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「……話は済んだか」  低く抑えた声音にうつむく顔を上げる。返事をしようとしたのに咽び泣いた。みっともなくしゃくりあげれば、逞しい腕に抱き寄せられる。逆らうことなどできず、分厚い胸に顔をうずめた。 「ふ…っ…」 「月白殿に戻るぞ。俺とグレンの話をする、全部」  耳元に、低い音を寄せられた。でも話なんて、もう何も聞きたくない。やっと、空っぽだったルトの心が息を吹き返してきたというのに。あんまりだ。ルトだけがたったひとり、獣人の国へ……後宮へ、残れだなんて。やまない嗚咽を噛み締めて、ルトはそう思った。  ひとしきり泣いて、ようやく落ち着いてラシャドと向き合った。寝台の端で小さく顔を下げるルトをラシャドが覗く。重たい沈黙がのしかかる寝室で、先に口を開いたのはラシャドだった。ソファーに置いた大きな身を、ぐっと乗り出してくる。 「いいか。よく聞け。陛下の話をうのみにする必要はねぇ。お前が陛下の要求をのまなくても、孕み腹は解放される。そうなるように、今、俺たちが動いてる」  孕み腹に自由を。隷従の証しに人間の王族を。子孫繁栄に核種胎の開発を。獣人を後宮に寄り付かせないために、ルトに新たな地位をもうけようとしていること。ラシャドの細かな説明を、ルトは食い入るように聞いた。 「とりあえず今だけ、陛下の要求をのめ。所詮は口約束だ。正式な証文があるわけじゃねぇ。どう転んでも、俺の子が生まれるまでは安全だ。ひとまず条件だけのんで、先に公約を正式に固めるんだ。そしたら何があっても、皇帝でさえ覆せない」  本心は別として。皇帝の条件をのみさえすれば、後宮は形だけでも閉鎖される。各族長の会合まで残り三ヵ月ほどになった。暴動をおこさないよう、獣人の足は完全には止められない。だとしても少なくとも、今よりはましになる。  孕んだ腹は出産を迎えるまで宮殿に留め置かれる。出産を終えた腹から、後宮に戻されるだろう。大勢の流れを止めた、ツエルディング後宮に。  グレンは必ず、もろもろの公約を一つずつもぎ取っていく。朝廷の反対勢力をできる限り味方につけようと、今も密かに、各地にいる臣下の説得に走り回る。その間、幾月かを後宮で過ごし、ルトは――。 「お前は、出産を終えたら……ここから逃げろ」 「え」  皇帝のもとに留まれ。そう言われるのを覚悟した。だが、ラシャドから出た言葉は全く違うものだった。  ここから逃げる。虚を突かれたルトの思考がそれ一色に染まった。言葉を失くしたルトの思考は筒抜けだ。ルトを見つめるラシャドは、固い表情を緩め、ひとつ頷いた。 「陛下と監視の目をくらませて、お前が完全にひとりきりになれる機会は一度だけだ。それを逃したら、お前は死ぬまで王宮に留め置かれる。じじぃ、じゃねぇ。若草色の……コルネーリォが、力を貸してくれる。人の記憶を操るっつう、えげつねぇ力だが、あいつの力は本物だ。すべてはうまくいく」  過去の記憶を消したり、真実を組み替えたり。特殊な能力で、皇帝の思考をいじるのだ。コルネーリォは何度もルトを助けてくれた。最強の魔術師が、ルトの味方をしてくれる。 「あいつがお前の出産に立ち会う。その足で陛下を混乱させて、足止めをする。眠らされたお前は、出産を終えたあとひとりになる。その時間で逃げきれる。落ち合う場所も決まった。お前が……もしも、望むなら、そこにグレンもいるはずだ」

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