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 桐野が紹介してくれた医師が処方した抑制剤は、すぐに効果を発揮して、芹沢は今までと変わらない日常を過ごすことができていた。  3か月に1度訪れるという発情期を抑制するために飲むその薬は、綺麗な水色をしていて、それを1日3錠欠かさず飲まなければいけなかった。芹沢は、1日も欠かさず毎日飲むようにと医者に念を押されて、もし忘れたら何があるのだと不安にさせられたが、勝手に薬をやめたりしないための、医者なりの脅し文句だと後になって分かった。  でも、あの時医師は芹沢に確かに言ったのだ。体調によっては発情を抑えられない日が1日ぐらいあるかもしれないから、その時は絶対部屋から出ず、必死にその症状を乗り越えるしかないということを。そんな日が来ないことを芹沢は心の底から望む。薬でも抑えられない状態って一体どんな状態なのだ。芹沢はそれを想像すると体が小刻みに震え始める。あの気持ちの悪い男に襲われそうになった恐怖が蘇る。 (あの時桐野が助けに来てくれなかったら自分は……。)  芹沢は職員室の自分の机に肘を付くと、頭を抱えながら首を軽く左右に振った。  薬を飲み始めて2か月半になるが、いつやってくるか分からない発情期に戦々恐々しながら過ごす日々は正直地獄だ。芹沢はスマホでセットしたタイマーが鳴りだしたのを合図に、机の引き出しを開けると、中から薬を取り出して、それをミネラルウォーターで一気に流し込んだ。 「体調は、どうだ?」  気がつくと、芹沢の隣の席に桐野が座っていた。体育の授業だったのか、秋真っ只中の少し肌寒い日に白いティーシャツ1枚で熱そうに汗をかいている。芹沢はその姿に訳もなく動揺して、思わず目を逸らした。 「暑い」と言いながらタオルで汗を拭う桐野から、微かなコロンと汗が混じり合う匂いがする。  芹沢はその匂いを嗅いだ瞬間、胸の動悸が激しくなり、全身に血が駆け巡るような感覚を覚えた。ひどく焦れるようなこの感覚は、自分が今性的に興奮しているからだと認めるにはかなり勇気がいる。  何故だろう? 抑制剤を飲んでいるのに、自分はどうして桐野にだけこんな反応をしてしまうのだろう。  これが、自分がオメガだという証拠なのだろうか。だとしたら誰彼構わず発情するなど、死んでしまいたいほど恥ずかしい。でも、本当にそうなのだろうか? 自分がオメガだから桐野に発情してしまうのだろうか? 芹沢はそんな思いに捕らわれながら、こっそりと桐野を伺った。  男らしい太い首の上には不釣り合いな小さな顔が乗っている。その顔にはチャームポイントと言える吸い込まれそうな、澄んだ漆黒の大きな瞳が存在している。芹沢はこの目が好きだ。この目が桐野という人となりを表しているからだ。この目を見れば芹沢は桐野を心から信頼することができる。オメガな自分でもここに居て良いという勇気と希望を持たせてくれる。  芹沢を守ると言ってくれた桐野に自分はどれだけ救われたかしれない。その言葉を信じて、芹沢は今でも変わらず同僚や生徒を欺きながら教師を続けている。罪悪感がないと言ったら嘘になる。でも、芹沢はこの仕事をどうしても続けたいのだ。 (どうか神様。教師を続けることを選んだ自分を許して欲しい。何の罪もない桐野を巻き込んでしまったことも。)  芹沢は一人の人間として桐野が好きだ。でも、今ではそれもあやふやだ。この好きという感情が独り歩きして、混乱しながら彷徨っている。芹沢の好きは「恋」の好きなのか、「親友」としての好きなのか。未だ判然としない。ただひとつはっきりと言えるのは、自分の体がまるで半身でも求めるように、桐野に反応してしまうことだ。桐野の声、桐野の腕や足の筋肉。桐野の笑顔。その全てが芹沢を魅了し、芹沢の心を離そうとはしない。 「今日も帰り送ってくよ。少し遅くなるけど大丈夫?」  あの悪夢のような日以来、何度断っても、桐野は退勤時に芹沢をアパートまで車で送ると言って聞かなかった。もう二度とあんな目には合わせたくないとそう言って。 「……今日は、寄りたいところがあるから大丈夫だよ」 「寄りたいところ? どこ? いいよ。俺も付き合うから」  桐野は湿度の高い体を俺に近づけると、必死な声でそう言った。そのせいで桐野の匂いがまた芹沢の鼻孔をかすめるから、落ち着いたばかりの芹沢の欲望が、再び燻り始めてしまう。 「いいって。桐野にいつも迷惑はかけられない」 「……俺が迷惑だと思ってると思ってるのか? それは勘違いも甚だしいよ。俺は好きでやってるんだよ。だから断られるとマジで悲しい。泣くよ。ここで大声で」 「はあ~、桐野はホント子どもみたいだな。分かったよ。妹への誕プレを買いたかったんだよ。今日は原宿まで足を運ぼうかと思って」 「いいね。俺が原宿のお洒落な店紹介してやるよ。期待して待ってろよ」 「んー、桐野の趣味あんま信用できないな」  芹沢はわざと憎まれ口をたたくと、不満そうに口をへの字にする桐野を、笑いながら見つめた。

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