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第5話 反 撃

 晩春とはいえ、夕暮れにはまだ冬の寒さがそこかしこに潜んでいた。  東京郊外のM市立公園の隅に建つ公民館からは、まばらな拍手と嬌声が時折り漏れてくる。決して楽な経営とは言えない弱小プロレス団体にとって、それは人気のバロメーターでもある。  秀貴は控え室に当てられた小会議室で自分の試合の順番を待っていた。 (今日は必ず門脇に勝つ。佐久間さんの言うように、借りはリングで返す)  秀貴の心は闘志で滾っていた。 「おいヒデ、そろそろスタンバイしとけよ。あの試合はビッグマーラーの勝ちだな」  リングディレクターから声が掛かった。いよいよ次は秀貴の試合だ。 「青コーナー、167パウンド、ヤングタイガー!」  それが秀貴のリングネームだ。  秀貴がまばらな客席に目をやると、青コーナーに近い最前列に佐久間がいた。 (佐久間さん、見ていてよ。必ず勝つから)  秀貴は佐久間に目をやりながら心の中で呟いた。  続いて門脇がコールされると、赤い紙テープがリングに舞った。それは彼の人気を物語っている。デビューして日の浅い秀貴に比べ、デビューして五年になる門脇にはそれなりにファンがいた。  定石通りリング中央で軽い握手を交わすと、開始のゴングが鳴り響いた。  青コーナーへ一旦引き揚げようと門脇に背中を向けた瞬間に、秀貴は髪を掴まれ、そのまま背中をマットに打ち付けられた。苦悶の表情を浮かべ、後頭部を押さえ、秀貴は転がりながらロープ際までエスケープした。  次の瞬間、秀貴はロープを掴み、一気に伸び上がると、トップロープの反動を利用してドロップキックを放つ。  秀貴の両足は門脇の肩口を捉え、門脇は後ろに倒れながら受け身を取った。それがヤングタイガーの持ち味である空中殺法だった。  パラパラと拍手が鳴り、ヤジが飛ぶ。 「門脇! さっさと片付けちまえ!」 「早くトラを潰しちまえ!」  門脇は不敵な笑みを浮かべながら立ち上がった。 「タイガー、この試合はさっさと片付けて、ベッドの上で二回戦だ」  背筋に冷たいものが走る。門脇はまた秀貴を抱こうとしている。そればかりか門脇の股間は僅かに膨らみを増していた。 「そうはいくもんか。病院送りにしてやる!」  思わず秀貴は返した。  だが門脇は秀貴の言葉に驚くどころか、ニヤけた笑みを返してきた。  秀貴はロープに向かって走り込み、反動で門脇の膝を目掛けて低空のドロップキックを見舞った。だが相手は態勢を崩すこともなく、膝を払って見せた。痛くも痒くもない、と言わんばかりに。  秀貴の体格では門脇に対してラリアットなど効果は期待できない。再び反対側のロープへ走り込み、低空のドロップキックを見舞った。門脇は僅かに表情を曇らせた。少しは効いているようだ。  三度目の走り込みの時に、間髪を入れず門脇も秀貴と同じ方向へ走った。秀貴が気付いた時には既に門脇の剛腕が唸りを上げていた。  秀貴はまともにラリアットを食らい、マットに叩き付けられた。  門脇の勝ち誇ったような顔つきを、まだ薄目しか開かない目で睨みつけた。  膝を抱え込むように引き寄せ、一気に開放する反動で立ち上がる。会場に僅かに驚きの声が湧く。  秀貴は身体を回転させながら、門脇の胸元に肘を当てていく。いわゆる回転エルボーだ。それは秀貴の持ち技だった。  だがやはり門脇にはダメージは残らなかった。  もう一度回転エルボーを狙った時に、再び門脇の剛腕に捕まった。 (しまった!)  秀貴のしなやかな首筋には門脇の日に焼けた腕が巻き付いていた。