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第9話 捜索

 現場は鑑識も引き揚げ、今は閑散としていた。  鑑識捜査に関しては素人である佐久間でも、子虎亜希子の捜索に十分な物証が残されているとは思えなかった。  血痕、毛髪、あるいは指紋も採取できたかも知れない。だが肝心の亜希子の生死を判断するものも、彼女の行方を示すものも何一つないのだ。 (もっと情報が必要だ。だがこれ以上は無理だ。舜を危険にさらす事になる。組織は一体何を望んでいるんだ?) 「佐久間さん、大丈夫ですか? 顔色がすぐれませんね」  話し掛けてきたのは同じ課の山岡雄介だ。彼は佐久間の二年ほど後輩になる。身長は佐久間より僅かに低いが、それでも百八十センチは越えている。  鼻筋は通り、輪郭がくっきりと浮き上がる髭をたたえている。顎先まで細く整えられ、唇の周りだけ太く残された髭は、山岡の知性を感じさせていた。歯切れのいい低音を響かせる声はいわゆる美声だった。 「佐久間さん、秀貴君は随分とあなたに懐いたみたいですね。初めの頃からは考えられないくらいだ」  佐久間は山岡の口調に、どこか棘のある感情を読み取った。 「ああ、そうだな」 「やっぱり愛、ですかね」  佐久間は山岡を睨みつけた。 「どう言う意味だ?」  山岡は悪びれもせず、佐久間との間合いを詰めてきた。数歩後ずさり、佐久間は壁に逃げ道を遮られた。山岡は佐久間との距離を推し量るように、佐久間の後ろにある壁に右腕を伸ばした。そして山岡は佐久間の口元に視線を向けたまま続けた。 「俺はずっと佐久間さんを見てきました。あなたの行動、思考、言動の全てをね。それで結論が出ちゃったんですよ」  佐久間はそれでも眉ひとつ動かさず、山岡の両目を凝視した。 「あなたは強い人だ。俺にここまでされて動じないんだから。いや、案外あなたは鈍感なのかな。俺の考えていることがわかります?」  佐久間は左手を肩口まで上げると、壁に根を生やした山岡の右手を掴んだ。 「今のことは忘れてやる。だからお前もつまらん事は考えずに仕事に戻れ」  そう言い残し、佐久間はその場を後にした。 「ちぇっ、やっぱり鈍感なんじゃねーか」  山岡は靴底で床を蹴りながら独りごちた。  佐久間は山岡の心情を以前から勘づいていた。だがそれに応えてやることはできない。そうわかっている以上、そこから先に踏み込ませることはできない、と。  佐久間はふと胸騒ぎを感じた。 (舜は俺の部屋を知っている。もし舜が助けを求めるとしたら……まさか?)  佐久間は急いで車を走らせ、部屋に向かった。バックミラーを覗き込みながら、追ってくる車がいない事を確かめると、佐久間は車を停め、部屋に向かった。 「舜、大丈夫か?」  部屋の前にうずくまる人物が誰なのか、佐久間にはすぐに理解できた。  まるでボロ雑巾のように衣服を汚され、破かれてしまった姿は、他の人ならばすぐに舜だとは思わなかったかも知れない。今にも止まってしまいそうな浅い呼吸、髪は乱れ、あちこち切り刻まれたような無残なシルエットだった。 「舜!」  佐久間は彼を抱き起こし、そっと顔を上げさせた。  よほど酷い仕打ちを受けたのだろう。顔は腫れ上がり、視界に入るものも少ないだろうということがすぐにわかる。 「龍さん……?」 「何も喋るな。すぐに手当てをしてやる。だから安心しろ、舜」  佐久間は注意深く舜を抱き上げ、部屋に入るとまっすぐに寝室へ向かった。 「痛むか?」 「……大丈夫。俺だって男だよ……」  舜の口元から息が漏れた。おそらく舜は笑おうとしているのだ。だがあの可愛らしい声も、口角が引き上げられた満面の笑みも、今は見る影もない。  