、なんで……ッ! ギン……!!」
この世には、悪も存在することを。
自分自身が、悪であることを。
声をかけてきたのは、巡回中だった警備員で。コアの顔を知っていたのか、最初は不審げだった警備員もにこやかに挨拶をしてきた。分け隔てなく挨拶をしてきたコアの努力が、ここで実を結んだ。
『ギンが、具合悪そうだったから……』
苦しい言い訳にも聞こえる説明に、警備員は心配げな視線でギンをなぞり、深く頷いた。
『それだったら訳を話してちゃんと病院に行った方がいいんじゃないかい? 最近、忙しそうだと思っていたんだよ』
『あ、ありがとうございます、心配してくれて』
『いやいや、俺には心配することしかできないからね。お大事に』
そうして背中を向ける警備員が見えなくなるまで、コアは息を潜め、警戒していた。もしも彼の言っていることが全て嘘で、後になって誰かをここに連れてくるのではないか。そう疑ってしまった。無論、そんなことはなく、警備員が去った後は誰も姿を見せなかったが。
とにかく、このまま建物内にいるのは危険だと思い直したコアはギンを連れて一度楽屋に戻り、着替えと荷物を取りに行くことにした。その頃になるとギンは苦しさが消えたのか無表情で、笑いもしなくなっていた。
『あ、コア! 一体どこに行っていたんですか? まだ仕事は終わってないと言うのに──』
『ごめん、フール。でも、もうこれで今日の仕事は終わりだよね?』
『そうですが、まだ挨拶が、』
『ギンの体調が悪いんだ。おれ達、先に帰るから、挨拶は任せた』
『え? ギンが? 大丈夫なんですか? 体調が悪いなら立花さんに送ってもらった方が、』
『いい! おれが、看病するから!』
『ちょっと、コア! 待ちなさい! 貴方……あれほど初めと終わりの挨拶は大切だって言ってたじゃないですか!』
それでも仲間の命には代えられない。
そうだ、コアにとって大切なのは、挨拶よりもギンのことなのだ。挨拶なんて後でいくらでもできる。不満を持たれたら誠心誠意を見せれば、納得してもらえる。そうでなければ、一度ダメだと思われたら挽回のチャンスはないと言うことになるではないか。
心の中で己を正当化することに成功したコアは衣装を脱ぎ捨て私服に着替えると、同じようにギンの服装も改め、荷物を纏めてスタジオを抜け出した。
半ばギンを引き摺るようにして外に出ると、まだ夕暮れには遠く、人通りも多かった。ここでサンセプだとバレるにはいかないので、変装用に用意していたマスクをギンにつけ、自分はキャップを深く被り、踵を返すようなことはしなかった。本来なら人目を阻んで裏口から出ることも考えた。けれど、その方がやましいことがあるようで気が進まなかったのだ。それに、もう出てしまった手前、ここ戻るのも怪しいというものだ。
コアが全てを判断しなければならない。頼れる人はいない。
理解して、宿舎に帰ろうと沿道に立った。
が、しかし。
「うん? ……ギン?」
俯き、コアに支えられたままのギンから一段と力が抜けたような気がして。
「どうし……」
三度顔を覗き込むと、ギンは眠っているようだった。
「……」
眠っている、だけだろう?
怖くなって、慌てて顔の前に掌を翳す。肌に微かだが、温かい呼気が当たる感触がして安堵した。
「仕方ないな」
身長的にはギンの方が上だが、力では劣っていないようだ。背負うことも問題ないだろう。その場でどうにかギンを背中に乗せて、コアは車道に向かって片手を挙げた。早く宿舎に戻ろう。タクシーを使えば、大丈夫だ。
しかし、十分も経たないうちに穏やかな時間は唐突に終わりを迎えた。
空車であったタクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げほっと胸を撫で下ろしていたコアの肩を枕にしていたギンが、急に魘 されだしたのだ。
「ぅ……ぅぅ」
また苦しみがぶり返したのだろうか。ただ悪夢を見ているだけなのだろうか。
心拍数が上がっていく光景に、コアは運転手の視線をバックミラー越しに感じ取って、もう無理だと判断した。
「すみません!」
そして無造作に財布から取り出した五千円札を押し付けるようにし、運転手の言葉も聞かずに降りたのだった。
降りても尚、視線に晒される。運悪く、人通りの多い場所で降りてしまったらしい。早く人目のつかない場所に移動しなければ。それだけがコアを突き動かし、苦しそうな声が呻き声に変わりつつあるギンを抱え込んで、ふと見上げた先にあった建物に目が奪われた。
* * *
「──お部屋の鍵はこちらです。あちらにエレベーターがあるので、そちらをご利用ください」
「ありがとうっ」
