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第8話 契り

 静かな朝だった。普段なら気づく事もない鳥のさえずりや、表の国道を走る車の音までも聞こえてくる。  佐久間は眉間に皺を寄せながら訝しんだ。時計の針は朝の六時を指していた。それにしてもここはそれなりの防音設備の整った部屋だ。普段ならば外部の騒音など絶対に聞こえるはずはないのだ。  佐久間が掃き出し窓を見やると、そこには裸のままの秀貴がサッシを開け放ち、やがて登ってくるであろう朝陽を出迎えるかのように佇んでいた。  そのシルエットは光の悪戯か、あるいはシルクのカーテンが風にそよいで、秀貴に纏わりついていたからか、まるで天使が舞い降りてきたのかと思いたくなるほど眩しく、何より美しかった。 「秀貴、起きていたのか?」  一糸纏わぬ朝陽の訪れを待つ天使が振り返った。佐久間は思わず胸が高鳴った。こんな気持ちを抱いたのはいつ以来だろうかと。そっと目を細めながら佐久間は天使に微笑みかけた。 「あ、ごめんなさい。起こしちゃった?」 「ああ。秀貴がそんなあられもない姿で立っているから、俺の息子まで飛び起きてしまったみたいだ」  秀貴はビクンビクンと腹を打つ佐久間の分身に視線を向け、すぐに下を向いて顔を赤らめた。おそらく昨夜の自分の行動を思い出して、恥ずかしさが一気に襲いかかってきたのだろう。 「あ、……いやだな、そんなこと……」  否定の言葉に意味がないことは秀貴自身がよくわかっていた。秀貴はもう絶対に引き返せない運命の橋を渡ったのだ。自分自身の意思で。そして佐久間はそんな秀貴に全身全霊で応えてくれたのだ。 「なんだ、カーテンが持ち上がっているぞ?」  秀貴は思わず自分の股間を両手で押さえた。 「こっちへ来いよ。まだ起き出すには時間がある。もう一度お前を抱かせてくれ」  秀貴はコクリと頷き、ゆっくりと佐久間に近付くと、その鍛え抜かれた大きな胸に抱きついた。 「龍一さん……」 「いいか秀貴、俺はもうお前と離れる気はない。例えお前が嫌だと言ってもだ」 「僕も離れないよ。そうする覚悟があったから僕は……」  消え入りそうになる秀貴の言葉を、佐久間は唇で塞いだ。 「好きだ、秀貴。でもそれは昨日までのことだ」  秀貴は佐久間から顔を離した。その顔には驚きと戸惑いの表情が浮かんでいた。 「今はお前を愛している。誰よりも、何よりも」  秀貴は目頭が熱くなり、唇が僅かに震え、佐久間の顔が滲んで見えた。 「龍一さん、僕も、僕もあなたを愛しています!」  佐久間は秀貴を引き寄せ、左手でその頭を愛おしげに撫でると、頬を伝わる涙を指ですくい取った。 「お前の本気が伝わってきたよ。ちゃんとここにな」  佐久間は秀貴の左手を掴むと、その手を自分の胸に当てた。 「……本当に信じていいの?」 「疑うだけ無駄だ。お前にはすぐにそれがわかるはずだ」  秀貴はもう二人の間に言葉はいらないのだと感じた。何から何まで初めてのことだというのに、秀貴には自分のなすべきことが、まるで初めから全て分かっていたように感じられた。そしてこの人こそが自分の一番大切な存在なのだと。そしてこれは若さが見せる幻などではなく、真実の愛に違いないのだと。 「秀貴、今日は出掛ける予定はあるのか? いつも通りならトレーニングだな」 「プロレスのことを言っているのなら、もう僕は行かないよ」  佐久間は驚いて身体を起こした。 「何だって?」 「試合の前に社長に退団届けを出して来たんだ。あの試合の勝敗に関わらず、僕は退団するつもりだった」 「そうか……」 「失望した?」  佐久間はにっこりと微笑んだ。 「いや。これで心配の種が一つなくなった」  秀貴はクスッと笑った。 