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第4話 秀貴の決意

 秀貴は道場を出て目の前の公園を抜けると、道の端に停められた車に目を止めた。佐久間の車だ。 「何があった?」 「何も」  秀貴は黙って佐久間の車の後部座席に身体を押し込めた。佐久間はそれ以上は何も聞かず、黙って車を走らせた。  秀貴は悔し涙をぐっと堪えた。こんなこと誰にも知られたくなどない。自分は男だ。例え野獣のように飢えた雄に蹂躙されたからと言って、泣くわけにはいかない。まして他人に悟られるなんてまっぴらだ、と。 「佐久間さん、ずっと公園のところで待っていたの?」 「いや、一度着替えに戻った」 「そう」  秀貴は安堵した。佐久間には気付かれていない。彼はようやく外の景色に目をやることができた。すると佐久間の車はいつの間にか高速に乗っていた。 「どこへ行くつもり? 家じゃないのか?」 「そんなひどい姿で帰るつもりか? どこかで喧嘩でもしてきたとすぐわかる。皆んなに言いふらして回るつもりか?」 (喧嘩? 違う。それならまだいい。たった数十分前に自分は強姦されてきたのだ) 「俺の部屋でせめて着替えをしろ。手首に大きな痣もあるじゃないか。それにシャワーくらい俺の部屋にもある」  佐久間には苛立ちばかりをぶつけてきたが、彼は自分のことをいつでも気遣ってくれていると秀貴は思った。 (きっと佐久間さんは気付いている。僕の身に何があったのかを。あの爆破事件の時には、僕は佐久間の胸で泣いた。まるでガキをあやすように優しくしてくれた。僕が部屋で暴れた時にも、記憶は曖昧だが、確かに僕は佐久間を何度も殴ってしまったように思う。それでも僕が正気を取り戻すまで、ずっと側にいてくれた。今だってそうだ。僕に起きたことを悟っていながら、何も聞かずに思い遣ってくれている)  秀貴はいつの間にか安堵の気持ちに包まれていた。  秀貴はバスルームの壁に手を付き、流しっぱなしのシャワーを頭から被った。何もかも洗い流してしまいたかった。  門脇に強姦された時に、秀貴の全身を支配していたのは恐怖と痛みだけではなかった。それは秀貴の身体が覚えていた。苦痛のあとから押し寄せてきたあの奇妙な感覚に、恐怖にも似た不安を感じ始めていた。 (お前の身体は男の味を覚えてしまったんだ)  秀貴は死刑の宣告を受けた方がまだましだと思えた。フラつきながらバスルームの壁に背中を押し付けた。シャワーから流れ出るお湯が秀貴の胸から腹へ、そして股間へと流れ落ちていく。いくらお湯を被ったところで、記憶を洗い流すことなど出来ないことは分かっているのに。  いきなりドアが開き、バスルームに佐久間が入ってきた。 「な、何だよ! まだ使ってるんだぞ!」 「だから来たんだ。後ろを向け」 (言われなくてもこっちは素っ裸だ。いくら相手が男でも、真正面を向いていられるほど羞恥心は欠落していない)  佐久間の腕が肩に乗せられ、全身がびくんと痙攣する。 「安心しろ。傷を確認しているだけだ。前を向いてみろ」 肩を掴まれたまま、秀貴は半回転させられ佐久間と正面から目が合った。そのまま佐久間は膝をつくように秀貴の前でしゃがんだ。  恥ずかしい。秀貴はぎゅっと目を閉じた。 「傷はないようだ。ただ……」 (ただ、何だと言いたいんだ?) 「血が流れている。肛門に裂傷があるようだ。薬は用意するから後で消毒しておけ。それから……」  珍しく佐久間が言い淀んだ。 「……尻の穴は入り口だけじゃなく、中までしっかり洗い流しておけ。その棚の上にソフトシリンジがある。それをシャワーコックの横の小さな蛇口の先には嵌め込んで使える。サイドにある小型の便器に流せばいい。……使い方くらい説明しなくても見当はつくだろう」  佐久間は僅かに顔を赤らめていた。こんな一面もあるのかと言わんばかりに、秀貴はクスッと笑いを漏らした。 「笑い事じゃない。きちんと処理しておくんだ。二週間ほどしたら病院へ連れて行く」 「病院? 二週間後? 何で今じゃなくて二週間後に病院へ行くの?」 「HIVの検査だ」  秀貴は能天気な自分を恥じた。確かに佐久間の言う通りだ。膝がガクガク震えた。秀貴は今まで感じていなかった新たな不安に慄いた。 「まさか……僕はエイズなの?」  秀貴は口元が震えて奥歯が上手く噛み合わさらない。今まで我慢してきた涙が堰を切ったように零れ落ちた。 「僕が……エイズ……?」  バスルームを出ようとしていた佐久間は、困惑する秀貴のそばに戻り、俯いた秀貴の頬を掴んで顔を上げさせた。 「いいか、念には念を入れるだけだ。エイズだと決まった訳じゃない。安心しろ」  佐久間はシャワーの奔流が自分の着ているスーツにかかることも意に介さず、小刻みに震えている秀貴の裸体をきつく抱きしめた。  秀貴は佐久間の胸で大きな嗚咽を漏らして泣いた。秀貴が佐久間から受けた抱擁は、二度目のことだった。  佐久間は自分の腕の中で震えている秀貴の存在が愛おしく思えた。同時になぜ自分がそばにいながら守ってやれなかったのかと、悔恨の念を抱いていた。  秀貴は運命に翻弄され、哀しみのさなかにいる。そして佐久間は自分が少しづつ変化していることを感じていた。  今の佐久間にとって秀貴は仕事上の要警護対象者としてではなく、全身全霊で守ってやりたい大切な存在なのだと。 「秀貴、男として悔しいか?」  秀貴は佐久間の胸の中で何度も頷いた。 「ならば正当な手段で復讐をするんだ。自分自身の手で」  秀貴は目を見開き、佐久間の顔を見上げた。 「お前自身の手でそいつを倒せ。リングの上ならちゃんとしたルールの中で正々堂々と戦えるはずだろ?」  秀貴は口を開きかけて、また下を向いてしまった。 「諦めるのか? このままやり過ごせばそれでいいのか?」  佐久間の濡れたシャツを掴み、秀貴の背中が小さく震えた。 「……明後日の試合で絶対に倒してやる」  佐久間は小さく微笑んだ。 「俺が秘策を教えてやる。だがそれをやるもやらないも、秀貴次第だ」  秀貴は真っ直ぐに佐久間の瞳を見つめ、ゆっくりと頷いた。

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