コアが視認した建物は、芸能人が多く出入りをする一流ホテルであった。どうにかして個室に入らなければならないと思い、ここに向かうことが一番いいと思ったのだ。ここなら、芸能人だとバレても構わない。故に、顔を必要以上に隠すことはしなかった。幸いだったのは、ギンの症状がフロントで手続きしている間落ち着いていたことである。だから不審にも思われなかったに違いない。
受け取った鍵には、六○六と刻印されている。高級ホテルらしく、たった一つの鍵にも豪奢で繊細な意匠で飾られていた。
案内されたエレベーターに乗り、六階を目指す。そしてカードキーを扉に取り付けられた機械に上から下にスライドさせ、解錠した。最後の力を振り絞らんばかりに、ギンを室内に引き込む。
「はあ! 疲れたぁ」
後手に扉を閉め、今度こそ心の底から安心して座り込んだ。
「っ……っ」
動悸のする心臓を鎮めようと、胸の上に手を置き、深呼吸を繰り返す。
次の瞬間。
「あ、ギンだぃ──ひ?!」
「持ってきてくれたんだよね」
放り出していた足を、華奢な手が掴んだ。ギンの声に導かれるようにして視線を上げていけば、幽霊のように長い髪を全面に近付いてくる彼が何かを言っていた。
「ぎ、ギンか、びっくりした、心臓なくなるかと思った。大丈夫か? お水、飲む? ご飯も頼めるようにした、から」
「持って、きてくれたの」
「え、ぇ? ぃっ!」
ぎりっと、ギンの指先が服越しに食い込む。
「い、たいよ、ギン」
「ねぇ、さっきのは? 俺、早く楽になりたいんだ。もう誰もいないんだから、いいでしょう?」
「……ギン?」
様子が違うことに気付いて、コアは恐る恐る彼に触れようとした。
が、
「持ってるよね? だって匂いがするもの」
「匂いって、ギン……おかしくなったのか?」
自分を誤魔化すように笑いながら言う。
しかし、違うのは問うまでもなかった。ギンはある意味正気であるし、ある意味正気を失っていたのだから。
「ほら、ここにあるじゃないか」
ギンが、コアのポケットを弄り、捨てられずにいたフィルムを取る。
「あ」
ダメだ、と言う間もない。彼はそれを徐に口に運び、舌を出して舐めるのである。
「ギン……だ、めだ……ダメだよっ!」
奪い取る──
「お前が俺にくれたんじゃないか!」
寸前、ギンが怒鳴った。
「…………」
今までに聞いたこともない声音だった。もう何度目かは分からないが、セロハンが二人の間を舞うようにして落ちていく。
……まるで、もう手放せと言っているようで。
「ギン……あんたに、何があったって言うんだよ……?」
* * *
「最近、忙しそうだね……?」
「!」
「わ、ごめん! 驚かせちゃった?」
「う、ううん。ごめん、アンド……びっくりした、だけだから」
雑誌撮影の休憩中、コアは過剰に肩を跳ねさせた。
声をかけてきたアンドを逆に驚かせてしまったようだ。
繕うように、苦笑いを浮かべて見せる。
「どうしたの、アンド?」
「あ、いや」
問い返せば、彼はどこか言いにくそうに首筋を掻いて、会話の糸口を見つけようとしているらしい。
分かってしまったコアは、苦笑したまま口火を切った。
「ギンのこと?」
「あ……う、うん。何か、俺にできることがあれば、と思って……」
大きな体をしているのに子供のように指先を擦り合わせ、アンドはコアの言葉を待っているようだ。
「えっと、みんなに移したくないって、言ってた」
「まだ、体調は良くならないのか?」
「う、うん。そうだって」
「そうか」
「──コア君」
アンドに続き、マネージャーの立花が近寄ってきた。
「ギン君の様子はどう?」
彼もギンのことが気になるらしい。
「今、アンドにも言われたけど、まだ体調よくならないって」
「そっか。最近は急に忙しくなったり、僕もみんなにキツイことお願いしてるから申し訳ないよ。ゆっくり休んでって言いたいけど、ギン君と直接話せないかな?」
「あー……」
言葉を濁すコアに立花が神妙な表情で言った。
「もしかして、何か不満ある……とか、かな。大事な時期だからこそ、話し合いとか、できるならしたいって思うんだけど」
「あ……伝えておきます」
「よろしくね」
「はい」
──嘘を吐くのが上手くなった。たった数日、されど数日。
……コアの鞄を漁り、見つけ出した秘密を摂取したギンはあの日から宿舎に戻っていない。あのホテルに滞在したままなのだ。理由は体調不良。宿舎に戻らない理由は、みんなに迷惑をかけてしまうのとゆっくり休めないから、ということにしてある。
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