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第16話 脱出

 秀貴は無意識に自分の右側に手を伸ばした。その手は行くあてを失なった海鳥のように彷徨い、白いシーツの地平に着地した。  はっと意識を取り戻した秀貴が目を開け、部屋を見渡した。 「龍一さん……?」  秀貴はベッドから起き上がった。頼りない足どりで、気怠さの残る身体を引きずるように、やっとの思いで窓辺の椅子にたどり着いた。  秀貴の視線の先に広がる海原に、背後から光が射し、濃紺の闇がかき消えていく。秀貴は夜がその役割を終え、朝が優しく入れ替わっていく瞬間を見つめていた。 「秀貴、目が覚めたのか」 「龍一さん? 何その格好は」  佐久間は見慣れない青い上下のツナギを着ていた。 「色々と準備があってな。とにかく乗客が動き出す前にここを出るぞ」 「ここを出るって、ここは海の上だよ?」  佐久間の行動は迅速だった。手早く秀貴に同じ色のツナギを着るよう指示すると、僅かな手荷物を手近なリュックにまとめた。 「龍一さん、シャワーを使いたいんだけど」 「ああ、すぐに浴びれるさ」  呆気に取られている秀貴の左腕を掴むと、佐久間は客室の出口へと急いだ。 「この人達はどうするの?」  秀貴はロープで縛り上げた黒尽くめの男たちを指差した。 「上海に入港すれば当局に連絡を入れる手筈になっている。大丈夫だ殺されはしない」  秀貴はリビングに向かって踵を返し、冷蔵庫から水の入ったボトルを持ち出した。 「秀貴、何をしている? 時間がないんだ」  秀貴は縛られた男の口を開かせ、一人づつボトルから水を飲ませた。 「お前を酷い目に遭わせた奴らだぞ」 「好きでやっていた訳じゃないよ、きっと」  佐久間は目を細め、眩しそうに秀貴の顔を見つめた。 「谢谢你」  一人の男が言葉を吐いた。よく見れば秀貴と歳の頃は同じくらいに思えた。 「龍一さん、彼は何て言ったの?」 「お前に親しみを込めてありがとう、って言ったんだ」  秀貴はそっと青年のサングラスを外し、その顔を見た。 「ちゃんと家族のところへ帰るんだよ」  青年は秀貴の言葉を理解したのか、ぐっと口元を噛み締め、横を向いた。ただその瞳に涙が浮かんでいることを、秀貴は気付いていた。  二人はエレベーターと階段を数えきれないくらい降り、客船の最下部へと向かった。 「龍一さん、どこまで行くの?」  秀貴の顔には疲労の色が濃く滲んでいた。缶詰のシチューくらいでは体力は充分ではないだろう。時折ふらつく両脚には、昨夜の甘美な余韻さえ伺える。  だが今は時間が残酷なまでに佐久間を急かしていた。 「もうじきヘリが迎えに来る。合流して客船より先に上海へ向かう」  秀貴は客船に乗って以来、初めて荒れた波の音を聞いた。考えてみれば世界最大級の豪華客船である。客室には波の音など聴こえはしないのだから。  秀貴はまるで地響きのようにゴーゴーと唸りを上げる海面を見て、思わず足が竦んだ。荒れた海面を呆然と見つめる秀貴に、佐久間は蛍光色の救命胴衣を差し出した。 「これってまさか?」 「そうだ。ここから脱出する」  佐久間は大きなバッグのような物を遠くの海面に向かって投げ込んだ。ボンッと破裂音がして、バッグが勢いよく膨らみ始めた。  大人が十人ほども乗り込めそうな救命ボートは、海流に流されてしまわないようロープで床のフックと繋がれていた。 「飛び込め、秀貴!」 「ええっ?」  秀貴は躊躇する間も無く、佐久間に背中を押され、あっという間に暴れている海面に飲み込まれた。  すぐ後を追うように、佐久間も飛び込んだ。  ゴボゴボと水と空気が混ざり合い、弾ける散るような音だけが耳の奥に響き渡る。朝に取り残された、まだ暗い世界に秀貴は絡め取られていった。  両手を広げもがいてみても、手や足に触れるものさえない。秀貴は深い恐怖の底に手繰り寄せられながら、心の中で佐久間の名前を叫んだ。  不意に左腕を掴まれ、引っ張られるような感覚が、遠のき始めていた秀貴の意識まで引っ張り上げてくれた。秀貴の両手は、ようやく救命ボートの縁を掴んだ。  勢いよく海面から頭を突き出した秀貴は息を吐き出し、ようやく新しい空気を吸い込んだ。そして救命ボートに身体を横たわらせ、仰向けのまま胸を大きく上下させた。  佐久間は救命ボートに括り付けてあったロープをサバイバルナイフで切り落とした。すぐにボートの揺れは収まり、摩天楼のビルのように海に聳え立っていた客船はどんどん遠ざかっていく。  空はどこまでも蒼く、空気は澄み切っていた。 「秀貴、大丈夫か?」 「大丈夫。僕は大丈夫だよ」  佐久間は背中のリュックから水を取り出し、秀貴に差し出した。 「この発信機からの信号でヘリが俺たちを見つけてくれるはずだ」  秀貴は佐久間の掌の上の小さなカプセルを見ると、顔を綻ばせた。 「やっぱり発信機だったんだね、それ」 「どうした?」  佐久間は怪訝な表情を浮かべた。 「もう一つあるよ、ここに」  そう言うと秀貴は自分の腹をさすって見せた。 「お前、どうしてそれを?」  秀貴は佐久間の手から発信機を摘み上げ、しげしげと見つめた。 「拉致された次の日にね、トイレに行かせてもらったんだ。その時にね……」 「その時に?」  秀貴は顔を赤らめながら続けた。 「前に見たことがあったんだ。最新の内視鏡カプセルと似ていたから、きっと龍一さんがバスルームで僕の中に……そう思ったから、洗ってもう一度飲み込んだんだ」  秀貴はまるで恥じ入るように身体を小さくした。佐久間はそっと秀貴の肩を掴み、自分の胸に引き寄せた。 「そうだったのか、すまん」  秀貴は身体をもぞもぞさせて佐久間の胸に左頬をそっと当てた。佐久間の鼓動が聴こえる。強く打ち続ける心臓の音は、何度も自分を救ってくれた佐久間の命そのものに思えた。  僅かに佐久間の顔を見上げ、秀貴は口を開いた。 「あんなことしなくても、そう言ってくれたら自分で飲み込んだのに」  今度は佐久間が顔を赤らめる番だった。 「すまん」 「……聞こえる」 「ん? 心臓の音か」 「違うよ、あっちだ!」  秀貴は身体を起こし、太陽が昇り始めた方向を指差した。 「ヘリだ!」

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