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第18話 再び

 秀貴と佐久間は無事に日本の大地を踏みしめた。  上海からの帰路、佐久間は一切亜希子の名前を口にしていない。あの秀峰という女と一緒にいて、亜希子の身に何が起きているというのだろうか。だが秀貴にはそれを知る由もなかった。  佐久間は邸内の車寄せに車を停めた。  先に運転席から降りた佐久間に促され、車から出た秀貴は邸内の庭を見渡した。ふと紫色に咲き誇る花に目を留めた。それは母が大切にしていたアサガオの花だ。屋敷の塀の内側いっぱいに蔓を伸ばし、秀貴の背丈よりも高いところにも精一杯に花弁を広げている。  それは庭仕事をしながら額の汗を拭い、太陽に向かって両手を広げていた母の姿と重なった。秀貴の心に言いようのない寂しさと不安が甦る。 「どうした、秀貴?」  佐久間が声をかける。 「アサガオ。母さんが大切にしていたんだ。でもアサガオは母さんがいないことを知ることもないんだなって」  佐久間は秀貴の肩に手を置き、ぐっと引き寄せた。正面から秀貴を見つめ、眉間のあたりに力を込めた。 「ご両親を苦しめた奴らを必ず見つけ出す。そして妹さんも必ず助け出す」 「龍一さん」  秀貴には瞳に映る世界が僅かに霞んで見えた。今二人が置かれている状況は、決して彼ら二人に穏やかな日々を与えてくれそうにはなかった。  秀貴は妹の亜希子のことを思い浮かべた。最後に彼女を見たのは、あの爆破事件の前日だ。  子虎亜希子は優秀な成績を納める聡明な妹だ。だがそんな素振りなどおくびにも出さない優しさを持ち合わせていた。しかも、今となっては秀貴にはただ一人の家族である。 (亜希子、今どこにいるんだ)  秀貴は亜希子との思い出の後ろに言い知れぬ暗雲が立ち込めているようで、胸が潰れる思いだった。  ほんの数日前には警察官が多勢いた邸内は、異様なまでの緊張感が漂っていた。だが今は人の姿もなく閑散としていた。 「龍一さん、これは?」  佐久間は秀貴を振り返らないまま背中越しに言葉を吐いた。ゆっくりと。 「対策本部では、妹さんは誘拐されたのではないと結論付けたんだ」  秀貴は視線を佐久間の背中に向けたまま、きゅっと唇の端を噛んだ。 「彼女は彼女自身の意思で秀峰と行動を共にしている。監視カメラの解析で裏付けが取れた。だから子虎家の対策本部は解散になった」 「亜希子の意思……? 一体どういうことなの? 亜希子が爆破事件の犯人の仲間だと言うの?」  秀貴の中で膨らんでいた不安が、唯一の出口を求めて一気に溢れだした。  佐久間は秀貴を振り返り、乱れた呼吸で上下するその肩に手を差し伸べた。だが秀貴はその手を振り払い、足早に自室へ向かった。 (嘘だ。亜希子が犯人グループの仲間だなんて信じられない。だってそのために父さんと母さんは死んだんだ。亜希子が、あの優しい亜希子がそんなことをするはずがない。絶対に何かの間違いだ!)  秀貴の心の真ん中にある思いとは別に、もう一人の秀貴が割って入る。 (あの時、亜希子の瞳は見たことがないくらい別人だった)  子虎亜希子は護身術のためだとキックボクシングを中学の頃から習っていた。ある時、亜希子は両親の反対を押し切り、ジュニアタイトルの試合に出場した。秀貴はこっそり試合会場へ赴き、最前列で観戦したのだ。  あの時秀貴は、亜希子のまるで獲物を追い詰めるような瞳に衝撃と恐怖を覚えた。試合には負けたものの、普段の亜希子からは考えもしないほど鬼気迫る迫力に圧倒されたのだ。  だが控え室を訪ねた時には、いつもの笑顔で迎えてくれた。  今まで思い出すことも無かった、五年も前の出来事だった。 「秀貴、食事の仕度ができた。下へ降りて一緒に食わないか?」  佐久間の声にはっとして、秀貴は顔をあげた。部屋のドアを開けると、笑顔の佐久間が立っていた。 「簡単なペペロンチーノだが」  秀貴は言葉を返さず、佐久間の胸元に顔を埋め、両手を彼の背中に回した。 「秀貴?」 「亜希子は爆破事件の犯人じゃないよね?」  唐突な言葉に、佐久間はその答えを探し出せず、開きかけた口を閉じた。佐久間には一時の気休めの言葉が意味を持つとは思えなかった。 「もし、仮に彼女が関わりを持つとしたらどうする」  秀貴は佐久間の顔を見つめた。 「真実が知りたい」  秀貴の腕に力がこもる。 「必ず真相を掴む。だが今は少し身体を休めるんだ。さあ、階下へ行こう」 「……分かった」  太陽は一年で最も高い位置からじりじりと地上のあらゆるものに照りつけた。  どこかで正午を報せる鐘の音が鳴る。  次の瞬間、青々とした芝生のピッチにいた少年たちは耳を塞いで身を屈めた。  屋根のある観客席から爆発音とともに白煙が上がり、観客が手にしていたタオルや手荷物、僅かな悲鳴が辺りに飛び散った。  地面に伏せていた少年の一人がおずおずと顔を上げ、観客席に視線を向けた。そこは大きな穴が穿たれ、数秒前とは違う変わり果てた世界になっていた。 「はい、佐久間です。なんですって、国際競技場で爆発が? 狙われたのは代議士の倉持真之氏ですか?」  突然の報せに佐久間の顔が凍りついた。秀貴は手にしていたフォークをテーブルの上に落とした。 「わかりました。子虎邸で待機します」  通話を終え、佐久間が秀貴に視線を戻すと、秀貴は微かに震えていた。 「秀貴、大丈夫か?」  佐久間はテーブル越しに秀貴の手を掴んだ。 「また代議士が狙われた。日本の海洋開発推進派の議員だ。そうなれば、やはり秀峰の一味に疑いが向けられるだろう。だが彼女の関わりも、まだ詳しいことは何もわからない。今はここで待つんだ」  秀貴は小さくこくりと頷いた。  佐久間は立ち上がり、リビングの壁際に飾ってあった地球儀を手にしてテーブルに戻ると、秀貴の前に置いた。 「いいか、東アジアの地図を左回りに九十度回転させて見てみるんだ」  佐久間は地球儀を傾け、一点を指差した。 「北京から見れば、日本列島という帽子を被らされているみたいだろう。このことが中国にとって日本という国が疎ましい存在となっている所以だ。この地理的要因が長い間、歴史に影響と確執をもたらしてきた。遥か昔から近くて遠い国なんだ、この二つの国は。そこに日本の領海内で発見されたレアアースを含めた海洋資源開発の利権をめぐる問題が事態を悪化させているんだ」  秀貴は佐久間の言葉の意味が掴めず、眉間に皺を寄せた。 「この一連のテロ行為には、巨大な意思が関与しているのかも知れない。秀峰の狙いはまだ分からんが、おそらく秀峰はその手先に過ぎない。だが奴らにこれ以上好き勝手をさせる訳にはいかない」  秀貴はじっと佐久間の目を見つめた。そしてゆっくりと息を吸った。 「龍一さん、僕も覚悟を決めた。例えどんなことが起きても僕はもう驚かない。ちゃんと真実と向き合うよ」  佐久間はゆっくりと首を縦に振り、もう一度秀貴の両手を強く握った。

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