佐久間は怒りと自責の念を必死に堪えながら、舜のボロボロにされた衣服をそっと脱がせていった。  身体中に内出血の跡がくっきりと浮き上がっている。酷い暴力の跡が佐久間の心を打ちのめした。 「舜、俺のせいでこんなことに……すまない」  舜は何も反応を返しては来なかった。佐久間は舜の胸にそっと耳を当てた。弱ってはいるが心臓は確かに舜が生きている事を知らせてきた。呼吸もしている。佐久間は舜の全身を確認して、致命傷になる傷を負っていないか確かめた。 「病院はだめ……俺……クスリを打たれてる……から」  佐久間は自分の髪の毛をぐっと掴んだ。舜の言う通り、病院へ連れていけば被害者であるはずの舜自身も警察に捕まってしまうことになる。これ以上、舜の人生を悲惨な目に合わせることは佐久間には出来なかった。 「わかった、安心しろ。手当ては俺がする。だから今はゆっくり眠るんだ」  これほどまでの仕打ちを受けながら、この部屋までやって来れたのは、皮肉だが打たれたクスリのせいもあるのだろうと佐久間は思った。 「課長、すみませんが今夜はそっちへは戻れません」 「何があった?」 「今回の情報を流してくれた男が怪我をしています。恐らく組織から制裁を加えられたのだと思います」  佐久間は電話越しに課長の岩城の返答を待った。病院へ連れていけない事をどう説明するべきか、まだ考えあぐねていた。 「お前一人で大丈夫か? 誰かそっちへ向かわせるぞ」 「いえ、今は自分一人で大丈夫です」 「わかった。いいか、何かあったらすぐに連絡を寄越せ。佐久間、無茶はするなよ」 「ありがとうございます課長」  佐久間は岩城に礼を言うと電話を切った。課長は自分を信頼してくれている。そう思うと、頭が下がる思いだった。  掃き出し窓の外が白々と明るくなり始めた。忌まわしく思えた夜が空の向こう側へ帰っていく。揚々として朝陽が頭をのぞかせる。  佐久間は枕元でタオルを絞ると、そっと舜の首筋の汗を拭った。今、この瞬間も舜の身体は全力で死と闘っているのだ。熱に浮かされて、言葉が口元から漏れ出ようとするのをまた一方の何かが邪魔をしているように思えた。 「舜、帰って来い。迷うな、舜」  佐久間は一晩中、側で舜の命の闘いを見守っていた。 「龍さん……?」  舜の弱々しいが、はっきりとした言葉が返ってきた。 「ああ、俺だ。わかるか舜?」  僅かに舜の右手がベッドから浮いた。佐久間はその手をそっと両手で掴んだ。 「良かった、会えたんだね、龍さん……」 「もう大丈夫だ。だから今はまだ眠るんだ」  ふっと舜の右手が力なく緩んだ。また眠りに引き寄せられたのだろう。 「龍一さん、誰、それ?」  佐久間は振り返って驚いた。寝室の戸口に秀貴が立っていたのだ。  おそらく自分が帰らない事を知り、朝になって屋敷を抜け出して来たのだろう。  佐久間はどう話せばいいか考えを巡らせた。だがその場しのぎの説明で秀貴が納得できるはずがない。佐久間は今、本当のことを伝える時だと感じた。 「彼は爆破事件の犯人グループに近い人物だ。まだはっきりとは言えないが、お前の妹の亜希子さんは犯人グループに連れ去られた可能性が高い。その情報を俺に伝えたためにそれを組織に知られて、彼は暴行を受けたんだ」 「亜希子が……生きているの?」 「まだ詳しくはわからん」  生きているのか、あるいは既にそうではないのか、まだ誰にも分からないのだ。    秀貴は踵を返し、寝室を出て行った。佐久間は秀貴を追った。  ようやく玄関先で秀貴の腕を掴むと佐久間は秀貴の唇を捕らえた。

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