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「あと……できれば炊事も」
食事はいつも、宮殿の給仕係が作って持ってきてくれる。しかし厨房からわざわざ運んでもらうのは忍びない。なにせルトひとり分だけだ。ラシャドは紫苑殿の外で何かしら食べてきているらしく、宮殿内で飲み食いはしなかった。
汚れひとつない調理場には、無駄に広い保管場所はあるが食材はない。さすがに炊事は難しいかと思いつつ様子を伺う。ラシャドは意外さ半分、驚き半分といった面持ちで、まじまじとルトを見てきた。
「好きにしろ。給仕係に食材を持ってくるように言っておく」
言い終わるなり、ラシャドは伏し目がちになって軽くため息を吐くと、ルトの手にある懐中時計を眺めた。握り締めたまま、返すのを忘れていた。薄い手のひらの上でチェーンを一つにまとめ、差し出す。
ラシャドの手がゆっくり伸びて時計を掴み、ルトの細い指先をなぞった。大事なものを扱うように首にかけなおし、無言でルトに背を向ける。広い背が遠ざかり、扉が閉ざされた音が響いた。
緊張でルトの詰めた息が震えた。触れてくる温もりの変化に惑わされるのはこの身だけではなかった、心もだ。
ひとりきりになったルトは、放り出した本をしまう。穏やかさを残すこの部屋で、本を読む気にはなれなかった。張りつめた気を緩め、薄い唇をきゅっと噛む。
認めたくないが、確かにラシャドはどことなく変わったのかもしれない。だからといって簡単に許せるものではない。それに何より、ラシャドを信じきるのが怖いのだ。
つかの間の平穏な幻を手にして喜んで、手にしたものが消え失せる虚しさ。そんなものを味わうくらいなら、最初から期待しなければいい、信じなければいい。
心休まるひとときなんてここにはない、どこにもない。手にしたはずのささやかな願いは、まるでルトをあざ笑う幻だ。シャド村を出て、ツエルディング後宮にきて思い知った。なぜ期待して、喜んで、失ってから気づくのかと。幻は幻でしかないのに。
ルトが育った年月で積み上げられた希望も、幸せも、平穏だった懐かしい日常さえ。乾いた砂に思えてくる。粉々に打ち砕かれた心は粒子になって、手のひらからざらざらと零れ落ちる。不快感だけを残して。わずかに残った塊も、いずれ雨風にさらわれてしまうだろう。跡形もなく消え失せるのだ、どうして信じられようか。
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