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第二十四話 大局
「あれはどうなった」
静かな執務殿で皇帝が重苦しい声を出した。無言で座るグレンはぴくりと作業の手を止めて、蜂蜜色の両目を尖らせる。だが皇帝は、非難の眼差しをものともしない。いつもと何ら変わらず上奏に目を通す冷静な皇帝に、グレンは硬質な声をぶつけた。
「あれ、とは何のことでしょう?」
皇帝があれというのはルトしかいない。グレンは承知で返答を濁した。するとようやく書類からこちらを向いた、綺麗な黄金の瞳が険しく光る。
数秒の睨み合いのあと、疲れをにじませて視線を落とした。力が抜けない目頭を軽く押さえ、深い息を吐きだす。
「ルトは、今朝がた意識を取り戻したようです。ですが、まだ予断を許さない状態だと」
「……そうか」
短い相槌のあと再び沈黙が訪れ、政務に没頭するふりをした。それはおそらく皇帝も同じだろう。内心はルトを気にかけている。
金色の獅子が、ルトに向ける想いは、確かに愛情ではないかもしれない。だがこれ以上ないくらい、固執している。伽を見せつけられた夜が決定打だ。皇帝は手放しがたいほどの執着心をルトに持つ。
六日前、エスマリク宮殿を抜ける手前でルトは獣人に捕まった。相手は宮殿の近衛兵だ。
皇帝が住まう警護には選りすぐりの獣人しかいない。戦闘向きの、鍛え抜いた獣人に挑まれて、ルトはただでさえボロボロだった。だというのに他の獣人まで加わった。頭脳派の臣下もいたという。みなが、噂に関心を持つ獣人だった。
ルトの足輪が魔術師を呼び、異常に勘づいた皇帝までもが出向く騒ぎとなった。グレンが知ったのはその後だ。急いでコルネーリォに連絡を取り、様子を聞いた。昏睡が続いた六日間を思えば、身体の芯から湧き上がる憤怒で脳髄が焼けそうになる。
現実から遠ざかる意識を引き戻すように、上奏を扱う皇帝の玉璽が、どんと机に叩きつけられ印を押した。
「あれの件に関わった全員を、朝議殿に集めておけ。明日の朝、余から処遇について決断を下す」
「承知しました。ですが陛下、どのような罪状で朝議に集めればよろしいので?」
獣人が孕み腹を襲っても本来なら咎はない。皇帝自身がルトを躾といい、下げ渡そうとしたくらいだ。
言外で皇帝を責めたのは伝わっただろう。それでもグレンの厳しい眼差しを、輝く日光を浴びた獅子は平然と受け流した。
「孕み腹を使いたければツエルディング後宮に通えばよい。余の住処であるエスマリク宮殿で騒動を起こした。奴らは余の平穏を脅かしたも同然だ。それも警護中に、淫行にふけるとは愚の骨頂」
金の目を細め、厳しく吐き捨てる。だが警護中だったのはサイの獣人だけだ。全員を処罰するには弱い理由だ。
皇帝は気付いているだろうか。以前ラシャドが皇族の身内を襲い、グレンが本音と建前で皇帝を説き伏せた。あのときのグレンと、同じ道筋をたどっていることに。
憎しみに囚われた今はまだ、執着でしかないのだろう。けれどいずれ、憎悪を凌駕するほどの愛情が、皇帝のなかで芽吹く日がくるかもしれない。いつかのグレンやラシャドのように。
人間に――ルトに傾く心を皇帝が自覚し、己の心情を認めたとき。果たして、この国の行く末はどうなるのか、だが。緩やかな獅子の目覚めを、悠長に待っていられない。眠れる獅子を揺さぶり起こすのは、今、このとき、グレンが成す。
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