ぐっと力を込め、筋肉の隆起を誇示しながら、門脇は顔を寄せてくる。 「なかなかやるじゃないか。だがお前に主役の座を明け渡す訳にはいかん。まあ、負けた記憶も残らないくらいに締めてやる。安心しろ」  門脇はそう言うや否や、秀貴の首をガッチリとホールドしたまま、グルグルとマット上で回り始めた。 「出た、回転スリーパー! 落とせ!」  秀貴はすっと意識が遠のくのを感じた。次の瞬間、門脇は絡めていた腕をいきなり離した。遠心力で秀貴はリングのコーナーまで飛ばされた。また拍手が起こる。これも門脇のパフォーマンスなのだ。  ゆっくりと秀貴に近づき、身体を無理矢理抱きおこすと、再び剛腕を秀貴の首に巻き付けていく。  と、その時だった。  秀貴は近づいてきた門脇の手首を掴み、自分の身体の回転を利用して門脇の腕を外側に捻り上げた。 「ぐわーっ!」  門脇の唸り声が上がる。観客は何が起きたのか理解できないようだった。  それは護身術の一つで、佐久間が秀貴に伝授した技だった。  自慢の腕を自分の背中に押し付けられた門脇は顔を真っ赤にして怒りを露わにした。 「ガキが舐めたマネをしやがって!」  秀貴は締め上げていた腕を緩め、そのまま自分の肩に背負うような格好で思い切り打ち付けた。腕殺しだ。 「グエーっ!」  情けない声を上げ、門脇は苦悶の表情を見せる。  秀貴は一瞬、会場にいる佐久間の方へ視線を向けた。それを受け止めた佐久間は口角を僅かに上げると、右手の親指を立てて見せた。  それは秀貴には「いい線いっているぞ」という佐久間の賛辞に思えた。  だがそれくらいで黙って負けを認める門脇ではなかった。門脇は秀貴の髪を掴み、まだ残っている左手で至近距離のラリアットを放った。不意打ちを食らい、秀貴は後頭部からマットに倒れ込んだ。  再び秀貴の髪を掴み上げようと前屈みになった門脇に、秀貴は両足を抱えるようにして一気に両足を相手の胸元に突き上げた。  門脇は不意を突かれた床からのドロップキックに、もんどり打ってマットに転がった。 (まだだ。これくらいで倒せるような相手じゃない)  秀貴はコーナーポストに駆け上がった。ここからは秀貴が得意とする空中殺法を繰り出す作戦だ。ヨロヨロと立ち上がる門脇を見据え、一気にコーナーの最上段から飛び出し、空中で回転する。狙っているのは回転かかと落としだ。  だが秀貴は門脇がダメージを装っていることはわかっていた。  案の定、門脇は上から落ちてくる秀貴から身体を僅かにずらし、左足を軸にして右足で迎撃する態勢に入った。  だが最初から秀貴は見切っていた。秀貴はふわりと浮いた門脇の右足を掴んで着地し、片足立ちの左足の膝裏を蹴った。  門脇はスローモーションのように後頭部からマットに倒れ込んだ。  客席から歓声が沸き起こった。それは門脇に対してではなく、秀貴に向けられたものだった。 「いいぞ、ヤングタイガー! デカブツを倒しちまえ!」  秀貴は初めての歓声に戸惑いを見せた。その一瞬の隙を突かれた。門脇の水面蹴りで両足をすくわれた秀貴はマットに尻餅をついてしまった。 「いい気になるなよ、若造が!」  怒りに顔を染めた門脇が、秀貴の上に覆いかぶさるように跨ってきた。秀貴の脳裏にあの時の恐怖が蘇る。なす術もなく門脇に凌辱された屈辱が頭をよぎる。  門脇は汗を垂らし、上気した獣のような顔を秀貴の顔に近づけて来た。 「もうお遊びは終わりだ。可哀想だが絞め落とさせてもらうぜ」  門脇は秀貴の髪を掴み上げ、身体を起こそうとした。  その時、秀貴の脳裏に佐久間の顔が浮かんだ。 (タイミングを見つけ出せ。秀貴が下になり、奴が上になった時がチャンスだ。