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第12話 拉致の果てに(2)

 佐久間は車の助手席に置かれたラップトップパソコンを開いた。画面はすぐに起動し、碁盤の目のような細かなラインで割った地図の上に、一つの光る点を探し出した。 (秀貴、すぐに行く。待っていろ)  心の中で呟くと、佐久間は車を発進させた。  光の点のある所在地はすぐに車載のナビに転送され、目的地を示した。 (やはり晴海埠頭か……)  光の点と、シャツに書かれていた住所が一致した。だがその場所を秀貴が知るはずがない。ならばそれを書いて佐久間に知らせようとしたのは舜だ。 (舜、一体どういうことだ?)  二人を連れ去ったのが組織の人間だとすれば、舜がシャツに所在地を書くだけの時間があったとは思えない。二人が一緒に拉致されたとするなら、鼻から舜にそんな時間はなかっただろう。 (だとすれば、組織を部屋に引き入れたのは舜だというのか?)  その時、佐久間の胸元で電話が震えた。取り出してみると、電話の相手は課長の山城だった。 「はい、佐久間。課長。え? 今何て言いました?」  佐久間は自分の耳を疑った。 「いいかようく聞け。子虎亜希子は事件の前に会場を自分で出て行ったんだ」  佐久間は課長の話に納得がいかなかった。彼女は事件が発生した時に会場にいなかった。しかも自分で出て行ったとはとうてい理解できることではなかった。 「複数の防犯カメラの解析が済んだ。これは間違いないことだ。つまり彼女は事件に全く違った形で接している可能性があるんだ」 「わかりました課長、とにかく今は子虎秀貴のことが最優先です」 「ああ、わかっている。こちらでも位置情報は確認した。佐久間いいか、無茶はするなよ」 「課長、ありがとうございます」  仲間との連絡を終え、佐久間は今後のことを冷静に判断をしなければならいと覚悟を決めた。  佐久間は探し当てた倉庫の裏に車を停めた。 (ここに間違いなく秀貴がいるはずだ)  佐久間は車を降りると、倉庫の入り口の前に立った。左胸のホルダーに手を当て、銃のグリップを確認した。出来るならこれは使いたくない。だが秀貴を守るためならば仕方がない。  倉庫の出入り口は施錠されていなかった。 (これは罠か?)  佐久間は訝しがりながらも、ここに秀貴がいることを確信した。これが罠であったとしても自分は行かないわけにはいかないのだと。  佐久間が倉庫の中に入ると、一斉に照明が点灯した。そして一番奥に祭壇のような造作が設えてあった。 「よくここがわかったわね、佐久間」  その声の主は間違いなく秀峰(しゅうほう)だ。佐久間には確信があった。 「お前か秀峰、子虎秀貴と舜を拉致したのは?」  集められた明かりの中心に、その声の主は立っていた。 「次に会った時は殺すと言っておいたはずだ。殺されるとわかっていて何故ここに来た?」  佐久間は毅然とした態度で光の輪の中へ歩き出した。 「例え殺されるとわかっていても、俺は愛する者を守るために立ち向かう。そんなことはわかっているだろう、お前にも」  秀峰と呼ばれた女は、後ろで縛っていた長い髪を解いた。そして銃を佐久間に向けた。 「わかっているなら話は早い。ここで死んでもらおうか」  佐久間は胸元のホルダーから銃を抜き、両手で構えた。 「私にはまだやらなければならないことがある。お前に邪魔をさせる訳にはいかない」  秀峰がそういうや否や、佐久間の周りに黒いスーツを着た男たちがバラバラと現れた。 「ただお前はまだ置かれた状況がわかっていないようだ。これを見るがいい」  秀峰に促され、佐久間が視線をやった先には後ろ手に縛られた舜と、二人の男に抱えられるように、ようやく立っているといった様子の秀貴だった。 「秀貴! 無事か!」  秀峰は高らかな笑い声を上げた。 「惨めな姿だな、佐久間。お前らしくもない。こいつにはデスドラゴンを使っただけだ。じきに元の姿に戻る。ただ、その悦楽に抗うことができればの話だが」  佐久間はぐっと奥歯を噛み締めた。話には聞いていた。その薬は組織が新しく売買している物で、悦楽と引き換えに人の中枢神経を壊してしまうものだと。 「秀貴、今助ける! 待っていろ!」  佐久間の心から絞り出された言葉も、今は秀貴には届かないようだった。 「何が望みだ、秀峰!」 「私は香港へ向かう。その邪魔をしないで貰いたい」 「どのルートで行くのかさえわからないでは、助けようもない」  佐久間は賭けに出た。このまま膠着していても秀貴と舜、そして子虎亜希子を救い出すことはできない。 「いいだろう。今夜、海沿いにここから横浜港へ出る。