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第17話 日本へ

 大陸を覆う厚い雲間から射し込む朝陽は、薄い朝もやが漂うモノトーンの大都会を淡い朱色で染め上げた。  上海の街並みにはどこか妖艶な雰囲気が漂う。明け方のもやは街の陰影を際立たせ、したたかな夜の残骸と共にどこかへと消えていく。まるで派手な色合いの花がぽつぽつと咲くように、数秒毎に街の色は移り変わる。  短い眠りから醒めた街は、慌ただしく人や車を街路へと吐き出していく。  秀貴は先の尖ったビル群を眺めながら、ひとつため息をついた。  民間のヘリが上海浦東国際空港に接近する場合、管制塔からの許可を受け取るまで、航空機の空路の一定半径内で待機することはできない。佐久間と秀貴を載せたヘリは、アジアで最も長い、長江の河口でホバリングしながら管制を待つしかなかった。  秀貴がコクピットへ視線を戻した。すると管制塔とパイロットの交信を聞きながら、佐久間の顔は次第に青ざめていった。 「龍一さん、どうかしたの?」  佐久間の様子がおかしいことに気付いた秀貴がそっと彼の肩口に手を触れた。佐久間の肩は微かに震えていた。だがそれは恐怖ではなく怒りが起こしているのだと秀貴は理解した。 「山辺が組織の襲撃に遭ったようだ……」 「組織の襲撃に?」  佐久間の噛み締めた奥歯が悲鳴を上げる前に少しでも安心できるようにと秀貴は腐心した。  佐久間は滑走路の西側の一画にある小さなプレハブのような建物を凝視していた。秀貴は佐久間の視線の先を辿り目を凝らすと、その建物の窓だけがオレンジ色の朝陽を反射していなかった。まるでそこだけぽっかりと穴が空いたようにーー。  やがて着陸の許可を得た佐久間たちは、滑走路の端にある山辺の経営する航空会社の傍に着陸した。  ヘリから降りると、辺りの雰囲気が張り詰めていることは秀貴にも理解できた。窓まで黒く塗られたバンが数台ほど事務所のそばに停められている。濃紺の制服に身を包んだ男たちが何かを大声で叫びながら、忙しく走り回っている。帽子の下は固く結ばれた口元だけが印象に残る。いくら見直してみてもどの人物も他に特徴はなく、それが秀貴には誰もが同じ人のように見えた。  佐久間はパイロットと一緒に、数人の制服と会話を交わしていたが、秀貴にはさっぱり理解出来なかった。まるで言い争いをしているような口調で、滑稽な身振りを交えながら話している。  秀貴は組織に拉致されている時に気付いたことがあった。彼らは自分の主張に疑いを持たない。たとえ間違いがあったとしても、一度口にしたことは決して引っ込めない。  だが上下関係だけは絶対なのだ。  佐久間がバッジを顔の横に翳すと、雰囲気は一変した。それが日本の警察官となれば、その影響力は存外に大きいのかも知れない。  佐久間は大股で歩き、秀貴の元へ近付いてきた。 「病院へ行く。山辺が怪我をしたらしい。それにまだ確認は取れないが、山辺に頼んでおいた舜のことも気になる」  秀貴はヘリの中で佐久間から舜が上海まで同行して来たことは聞いていた。 「舜……」  秀貴には因縁浅からぬ男だ。だが今は舜の身の安全を確かめることが優先だ。それからのことはまた考えればいい。秀貴はそう自分の心に言い聞かせた。  上海市内にある病院の受け付けはひどく騒がしかった。おそらく日本で考えるならば総合病院といった存在なのだろう。  騒ぎは一つ二つではなく、あちらこちらで起きてはまた止んでいく。秀貴は大きな事故か、災害でも起きていたのかと訝しんだ。辺りをキョロキョロと見回しながら、目を白黒させている秀貴の肩に手を載せて、佐久間はそっと耳打ちをした。 「これがこの国の日常だ。あまり気にするな」  秀貴は思わず佐久間の顔を見返した。 「あ、うん。分かった」  すっと秀貴から身体を離した佐久間は、待合室を横切ろうとした青い白衣の看護師に何かを手渡し、話しかけた。  佐久間とは違い言葉がわからない秀貴は、心中穏やかとは言えない歯痒さに、自分に向けた苛立ちを覚えた。 「山辺の病室が分かった」 「あ、はい」  秀貴は不意に自分の中にある感情が嫉妬に近いものだと悟った。 (僕はこんな時に何を考えているんだ。今はそんな時じゃない)  秀貴はもう一度、舜のことを思い返していた。そして佐久間から聞かされた舜の行動の意図を。  あの日、秀貴が拉致された時に舜は組織の命令に逆らうことを許されなかった。それで秀貴に対して酷い言葉を吐いたのだと。だが組織の目を欺き、秀貴の捕らえられた場所を教えてくれたのは舜だったのだと。  秀貴は二つの顔を見せた舜をまだ理解することは出来そうにないと思った。あの時の、まるで欲望を熱く滾らせたような舜の眼差しを忘れることが出来なかった。 (僕には彼を信用するなんてできそうにない)  それは秀貴の本音だった。  佐久間は病院の総務らしき事務所で電話を借りた。日本へのコレクトコールだ。 「課長、連絡が遅れて申し訳ありません」 「佐久間、無事だったか!」 「はい」  佐久間は右手をぐっと握った。ほんの束の間、仲間の声を聴いて声を詰まらせた。 「そうか、良かった。子虎秀貴は無事か?」  すっと顔を上げると心配そうな顔付きをした秀貴が佐久間をじっと見つめていた。 「はい、無事救出に成功しました。ですが妹の亜希子の所在はまだ掴めていません」  佐久間は歯がゆい思いを噛み締めた。 「そのことなんだがな、いいか佐久間よく聞け。厚労省から情報が入った。麻取の捜査内容だ」 「麻取から情報が? それは珍しいですね」  佐久間は訝しんだ。 「ある人物の情報だ。以前から麻取が目を付けていたらしい。女が二人だ。その一人が子虎亜希子だと確認された。もちろんもう一人は秀峰だ」 「秀峰はやはり子虎亜希子を……」 「だがな佐久間、問題はそれが確認されたのが六本木爆破事件の一週間前だということだ」 「何ですって!」  佐久間は声を荒らげた。だがすぐに平静を装い、受話器を右手に持ち替えた。 「それは本当ですか?」 「ああ、空港の監視カメラに記録されていた画像をこちらでも確認した」 「分かりました。こちらでは引き続き秀峰の行方を追います。実は課長、山辺が組織に襲撃されました。負傷して今は……」  佐久間は言葉を詰まらせた。 「山辺が? 何があった?」 「詳細はまた報告します。今は山辺のそばにいてやりたいんです」 「……そうか。わかった。佐久間、いいか無理をするな。そこでは俺はお前たちを助けてやれない。深追いはするな」 「ありがとうございます。ではまた」  佐久間は受話器を置いた。電話を貸してくれた事務員風の男にそっと金を掴ませ、礼を言うと、男はにこにこと笑っていた。 「秀貴、行くぞ」  佐久間はそう言うと、秀貴を振り返ることなく先を急いだ。秀貴は黙って、佐久間の後を追って歩き出した。  秀貴は佐久間の行動を尊重したいと思った。会話の中で亜希子の名も出た。気にならない筈がない。だが佐久間がそれ以上を口にしない今は、何も聞かずにおこうと心に決めた。それが佐久間に対して向けることが出来る、今の自分の精一杯の愛なのだと。  病室に入ると、そこには両腕と右脚をギブスで固定され、頭に包帯を巻かれた男が横たわっていた。 「山辺! 無事で良かった」  佐久間は男に駆け寄り声を掛けた。 「お前、足は付いているのか? まさかあの世からのお迎えじゃないだろうな?」  佐久間はふっと安心したように吐息を漏らした。 「まだ生きているさ。お前と同じようにな」 「そりゃ良かった。ま、こっちはすっかりヤラれちまったがな」  佐久間は一瞬、息を飲み込んだ。それは自らのせいで酷い目に遭わされた友人への気遣いだったのかも知れない。 「山辺。こんな状態のお前に聞くのは心苦しいんだが。舜は、舜はどうした?」  痛々しく顔を腫れ上がらせた男は、申し訳なさそうに応えた。 「すまん佐久間、あの子は奴らに連れ去られた」 「やはりそうか」 「だがな佐久間……」  山辺はそこまで言いかけた言葉を言い淀んだ。 「山辺、今はいい。お前は自分のことだけを考えていてくれ。俺が自分で決着をつける。こんな目に遭わせて本当にすまん」  佐久間は言葉を詰まらせた。  長い苦難を共に味わってきた男たちにだけ伝わる思いがそこにあった。 「秀峰は日本へ向かったぞ、佐久間」  佐久間は目を見開いた。 「どういうことだ? 奴が向かったのは香港じゃないのか?」  山辺は僅かに咳き込み、苦しそうな顔を見せた。 「無理はするな山辺、今はとにかく安静にしてくれ」  山辺は青白く生気のない顔で、必死に言葉を繋いだ。 「奴の、秀峰の狙いは日本の海洋資源開発計画の妨害だ。相手が何者かは知らんが、電話を盗み聴いた。詳しくはわからんが、日本で資源開発を支援する人物を狙うテロを起こすつもりかも知れん。秀峰の目的は思っていたよりでかいぞ、佐久間。ここまで聞けば陰で暗躍する奴らが何者か、お前にももう分かるだろう? 俺のことは気にするな。一刻も早く日本へ帰れ。佐久間、奴らを止めるんだ!」 絶望という名の静寂が広がった。 「山辺!」 エマージェンシーコールは鳴らなかった。山辺の容態を聞いて覚悟はしていた。だが余りにも酷い。 佐久間は山辺の顔をもう一度覗き込むと、そっと掌で彼の瞼をそっと閉じさせた。  佐久間の口元は微かに震えていた。 「秀貴、日本へ帰るぞ!」

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