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第14話 奪還

 南西諸島を経て中国大陸へ向かう東シナ海の公海上ーー。  佐久間と舜を乗せたヘリは、秀貴が乗せられた大型客船クイーンエリザベス号をはっきりと視界に捉えていた。  吹き荒れる海風に、佐久間の頬がチリチリと音を立て嬲られる。陽は落ち、僅かに潮の香りを含んだ風に雨が混じり始めた。  暗闇にうねる波をかき分けて進む大型客船は、さながら海にそびえ立つ摩天楼のようだ。  荒いロープで編んだ縄梯子は不安定で、気紛れな強風に晒され、佐久間は幾度も身体ごと持っていかれそうになる。だがいくら揺さぶられようとも、佐久間の視線は摩天楼の甲板をじっと見据えていた。  佐久間は小型のライトを取り出し、頭上のヘリの操縦席に向けた。それが降下の合図だった。  ヘリは高度を落とし、大型客船に近付いた。佐久間は用心深く縄梯子の最下部に向かって降り始めた。  だが海風が荒れ、闇に揺蕩う波間に目を凝らしても、正確に距離を掴むことは容易ではなかった。 (仕方がない、これ以上の接近はリスクが高過ぎる)  いくら陽が暮れ、風雨になっても他の乗船客に気付かれないとは限らない。  まるで闇に飲み込まれてしまいそうな恐怖と、自分に与えられた使命との葛藤に、佐久間は打ち克たねばならない。  佐久間は間合いを測り、ついに縄梯子を掴む手を放した。そして佐久間は狙い通り、クイーンエリザベス号のデッキにあるプールに着水した。  ヘリは佐久間の着水を確認すると、高度を上げて大きく旋回し、再び上海を目指した。 「龍さん!」  ヘリに残された舜は、ただ一人の愛しい男の無事を祈ることしか出来なかった。  佐久間はプールの水面から顔だけを出し、辺りに人影がないことを確かめ、プールサイドに身体を乗り上げた。 (何とか生きていたか)  だが休息のための時間はない。  佐久間は小型のGPS受信機の画面を凝視した。ディバッグから取り出した客船の配置図にライトを当て、小さな光点が導いてくれる位置を探った。平面図上の位置は判明してもそれがどのフロアなのか、自分の足で見つけ出さなければならない。  佐久間はバッグを開け、ビニールパックに詰めてきた濃紺のタキシードと、同系色の革靴に着替えた。余分なものは持ち歩けない。佐久間は胸元のホルダーに手を当て、短い銃身を確かめると、背負ってきたディバッグを海に放り投げた。 (秀貴、無事でいてくれ!)  佐久間は髪を手櫛で整え、大きく深呼吸をしてデッキの出入り口へ向かって歩き出した。  客船の中へ一歩足を踏み入れると、そこは外の現実とは全くかけ離れた世界だった。廊下にはバッハの荘厳な曲が流れていた。 (管弦楽組曲第3番、G線上のアリアか。物悲しい曲だ)  佐久間はこの曲を聴くと、何故だか舜のことを思い浮かべてしまう。数奇な運命に翻弄され、この世界の時間の流れから取り残されてしまった舜ーー。誰が悪いわけではない。ただ彼は、抗うことを許されなかった。舜の身の上に咎はない。佐久間はそう思っていた。  やがて船内に流れるBGMはチェロ組曲第1番、プレリュードへと変わった。自分がいる位置とGPS受信機の画面上の光点が重なる。 (位置はここだ。間違いない)  佐久間は客室の最上階に予測を立てていた。このフロアはほとんどの客室がスイートルームになっていた。  佐久間が立つ位置から視界に入るドアは一つだ。ドアに耳を当て、中の様子を伺う。だが人の会話は聞こえなかった。  佐久間は廊下の天井に設置された火災報知器に向け、小型のバーナーを点火する。次の瞬間、廊下の灯りが一斉に落ち、辺りは非常灯の緑色に染められる。壁際に設置された火災報知器がけたたましい音を響かせる。天井のスプリンクラーが一斉に放水を始めると、廊下に面したドアというドアから人が転がり出てきた。  佐久間は逃げ惑う人間一人一人を慎重に観察し、見極めた。  悲鳴と怒声が飛び交う中、佐久間はドア横の壁に背中を貼り付け、狙いをつけた部屋の様子を伺う。  ドアを開け、廊下に顔を出した男は黒いスーツにサングラスを掛けた男だった。組織の人間に間違いない。そう確信した佐久間は、振り上げた銃のグリップの底を男の眉間目がけて振り下ろした。男は声を上げる間も無くその場に崩れ落ちた。  倒れた男の背中を踏みつけ、佐久間は部屋の中へ飛び込むと、銃を向けてきた二人の男の肩口を正確に撃ち抜いた。部屋にはヴェートーベンの「エリーゼのために」が流れていた。 「秀貴! いるのか!」  佐久間は声を張り上げた。一番奥にある部屋から漏れた微かな低い呻き声が佐久間の耳を捉えた。 「秀貴か!」  窓際の寝室に飛び込むと、そこには両手を拘束された秀貴の姿があった。 「無事か!」  佐久間を見上げる秀貴の瞳から熱い涙が溢れた。佐久間は秀貴の両手を解放し、口元を締め付けていた布を外した。佐久間はその肩に手を回し、秀貴を抱き寄せた。 「秀貴、待たせたな」  秀貴は佐久間の胸を押しやり、驚く顔をする佐久間の両頬を、その掌で挟むようにそっと触れた。 「龍一さん、生きていたんだね。良かった」  秀貴は自分から佐久間の唇に、まだ震えが収まらない自分の唇を重ねた。  窓から射す銀色の月明かりが、二人の抱擁をまるで番いの白鳥が互いの長くしなやかな首を絡め合う姿のように、幻想的に映し出した。 「秀貴、秀峰はどこだ?」 「彼女は釜山で船を降りた。釜山から飛行機で香港へ向かうと言っていた」  佐久間は怪訝な顔をした。なぜ秀峰は秀貴を残して香港へ向かったのか。 「それにしても龍一さん、どうやってこの客船に追いついたの?」  佐久間は思いを巡らせた。秀貴にどう説明をしたものか、と。 「それは追い追い話すことにしよう」 「ねえさっき、火災報知器の音と、銃声のような音が聞こえたような気がしたけど……?」 「非常ベルだけではお前の耳は誤魔化せなかったか」 「奴らは三人いるはずだよ」 「ああ、さっき出くわした」  あまりにも手薄だと佐久間は思った。あるいは秀峰には何か別の目的があるとでも言うのだろうか。 「取り敢えず寝室の外にいる奴らを縛り上げる」 「……撃ったんじゃないの?」 「急所は外してある。それにまだ聞き出さなければならないこともたくさんあるからな。ちゃんと縛り上げておかないと、お前との熱い夜の邪魔をされてしまいそうだからな」  秀貴は顔を赤らめ、下を向いた。 「明日の昼に船が上海に着くまで仕事はない。俺がやるべきことと言えば秀貴、お前を抱くことだけだ」  いたずらな月の光は、佐久間の鼻梁から眉間の辺りを照らし出し、淫靡な光の照り返しを秀貴にあてた。

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