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「これ以上の説得はいらぬ。出ていけ」
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グレンを追いだしたあと、皇帝はどかりと執務殿の椅子に背をあずけた。深く息を吐きだし、暴れ狂う激昂を落ち着かせる。瞼を閉じれば、必死に追いすがる知己の非難の眼差しが浮かんだ。
グレンが案じるように、夜伽を命じるせいでルトは様々な獣人から目をつけられた。たかが人間に、執着している自覚はある。
とるに足らぬ小さな存在だが、その存在が不思議と荒ぶる心を落ち着かせた。一国の王に媚びるのではなく、顔色を探るでもない。偽りを並べ立てる側妃が見せる、一方的なお喋りでもない。
帝王を前に怯えはするがその意思は固い。命を脅かされてもだ。打てば響き、同じ目線で対話し、圧倒的な力の差があっても屈しない。互いの言葉を聞き入れて前を向く。そういう秘めた強さが心地よかった。
紫水の奥にある真意を探ろうとして見えたのは、王と同じものを見る瞳だった。グレンたちが気になるのも無理はないとさえ思える。あれは、世の頂から民衆を導く目をしていると。
ひどい悪夢で呼びつけた夜は記憶が曖昧だ。はるか昔だというのに、悪夢は現実として降りかかる。それはときに針山であり、魂さえ焦がす灼熱の炎のなかであり。現実か、幻かもわからぬまま、気づかぬうちに獣化していた。
血の海と化す大地に骸が押し寄せる。むせ返るほどの、鉄の匂いに混じり、断末魔の悲鳴が脳を揺さぶりこだました。散り散りになった肉の欠片をたったひとり、ひとつずつ拾い集める。全身を血色に染めて、この腕にきつく抱きあげ慟哭する。
だがその夜はいつもと違った。血の涙を流したとき、か細い腕が己を泥沼から引き上げるのを見た。
赤焼けの空から、緩やかに伸びた真白い腕はとても細い。か弱き両腕はしかし力強く、すべてを優しい温もりに包む。安らぎを放ち、血に濡れた赤暗い空をまばゆく白い光に変えた。世界が息を吹き返すように。
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