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第二十二話 苦肉の策
菖蒲殿でルトは悲惨な状況だった。食事や睡眠も与えられず、屈強な獣人たちに責められ続けている。
皇帝が執務するにはまだ早い明け方だ。隣接する控えの間には文官もいない。誰よりも早く執務殿に来たグレンは、菖蒲殿付き魔術師の報告書に隅々まで目を通した。
ルトの身を案じ、そっと、報告書を机に置く。胸が締め付けられる息苦しさに、唇を噛み締めて、それでも制御できない吐息が漏れた。溢れる心の内を抑えこもうと、両手で顔を覆いつくす。
震えた吐息を何度か整え、身の内で暴れ狂う心を静めた。表情を隠した手を静かに顔から放し、しばし見つめ、瞳の前で握り締める。固く、強く。握る爪が、手のひらの皮膚を突き破るほどに。そして蜂蜜色の双眸を見開くと、怒りに震える拳で分厚い机を叩きつけた。
ルトが二人目を孕んでから三日目だ。菖蒲殿で夜を越したのはたったの二日。ルトを孕ませたジェヒューは実に粗暴な獣人だった。ときおり後宮で問題も起こし、そのたびに近衛兵も駆り出された。
徹底的に人間を孕み腹として扱う。おそらく我が子にも関心がないのだろう。自分の匂いがついた腹に種を注ぎ、マーキングするどころか、他の獣人に与えるなどと。
焼き払いたくなる報告書を手に、執務殿を飛び出す。向かう先はラシャドのいる兵舎だ。普段の冷静さをかなぐり捨てて鬼気迫るグレンの怒気に、行き交う獣人が振り返る。穏やかさなど保てまい。走り去るように前だけを突き進んだ。
ワニ族の子を孕んだと知りラシャドは随分と荒れた。近頃はルトの体力を慮り、あまり子種を注がなかったという。それが災いしたと。最近はただでさえ皇帝の影響で、核種胎の成熟期を正確に把握できなかったはずだ。
菖蒲殿に乗りこみそうなラシャドを制し、ルトの様子を必ず伝えると約束した。しかし、この報告書を見て、ラシャドがじっとしていられるか。
皇帝の執務殿から衛兵の宿舎までは遠い。だが長い距離を感じさせないほど足並み早く直進する。執務殿を過ぎ、土を踏み鳴らすグレンの瞳が、兵舎の庭で鍛錬するラシャドを捉えた。もしかしたらあまり寝ていないのかもしれない。遠目にするラシャドの剣は乱雑で荒々しい。
まだ兵舎の敷地に踏み入れていないが、ラシャドもこちらに気づいたようだ。だんだん距離が近づくグレンに、ラシャドは今にも乱闘しそうな手を止めて剣を収めた。
互いの姿が間近に迫る。数メートル離れた場所で、漆黒の視線が握り締めた紙切れを見つめてきた。ラシャドの目が細められたのがわかり、近づきざま、厚い肩を掴んだ。
「ここでは目立つ。中庭の奥に行くぞ」
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