この技は必ず下から狙え。一気に上に向かって腕を突き出すんだ)  秀貴は正気を取り戻すと右腕、そして続けざまに左腕を下から突き上げた。  門脇は腕から力が抜け、さらには上半身からも力が抜けていき、秀貴の上に崩れ落ちた。  会場がざわつく。 「何だ、何が起きたんだ?」 「門脇、何してんだ!」  マット上での攻防は観客からは見えにくかったようだ。  秀貴は門脇の身体を横にずらし、立ち上がった。  呆気に取られていたレフリーがようやく事態に気付き、ゴングを要請した。  激しく打ち鳴らされるゴングを聞きながら、秀貴は左手をレフリーに抱え上げられた。  秀貴が勝利したのだ。  門脇はぐったりしたまま微動だにしない。様子を見守っていた門脇のセコンドがリングになだれ込んで来た。 「えー、今の決まり手は掌底です」  マイクを手にしたレフリーが、観客に向かってヤングタイガーの勝利を宣言した。 (いいか、お前の力で自分よりふた回りもデカイ相手に大きなダメージを与えるのは難しい。だが掌底なら活路を見出せるだろう。ただその場合、条件の見極めが大事だ。まず自分が下にいることだ。何故なら上から掌底を打っても、大したダメージは与えられない。だから下から打ち上げるようにしろ。それも二連発だ。一発目で相手の頭は後ろへ反る、二発目は相手の頭が下がってくる時に自重が重なる。つまり掌底の破壊力が強くなるという事だ。慎重にタイミングを狙え)  試合までの僅かな時間を、佐久間は秀貴のために割いてくれた。寝る間も惜しみ、秀貴は自室で佐久間の個人トレーニングを受けた。幸いなことに他の警察官は二人をそっとしておいてくれたため、二人は練習に打ち込むことができたのだ。  そして佐久間はもう一つ、門脇の得意技であるスリーパーホールドのかわし方を伝授してくれた。 (あとは秀貴、お前次第だ)  佐久間の言葉が頭の中を駆け巡っていた。 (俺は門脇に勝ったんだ)  秀貴はようやく素直に勝利の喜びに浸った。そしてこの勝利をもたらしてくれた佐久間の姿を探した。だが佐久間の姿はどこを見渡しても見つけることはできなかった。  秀貴は勝利者に与えられるトロフィーの授与を無視してリングから降りた。控え室に戻り、試合のコスチュームのまま手荷物だけを掴み上げ、会場の出口へと向かった。  秀貴には佐久間は必ず自分を待っていてくれるという確信のようなものがあった。  会場を出ると、そこは公園の出口に繋がっていた。そのまま蔦の絡まるゲートを出ると、そこに佐久間の車があった。 (やっぱりいてくれた)  秀貴は熱いものが胸に込み上げてくるのを堪えきれなかった。 「佐久間さん!」  佐久間は車のドアを開け、立ち上がった。 「もういいのか?」  佐久間が言い終えないうちに、秀貴は佐久間に近づき、思い切りその背中に両手を回した。  秀貴は込み上げる嗚咽を堪えることも忘れ、涙を零した。 「俺、俺は勝ったんだよね?」 「ああ、秀貴は勝ったんだ。門脇にではなく自分自身の運命にだ。お前自身の力でな」 「運命に?」 「そうだ。運命にだ。哀しみの連鎖に打ち勝ったんだ」 「哀しみの連鎖に……」  僅か数日のうちに、秀貴は多くの哀しみに苛まれた。両親を失い、妹を失い、自分のプライドさえも失ってしまった。  だが秀貴は自分の力でその連鎖を断ち切ろうとしているのだ。 「あとのことはいいのか?」 「うん、仲間に頼んで来た」 「じゃあ乗れ。まずシャワーだな」 「うん」  秀貴は涙を拭い、佐久間の車に乗り込んだ。

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