そこで香港までの大型客船に乗り込み、この国を出る」 「いいだろう。見逃してやる。だがその二人は置いていけ」 「子虎秀貴……こいつをすぐに手放すのは惜しい。我が婿に迎えてもいいと思っている」 「それは認められない」 「お前の愛する男だからか?」 「そうだ!」  秀峰は足元に唾を吐いた。 「ならばお前もついてくるがいい」 「秀峰、子虎亜希子はどこにいるんだ!」 「一足先に上海に向かった。いずれ合流することになる」  佐久間は左手をぐっと握り締めながら、銃を構えたまま秀峰を睨みつけた。 「怒る顔もまたいい。昔のお前を見ているようだ」  秀峰は目を細め、遠い過去に思いを馳せていた。  横浜港まで乗り継ぐための船はかなり小型だった。おそらくは釣り船なのだろう。  渡し板を数人の黒いスーツ姿の男たちが足早に渡って行く。先頭の集団に秀峰がいた。彼女は船の上から佐久間たちを見つめていた。  ヨロヨロと足元が覚束ない秀貴が両肩を支えられ板を渡る。そして次は舜の番だ。背中を小突かれ、板の上に数歩歩き出した時だった。秀峰が左手を上に挙げた。その姿を見ていた舜は嫌な予感を覚え、後ろにいる佐久間を振り返った。パシュっと、空気が抜けるような音がした。その途端、佐久間は小さく呻きながら片膝を地面についた。 「龍さん?」  佐久間の後ろにいた男が彼の背中を蹴った。まるでスローモーションの様に転がった佐久間は、岸壁の縁からそのまま落下して行った。少し遅れて大きな水音がした。佐久間は暗い海へと突き落とされたのだ。 「龍さん!」  舜は傍で彼の肩を押さえていた男の手を振りほどき、佐久間が落ちた岸壁に駆け寄った。後ろ手に縛られたまま、舜は佐久間を追うように暗い水面に向かって跳ねた。 「舜!」  ほんの一瞬、秀峰は姉の顔をのぞかせた。だがまたすぐに冷徹な組織のトップとしての顔つきに戻っていた。 「龍一さん! 何をするんだ、悪魔め!」  ふらふらと意識と無意識の狭間を行き来している秀貴が大声で叫んだ。身体の自由は効かなくても、秀貴は周りの状況は理解できているようだった。そして掴まれている手を振りほどこうと必死にもがいた。だがまだデスドラゴンの効き目が消えない秀貴は身体に充分な力が入らなかった。  秀峰は口角を上げ、僅かに微笑んだ。 「黙らせなさい!」  すると横にいた屈強な男が秀貴の首に腕を回し、頸動脈を締め上げた。秀貴は足を踏ん張るように身体を支え、必死に逃れようと試みた。だが無駄だった。秀貴の両腕は力なく垂れ下がり、がくりと首を項垂れた。意識を失ってしまったのだ。  秀峰は佐久間と舜の二人が落ちた真っ黒な海面に向けて、三発ほど銃を撃った。パシャリパシャリと水面が弾けたが、弾が当たったのかどうかは誰にも分からなかった。  再び水面が静かになり、海岸線から届く僅かな光を撥ね除け、暗澹とした模様を浮かび上がらせた。  秀峰の頬には僅かに悲しみの色が浮かんでいた。秀峰にとって、佐久間は一度は心から愛した男だった。今ではどんな権力も金も自由になる立場となったが、その心は決して満たされることはなかったのだ。 「もういいわ。あのまま海で溺れるしかないのだから。さあ、先を急ぐわよ!」  秀峰は何かを断ち切るかのように声を張った。 「龍一さん! 死なないで!」  息を吹き返した秀貴は甲板に倒れたまま身体を捻り、声を上げた。だが秀貴の悲しい叫びは、夜の埠頭に吸い込まれていった。  ゴボゴボと水の音だけが頭の中で反響する。苦い水が鼻や耳から入り込み、舜の全身を飲み込んだ。 (龍さん! どこ? 龍さん!)  必死に目を見開いても何も見えない。今の舜を苛んでいるのは、佐久間と自分を引き裂こうとしているこの暗い闇だけだった。  両腕の自由がきかない。上も下もわからない。おそらく身体は海面に浮き上がるだろうと高を括っていた舜は、すっかり混乱していた。 (どっちが海面なんだ)  海水の水温は思っていたよりもずっと低く、身体から体温を奪っていく。舜の思いとは裏腹に、時間だけが冷淡になまでに過ぎて行く。  息が続かない。一度飲み込んでしまうと、海水はどんどん口の中へ入り込んでくる。後先を考えずに飛び込んだことに後悔はなかった。ただこのまま佐久間を見つけられないのでは飛び込んだ意味がない。しかも佐久間は銃で撃たれたのだ。早く探し出して助けなければ。 (龍さん……)  だが舜にはどうすることもできなかった。佐久間を救うことも、自分自身を救うことも。  舜は抗えない運命の前に屈し、ついに意識を手放した。

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