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第二十六話 無情な条件
ルトの時間は止まってしまった。黄泉の世界に引きずりこまれ、ルトの一部は破壊された。やや派手な色調の寝室で、ルトは虚ろに窓を眺めた。二階から見える草花は、ところどころ萎れかけ、ほとんど手入れがされていない。まるでルトの心を映すかのよう。
前にいた紫苑殿の中庭は、世話をした甲斐あって、草も花も生き生きとしていた。どうせなら紫苑殿に移りたかったと思うけれど、今は別の孕み腹が使用中らしい。
月白殿に移されてから何もする気が起きなかった。あんなに積極的だった花の手入れも、掃除も、料理も、何もかもが億劫だ。きっと死の間際から、無理やり連れ戻されたせいだ。あるかないかの意識など、あのまま消えてなくなってもよかったのに。
献身的な治療で身体は元通りに回復した。らしいが、どことなく本調子でない気がする。もしかしたら、ぐちゃぐちゃになった肉体だけを修復されて、置いてきぼりの心は死の淵をさまよったままかもしれない。ルトの心は空っぽだ。
ラシャドの子を孕んで一週間と少しが過ぎた。昏睡中だったから正確な日にちはわからない。でもわざわざ、ラシャドに尋ねたいとも思わなかった。ぼんやりしていたら、低い声がすぐ横で聞こえた。
「まだ、調子は戻らねぇのか?」
ついさっきまでルトひとりだったのに、思いのほか近くで響く。置時計を見ればもう昼時だ。いつの間にこんな時間になったのだろう。心の内で驚きつつ、のろのろと視線を移した。枯れかけの中庭から、遠慮気味な声へ、静かに顔を向ける。
忍び足は相変わらずだ。警護から戻り、寝台の傍にいたラシャドを声もなく見返した。
何の反応もせずにいたら、ルトを見下ろす端正な眉間に深いしわが刻まれる。大きな体躯が、寝台の傍にあるひとり掛けのソファーに沈められた。表情を変えないルトを見つめる、切れ長の目尻が柔らかく下がり、気遣いを見せた。
「やっぱ、具合が悪いか?」
「体調は、悪くないです。でも、何もしたくなくて」
うつむきがちになって小さく首を振る。下げた視線の隅で、ラシャドの表情がわずかに歪んだ。視線を下げたルトを追いかけて、漆黒の瞳が微かに下を向く。少しの静寂が訪れたあと、戸惑う低音が響いた。
「……本は? 読まねぇのか。好きだったろ」
心配そうにルトの顔を覗かれる。寂しげな声に、丸い瞳がぱちりと瞬いた。そういえば、紫苑殿では書庫に入り浸りだった。ルトでさえ忘れていたのに、ラシャドは覚えていたのか。
村での懐かしさを思い出す、本に囲まれた空間は好き。でも今は、字を追うのさえ億劫だ。なぜだろう。あんなに大好きだったのに。
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