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 状況が整うまで早くとも数ヵ月。その間、順調に事が進めば、ツエルディング後宮を閉鎖して獣人の流れを止めるという。獣人の子種が注がれない限り、孕み腹は子を宿さない。仮に、子を宿した腹がいても、幾月もあれば子を産める。  ルトのように孕んだ腹には、父親だけが子種を注ぎにくればいい。そうして全員の子が生まれた頃には、解放の手はずが整うはず。そうすれば、全員がそろって故郷に戻れる。 「むろん、滞りなく事が進めばの話だ。臣下や民衆、なにより各族長らが余の説得に応じなければ、さらに時はかかるであろう」  緻密に先を見通す皇帝に、ルトは喜びよりも戸惑いが勝った。寝台に腰を据える皇帝を見上げ、両膝をついたまま掠れた声を出す。 「俺たちは……ツエルディング後宮を出られるんですか? 自由になれる? 本当に?」  あれだけ人間を、孕む道具としてみていたのだ。獣人たちの蹂躙を受け続け、身体だけでなく心まで、麻痺しそうだったのに。どうして急に気が変わった。いきなり解放といわれても、何か裏があるのではと疑ってしまう。  軽く顔を伏せ、上目になって紫水の瞳を揺らす。目に見えて動揺するルトに、皇帝は唸るように告げた。 「そうしてやってもいい。だが、条件がある」 「条件?」 「解放するのはそなた以外の孕み腹だ。そなたは、余のもとへとどまれ。それが条件だ」  瞬間ルトの表情が凍りついた。息をするのも忘れルトの呼吸がひゅっと詰まる。なんて残酷な要求だ。戸惑いと不安、そして期待。それらが入り混じったまま、呆然と皇帝を見つめた。 「お、俺……」 「そなたは、死さえ覚悟しているのであろう。月白殿でも食が進まぬと聞いておる。ならば、よこせ。そなたの命一つ、すべて。その未来ごと。さすれば余は、渦巻く怨念を、我が御代で抑えこもう」  シーデリウムで捨てるはずだった命を、全部。それが、人間への憎しみを抑える代償となる。黄金の両目が、鋭利な眼光を放った。 「余が唯一望むもの。それ以外はいらぬ。孤独な地位も最強を謳う忌まわしい血統も。夜ごと与えられる一方的な快楽も。意のままに、政権を操ろうとする政敵も」  誰もが羨む、絶対無二の王座、正統な呪いの血、媚びを売る側妃、賢く欲深い臣下。一見きらびやかに映るすべては、何一つ、皇帝が望んで得たものではない。  自らが望んだものは、今生でたった一つ。ただひとときの、安寧の時を寄越せ。薄闇に浮かぶ、皇帝の金色の光彩にルトの身体が小刻みに揺れた。  ルトが、皇帝の条件をのめば、エミルたちは生き地獄から解放される。だが代償は大きかった。どういえばいいのだろう。絶望と希望、嘆きと喜び。相反する感情が、絶えずルトを揺さぶってゆく。  決して荒ぶってはいないのに、苛烈な炎に包まれるよう。身体の奥底から噴き出す感情に圧倒される。意識せず、紫水の瞳に涙があふれ出ていた。とめどなく流れ落ちる涙を無意識にしゃくりあげる。ともすればくずおれそうな身を、どうにか踏ん張った。 「う……っ」 「三日間、考える猶予をやろう。三日目の夜、そなたの答えを持ってここへ来い」  どんな選択肢があるという。ぼたぼたと大粒の涙を零しながら、歪む視界で一礼をする。皇帝は何も発さなかった。ただ、涙を流すルトを温度のない表情で、静かに見つめていた。  殿内にひっそり控える侍従が、声もなく扉を開ける。うつむくルトは、寝殿を抜けて通路に踏み出た。そこには眉間にしわを寄せた、ラシャドがいた。

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