「もしまた門脇が何かしてきたら、僕は黙って相手にするつもりはないし、もしまた手を出したら警察の厄介になってしまうかも知れないでしょ?」  秀貴は佐久間に掌底を打つ身振りをして見せた。 「これは大した自信だな、奥様?」  秀貴は一瞬目を丸くした。だが秀貴にはその言葉が今までとは全く違って聞こえた。 「奥様か。悪くないね」  佐久間はきょとんとした顔付きになった。 「何だ、怒るのかと思ったのに」 「何かのドラマで言っていたよ。女房を抱かない男は夫じゃないって」  秀貴は佐久間に口づけをした。いたずらな軽いキスは本気で相手を求める接吻へと変わり、二人は蕩けるような甘い時間にその身を委ねた。  その日の夕方、佐久間は大事な仕事があると、秀貴を仲間の張り込んでいる安全な自宅に送り届けた。  佐久間は昨夜、秀貴を部屋に残したまま舜からの呼び出しで外出した。舜から知らされたのは秀貴の妹、子虎亜希子が監禁されているという情報だった。  そして夕方になって、ようやく組織が亜希子を監禁している場所がわかったと、舜から二度目の連絡が来たのである。  佐久間は阿佐ヶ谷にある国道沿いのビルの前に立っていた。  辺りはすっかり日が暮れていたが、まだ夜というほどではない。国道を行き交う車は少なくはないが、近くに信号がないせいか、物凄いスピードで走り過ぎていく。周りに人の住んでいる建物はまばらで、歩道を歩く人の姿はほとんどない。  おそらくここは建設半ばで工事が中断され、そのまま放置された建物なのだろう。外部は高さが三メートル程もあるベージュの鋼板パネルで囲ってある。パネルの扉部分を探していると、パネルをくり抜いた部分に同じ材質でできた開口部らしき場所が見つかった。錠前が付いてなければそこが出入り口だと気付かないかもしれない。  舜からの情報によれば、今夜は重要な取り引きがあるため、女一人の監禁場所は手薄になるらしい。それに外からの錠前が掛けられているということは、おそらく中にいるのは子虎亜希子一人だろう。  舜から錠前の合わせ番号は聞いてある。五つの数字を合わせるタイプのものだが、その場には不釣り合いなほど頑丈そうな錠前だ。  慎重に錠前を外し、扉の中へと侵入した。佐久間は物陰に一旦身を潜めると、上着のボタンを外し、左胸の辺りに手を入れ拳銃のグリップを掴んだ。  もし組織の人間に鉢合わせしたら厄介なことになる。十分に用心しなければならない。  教えられた三階まで階段を上がり、音を立てないように慎重に扉を開く。人の気配はない。だが油断は死を招きかねない。佐久間は拳銃を取り出し、安全装置を外した。  奥に裸電球が吊り下げられた場所がある。灯りらしきものがあるのはそこだけのように思えた。  一歩づつ距離を詰めていく。やはり物音一つしない。誰もいないようだ。  灯りの下まで行くと、木製の椅子が一つ、電球の真下に置いてあった。その床の辺りには固まりかけた血溜まりがあった。椅子の後ろには解かれたロープがあり、それにも僅かに血が付いていた。 「他へ移されたか……」  佐久間は失望を禁じ得なかった。そして仲間に電話を入れ、鑑識を臨場させるよう指示を出した。  この血痕が子虎亜希子のものであるかどうか、確かめなければならない。  だが同時に佐久間は舜の身が案じられた。 (この情報を掴むために、舜は危険を冒してはいないだろうか。あるいはそれが組織に知られて彼女を他へ移したとも考えられる)  佐久間は不安に駆られた。 (舜、今どうしている? 電話に出ろ、舜!)  佐久間は心の中で叫んでいた。

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