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第6話 初めての夜

 秀貴は真っ赤なみみず腫れが浮き上がった胸元にそっとシャワーを当てた。 (いてっ、やっぱり少し滲みるな……)  だがそれは勝者となった秀貴には名誉の勲章にも感じられた。 (また佐久間さんの部屋に来てしまった)  秀貴の身体は疲労でくたくただというのに、頭の中は妙に冴えていた。 (前回ここに来た時も身体は疲れ切っていた。もちろん精神的にも参っていた。だが今回は違う。確かに疲労は感じるけれど心は高揚している)  秀貴はこれまでとは違う感情が自分の中で芽吹いていることを感じていた。だがそれがどういう意味を持つものなのか、どう折り合いをつければいいのかまだわからなかった。  秀貴はふと棚の上にあるシリンジに目を止めた。それをどう使うのかはもう知っていた。秀貴は大きく息を吸い込むと、まるで何かを振り払うように頭を左右に振った。 (考え過ぎだ、秀貴。佐久間さんはそんな事を望んでなんかいないし、望んじゃいけない。いや僕だってそんな事、望んでないじゃないか)  秀貴はシャワーを顔に当てた。よからぬ考えなど洗い流してくれと言わんばかりに。  シャワーを止め、バスルームのドアを開けて脱衣所に用意されたタオルを手に取った。化粧台の鏡に映るショートウルフカットの髪も、今は頭皮にペッタリと張り付いていた。  大きめのタオルを腰に巻き、リビングへ出ると、佐久間は険しい顔付きで電話を手にしていた。佐久間は浴室から出て来た秀貴を一瞥すると、通話を切ってテーブルに電話を置いた。 「秀貴、すまないが用事ができた。冷蔵庫にシャンパンと料理がある。先に食べていてくれないか」  佐久間はそう言い残すと、テーブルの電話と車のキーを手に取り、玄関へと向かった。 「え? 出掛けるの? じゃあ僕も……」  秀貴はそう言いかけてやめた。遠くでドアがバタンと閉まる音がした。 (行っちゃった……)  お腹は空いていなかった。だが佐久間の言葉を確かめるように冷蔵庫の前に立ち、ドアを開けてみる。そこにはシャンパンのボトルが三本と、大きなプラスチック製の飾り皿に色とりどりの料理が盛られていた。 (これいつの間に用意したんだろう? それとも試合の結果が出る前から僕が勝つと思って用意していたってこと?)  秀貴は嬉しかった。佐久間は自分の勝利を信じていたのだ。そして改めて勝利の実感が湧き上がってきた。  だが秀貴は妙な寂しさを覚えた。  今までは試合に勝とうが負けようが、試合の後は一人ぼっちだった。レスラーをしていることは家族にも内緒にしてきたから、一緒に喜んでくれる人さえいなかった。  なのに今は少しだけ違っていた。本当なら一緒に祝ってくれるはずの佐久間は出掛けてしまっている。秀貴はまるで恋人に急用ができて、一人置き去りにされたような切なさのようなものを噛みしめていた。  用意されていたTシャツと真新しい白い下着を履き。秀貴はソファーに深く身体を沈めた。すっかり乾いた髪の毛を手で梳きながら、秀貴は物思いに耽っていた。 (佐久間さん、恋人はいるんだろうか。歯ブラシは一人分だし、大体この部屋には女性用のものが何一つない。衣類も靴も、装飾品の類も。でも食器はみんな対になっている。本当に一人暮らしなんだろうか?)  頭の中で答えの出ないクイズのようなものが堂々巡りを繰り返す。 (もしかすると、さっきの電話は恋人からで、僕がいるから外で合っているんじゃないか? 僕は佐久間さん達の邪魔をしてしまったんじゃないだろうか?)  動悸が速くなる。秀貴は立ち上がると帰り支度を始めた。 (でも、帰りたくない。スーツ姿の無骨な警察官が取り巻いているだけの家になんか。それに佐久間さんはいない。ただ一人で朝まで寂しさを我慢するだけだ)  秀貴は手にしていたリュックを床に下ろした。  やはり食欲はなかった。疲れてはいるが、食べ物を口に運ぶ気にはなれそうもない。  秀貴は佐久間の寝室に入り、ベッドに身体を横たえた。  色々な思いが浮かんでは消えた。門脇との試合のことで気が紛れていたが、あの悲しい事件のあと、夜になってこうして一人きりになるのは初めてのことだった。 (母さん、父さん、亜希子……)  涙は唐突に溢れ出した。  佐久間が部屋に戻ってきたのは二時間ほどしてからだった。 「すまない秀貴……?」  秀貴がリビングにいない事に気付き、佐久間はバスルームへ向かう。だが灯りは消えていた。 (帰ってしまったのか?)  リビングには食事をした形跡もない。佐久間が冷蔵庫を開けてみると、中は自分が出かける前と何も変わってはいなかった。 (やはり帰ってしまったか……)  心なしか佐久間は肩を落とし、ネクタイを緩め、上着を左手に掛けて寝室へと向かった。  部屋の灯りを点けようと壁に手を伸ばそうとした時に、佐久間は気付いた。  レースのカーテンから射し込む月明かりに、ベッドに横たわる秀貴の姿を。佐久間は思わず息を呑んだ。  秀貴の上を向いた寝顔は月光に照らし出され、白銀の彫刻のように美しくかがやいていた。佐久間は息をすることさえ忘れ、静かに秀貴に近付いた。ベッドの横にそっと腰を降ろし、秀樹の顔に見入った。  秀貴の頬には涙を流したような跡が残っていた。 (すまない、お前を一人きりにしてしまった。もう少し気遣うべきだった)  どんなに強がっていても、秀貴は両親と妹、家族全てと別れさせられて悲しんでいるのだ。それに秀貴に関係のない話ではなかったのだ。どんな秘密があったとしても、秀貴を一緒に連れて行くべきだった。  佐久間は後悔の念に苛まれた。 「かあ……さ……ん」  秀貴の瞳から一筋の新しい涙が零れた。 「秀貴……」  佐久間はそっと秀貴の頬に手を当て、涙をすくい取った。思わず秀貴を抱きしめたい衝動に駆られる。 (いかん、秀貴は今の俺を受け入れることなんか出来るわけがない。慎むんだ龍一!)  佐久間は初めて会った時から秀貴に対して特別な思いを抱いていた。だがそれが一時的なものだとしたら、今の彼をいたずらに苦しめるだけだ。 佐久間は秀貴が自分自身の力で、今の苦しみの中から這い上がる手助けをする事だけを考えるようにしてきたのだ。 (哀しみの中から這い上がれ、秀貴。もし今はまだその先に希望が見えないとしても)  佐久間は心の中で秀貴に向かって叫んだ。  ふと何かが佐久間のワイシャツの袖を引いた。その力は次第に強くなっていった。 「秀貴? 起きたのか」  秀貴は言葉を口にしないまま、佐久間の左腕を掴み、引き寄せた。 「ひ、秀貴?」  佐久間の目の前に秀貴の顔があった。美しい瞳、すらりと通った鼻筋、肉付きは薄すぎず厚すぎず、きめの細かい綺麗な唇が佐久間を一瞬で虜にしてしまった。あるいは月の光の魔法にかかって夢でも見ているのではないかと思った。 「佐久間さん、僕を抱いて」  その言葉を聞いた佐久間は身動き一つ、息一つ出来なくなってしまった。

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