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第1話 絶望の中の出会い

 今日は朝から憂鬱な気分だ。昨夜からずっと悪い夢を見ていたような気がする。  階下へ降りていくと、ダイニングには憂鬱の元凶が居座っていた。 「秀貴、時間には遅れるな。今日は大切な日だ」  わかっている。  どこかちぐはぐな家庭であることを隠し、いかにも仲睦まじい一家を演じなければならない日なのだから。  僕の名は子虎秀貴(ことらひでき)、二十三歳。堅苦しい良家の一員を演じるよう強要しているのは、国会議員の父、真司だ。 「遅れるとどうなるの?」 「私の面子が潰れる」  また面子か。僕の父、子虎真司にしてみれば家族は政争の具でしかないのだ。  そんな父に反発することで、いつしか僕の人生の新しい生き方を決めたようなものだ。  僕は山の手プロレスという団体の練習生として、新しい人生の第一歩を踏み出した。当然その事実は父はおろか家族にも秘密にしている。  六本木のメトロハットから地上二階スペースまで上がるとガーデンエリアがある。さすがに桜は終わってしまったけれど、鮮やかな緑が目に眩しい。ここから眺める景色は綺麗だ。  今日は土曜日だ。家族づれや若いカップルも多い。みんな目をキラキラさせて背の高いタワーを指差し、笑顔を見せている。そう言えばあのタワーには水族館もあるらしい。  でも僕は素直じゃない。見事に配置され、誰もが喜ぶ場所だと分かっていても、そこは僕の居場所ではない。僕にはここが見せかけの箱庭、いやむしろ金に物を言わせて力を誇示する張子の虎のようにさえ思える。  最近はどこにいても誰といても、僕は心の置き場所を見つけることが出来ない。  ふと時計を見ると、親父に指定された午前十時になろうとしていた。 ベンチから重い腰を上げ、ジーンズの尻をはたいた。向かい合うベンチに座っている男が僕を一瞥し、微かに微笑んだ。僕に笑いかけているのか? 学生時代もそうだった。男子から告白されたことも何度かあった。でも残念ながら僕にはそんな趣味はない。悪いけど他を当たってくれ。そんなやりとりばかり。  原因は母親の遺伝子なのだろう。身長は百七十五、細めの顎に長い首、体こそ鍛えてはきたが着衣のままなら痩せ型の体型に見えるらしい。 男としては忸怩たるものを感じることばかりだ。  僕の母は女優だった。だけどそれは僕が生まれる何年も前のことだ。母は父と結婚するために芸能活動から引退したのだ。  重い足どりで指定されたエルタワーにあるホテルの会議場へ向かう。  その時だった。  頭の上で爆発音が轟き、上から爆風が襲ってきた。あちらこちらから悲鳴や怒声が聞こえる。  見上げるとタワーの下層部、ちょうど五階あたりの窓から煙が噴き出し、書類の様なものが舞い上がっていた。  尻もちをついた身体のあちこちに痛みがあった。だがそれどころではない。あれは僕が参加する予定の国際会議のセレモニーが開かれている会場ではないか。両親も妹もいるはずだ。  僕は駆け出した。エスカレーターを三段飛ばしでかけ上がり、ホテルのエントランスに飛び込んだ。建物から飛び出してくる人の波をかき分け、強引に中へ入る。  エントランスの中央にあるエスカレーターは止まっていた。おそらくこの上が会議場だ。辺りにいた人間は多くが外へ出たようだ。だが上の会議場の様子はまだわからない。ここを上がるしかなさそうだ。 僕は動かないエスカレーターを駆け上がった。  会議場のあるフロアにはまだ僅かに煙が立ち込め、あたりの空気は焦げ臭かった。劇場のような瀟洒な扉は開け放たれ、時折抱き抱えられた怪我人や、ヨロヨロと足元が覚束ない人たちが支えられながら出てくる。 誰かに指示を出す大きな声や怒声が中から聞こえてくる。やはり爆発事故が起きたのだ。  窓際の廊下には誰かと連絡を取っている人、色鮮やかなドレスが汚れ、床に泣き崩れているご婦人が点在していた。  なんて酷い光景なんだ。まるで大きな震災が起きた直後のような惨状だ。  僕は壁に貼ってあるフロアの配置図を頭に叩き込み、会議場の左右に半円を描く廊下を早足に歩きながら両親を探した。妹の亜希子もどこかにいるはずだ。  廊下にうずくまる人の中に僕の家族はいなかった。だとしたらまだ会議場の中にいるのか?  僕の心臓はひときわ激しく暴れた。目に付いた扉を開ける。僅かな熱気と目がしみる煙が吐きだされる。息が苦しい。だがそんなことに構ってはいられない。僕は意を決して中へ飛び込んだ。その時、僕の身体は何かにぶつかり跳ね飛ばされた。 「大丈夫か?」  それは屈強そうな、黒いスーツ姿の男だった。 「中はまだ危険だ。外へ避難しろ!」  そんなことは分かっている。僕は立ち上がりながら男に正面から対峙した。 「両親と妹がまだ中にいるんだ! 邪魔をするな!」  思わず感情が先に出てしまう。男は僕を凝視して、僕の肩に手を置いた。 「まず落ち着け。俺はこの会場に配備された警視庁警備部警護課の佐久間という者だ。まだ事故の状況も被害の状況も判明していない。だから一般人が無闇に中へ入るのは危険だ」 「僕は民自党の子虎真司の息子です。父が、両親と妹がここにいるはずなんだ!」  父の名前を聞いた瞬間に、僕の肩を押さえていた男の腕から力が抜けた。チャンスだ。僕は男の腕を払いのけ、薄暗い会議場の中央に向かって走り出した。  会場はすり鉢状になっていて、中央が一番低い作りになっていた。僕は座席に沿う階段を降り、中央へと向かった。だがその時、また肩を掴まれた。 「見るな! 見るんじゃない!」  強い力に引っ張られ、僕の背中はそいつの胸元に抱え込まれた。同時に僕の視界には階段に沿って並べられた座席に、数え切れないほどの人がまだ座っていることに気付いた。  だが彼らはただ座っているのではなかった。座席から崩れ落ちていたり、前にあるテーブルに突っ伏していた。そして辺りには真っ赤な血だまりが点在していた。彼らはこれだけ大きな怒声が響いているというのに、ピクリとも動こうとはしない。  いや、もう動けないのだった。 「親父! 母さん! 」  僕は悲鳴にも似た声を上げた。男は僕の身体を自分に向けさせた。 「もう見るんじゃない! 今は待つんだ!」 「あんたSPだろ? 要人を警護するのが仕事なんだろ? なんで、なんで守ってくれなかったんだ!」  慟哭(どうこく)する僕を男は強く抱きしめた。僕は父親以外の男の胸で初めて泣いた。  それが僕と佐久間龍一の最初の出会いだった。

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