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 学校には地下鉄を使って通勤している。本当は車で通勤したいが先立つものがないためそれはまだまだお預けだ。やっと教師になれて収入も安定したから、いずれ頭金ぐらいの額の貯金ができたら、念願のマイカーを手に入れたいと思っている。  桐野は仕事帰りに酒を飲まない日は基本車で通勤している。あいつを良く観察すると、何気に身に着けている物が高価だったりする。車もブルーのアウディA4に乗っているし。若気の至りで高級な車を無謀にも購入してしまい、結局ローンを払い切れず泣く泣く手放すなんてことは良くある話だが、桐野もその口だろうか。まあ、あいつは意外と真面目だからちゃんと計画性を持って購入したのだと思うが、それでもやっぱり公立の教師が持つ車としては不相応だ。  芹沢は気がつくといつも無意識に桐野のことを考えている。自分はあいつの何がそんなに気になるのだろう。  自分の頭の一部を占領する桐野を追い出すために、芹沢は軽く頬にびんたでもかましたい気分になったが、電車内なのを考慮してそれをぐっと我慢した。というか、そんなことをする余裕もないくらいにどんどん体が重たく、だるくなっていく。真夏でもないのに体が熱くて、不快な汗が噴き出してくる。芹沢はゆっくりと立ち上がると、すぐに電車から降りられるように出入口のドアまで歩いた。  やっといつも降りる駅に着くと、芹沢はホームに降り急いで改札に向かった。  早くアパートに帰ってシャワーを浴びて寝ないと。学校を休むのだけは絶対に嫌だ。明日は2年生の授業で理科の実験がある。生徒に実験の面白さを自分の手でどうしても伝えたいから。  改札を出ると外は定時に帰ってもいつもと変わらず薄暗い。芹沢は寄り道もせずアパートに向かう道を朦朧とする頭を抱えながらただひたすら歩いた。  その時、背後に人の気配を感じた。気のせいかと思い気にせずに歩いたが、その気配が徐々に自分に近づいて来ることに気づく。アパートまであと数百メートル。まさかこんな所で犯罪に巻き込まれるような災難なんて早々ないだろうと高をくくって振り返ると、いきなり見知らぬ男に肩を強く掴まれた。 「なっ、何ですか? いきなり」  芹沢は驚いてそう言った。 「飲んでないの? 抑制剤。洩れてるよ? さっきさ、電車の中で俺の隣に座ってたでしょ? 俺フェロモンに敏感なんだよね。もしかしてわざとなの?」 「は? な、何を言ってるんですか? 意味が分からないです」  芹沢は男の言葉の意味が分からず、困惑して問いかけた。 「え? どういうこと? あんたオメガでしょ? わざとフェロモン振りまいて誘ってるんだよね? 新手の売春か何かかな?」  男はそう言うと、馴れ馴れしく芹沢の肩を抱いた。 「うわっ、良く見るとすげーイケメンじゃん。俺ついてるかも」 「やっ、やめてください! 離して! 俺はベータです! オメガじゃない!」  「はあ? 何? 何? これもプレイのひとつなの? やばっ、興奮する」  男は血走った目で芹沢を嘗め回すように見つめると、路地に芹沢を無理矢理引き込もうとした。 「違う! 離せ! やめろ!!」  そう叫んだ次の瞬間。芹沢の目の前に見慣れた車が荒々しく急停止した。その車から飛び出した人物が、芹沢と男に迷いなく近づくと、芹沢に絡む男の胸倉を掴み、店の壁に強く男を打ち付けた。 「俺に殺されたくなかったら、今すぐここから消えろ」  その人物は男を殴る寸前で手を止めた。 「桐野……」  芹沢は桐野に助けてられた安堵から、腰を抜かして、へなへなと床に座り込んだ。  男は桐野の迫力に顔面蒼白になると、転びそうな勢いでワタワタと逃げて行く。 「芹沢! 大丈夫か?!」  桐野は芹沢に素早く近づくと、芹沢の脇に手を入れ立ち上がらせた。 「……き、桐野、俺……」  芹沢は体を小刻みに震わせながら、桐野にしがみついた。 「良かった。芹沢。芹沢がちゃんと家に着けるか心配で、アパートまで様子見に来て本当に良かった」  桐野は芹沢を支えながらそう言った。でも、桐野は困惑気味に芹沢を見つめると、不自然に芹沢から距離を取ろうとする。その態度がいつもと違い変にぎこちなくて、芹沢は激しく動揺した。 (な、何なんだ、何が起きてるんだ? 俺、どうしちゃったんだよ!)  あの男は自分をオメガだと言った。フェロモンが漏れていると。嘘だ。そんな訳ない。自分はベータだ。中学生の頃に受けた検査でそうはっきり診断されたんだから。あの男は多分頭がおかしい変態野郎だ。そうだ。そうに違いない。  芹沢はそう自分に言い聞かせるが、自分の身体に起きている謎の症状に対する不安が、どす黒い闇となって芹沢を覆いつくそうとする。 「芹沢、取り敢えず車に乗れ、そして、今すぐ病院へ行こう。そのままにしていては駄目だ」  桐野は芹沢の腕を強く引くと、無理矢理芹沢を車の助手席に押し込め、自分も素早く運転席に座った。 「桐野……病院って、俺は平気だよ! どこもおかしくない!」  芹沢は桐野の言葉に傷つき、声を荒げてそう言った。 「おかしくなくないんだよ……自分では気づかないかもしれないけど、今の芹沢は明らかに普段の芹沢とは違うんだ」  桐野は何かを堪えるように眉間に皺を寄せると、苦しそうにそう言った。 「な、何が? 何が違うんだよ! 嫌だ! 俺はオメガじゃない! ベータだ!」 「……俺の知り合いに医者がいるんだ。そこに今から連れて行く。そこでもう一度良く検査してもらおう」 「はあ? 検査って何だよ! 俺は行かないぞ! 絶対に行かないからな!」 「芹沢! いいから落ち着け! 俺の言う通りにするんだ!」  普段の桐野からは想像もできない強い口調に、芹沢は委縮して体を強く強張らせた。 「……芹沢。頼む。心からのお願いだ」  桐野は怒鳴ったことを後悔したのか、すまなそうに目を伏せながら芹沢に優しくそう言った。 「嫌だ……いつものように俺の目を見ろよ。何で逸らすんだ?」  芹沢は桐野の腕を掴むとそう懇願した。自分に対するその不自然な態度が表す意味を、芹沢は今全力で否定したい。 「ごめん……俺に触らないでくれないか……俺、耐えられなくなりそうなんだ……あの男と同じ真似だけは、死んでもしたくないから」 「……桐野」  桐野の言葉に、芹沢は胸に何千本もの針を一度に刺されたような痛みを覚えた。涙を堪えながら助手席の窓に頭を寄せると、芹沢は静かに目を瞑った。

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