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 夕飯にカレーをテイクアウトして、二人で芹沢のアパートで食べることにした。行きつけの店に寄ると、芹沢は、夕飯は自分が払うと言い、車に桐野を置いたまま店の中に入った。  ここのカレーは人気で、店内はいつものように混んでいた。芹沢は注文をするために、客が並ぶ列の一番後ろに着くと、ぼんやりとカウンター奥の殺伐とした調理場に目をやった。  一人の若い男が、まだ慣れていないのか、他の従業員に嫌味ったらしく説教をされている。その若い男はびくびくとその従業員の説教に怯えている。こんなに客が沢山いる中で、店の内情を見せつけられるのは正直不快だ。芹沢は深い溜息を漏らしながら、見なかったことにしようと二人から視線を外すが、二人の様子がどうしても気になってしまう。 「違う! そうじゃねーだろう!」  激しく激昂する従業員の声が店内に響いた。多分あの男はこの店で一番偉い立場にある人間なのだろう。レジの店員も他の従業員も誰も彼を止めようとはしない。というか止めることができないぐらいの迫力がある。多分そのパワハラは、この店では日常茶飯事なのかもしれない。そう思わせる雰囲気が醸し出ているのを、芹沢は強く感じ取った。 「だから、オメガなんか使いたくなかったんだよ!」  その高慢な男は、これ見よがしにそうでかい声で言った。店内がその言葉で、一瞬でしんと静まり返るのがはっきりと分かった。 「お前は男に体売るのが本業だろう? もういいから、向いてないからこの仕事やめちまえ!」  あまりの人権を無視したその言葉に、芹沢はショックの余りその場に崩れ落ちそうになった。立っていることができないくらい、呼吸が荒くなっていく。 (ひどい……ひどすぎる。)   芹沢はオメガの現実をまざまざと見せつけられてしまい、迷わず注文をやめると、フラフラと店を出た。  桐野は、そんな芹沢の様子を見て運転席から慌てて降りて来ると、芹沢の肩を素早く支えた。 「どうした? 芹沢……何かあったのか?」  芹沢は、心配そうに自分の顏を覗き込む桐野から目を逸らすと、顔を強張らせながら首を左右に振った。 「ご、ごめん。急に気分が悪くなって……カレー頼めなかった」 「そんなのいいよ。早く帰ろう」  桐野はそう言うと、助手席のドアを開けて、芹沢を慌ただしく押し込んだ。  芹沢は助手席に座ると、あの男の声が耳にしつこく残っていることに気付き、それを掻き消すため両手で耳を強く抑えた。ぐわんぐわんと耳鳴りのように、あの男の声が響いている。 (オメガ、オメガ、オメガ!)  あの容赦なく蔑む声が芹沢の胸を突き刺す。芹沢がオメガだという事実を残酷にも晒してくる。あの男は、もし自分がオメガだったらという考えには至らないのだろうか? 相手の立場を想像するという、誰にでもできるような感覚を全く持ち合わせてはいないのだろうか?  こみ上がる憎しみと悔しさが重力となって芹沢に圧し掛かり、芹沢は頭を上げることができず、俯いたまま拳を強く握りしめた。 「もしかして、店で何かあったのか?」  やはり桐野は意外と勘のいい男だ。この男は性根の綺麗な優しい男で、あの店の男とは違う。育ちが良いのか、相手の立場をちゃんと想像できる知性のある男だ。でも、世間のオメガに対する認識はやはりあの男と同じように、ひどく卑俗的で汚らわしいものなのだ。芹沢はその事実を強く突きつけられてしまい、自分という人間のアイデンティティが、ガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。 (どうしよう……俺はこの先……どうしたら……。)  桐野は、芹沢をオメガだと知っていても守ると言ってくれた。でも、本当にそれでいいのだろうか? 芹沢がオメガである事実を隠しながら教師を続けていくことは、この社会では絶対に許されないことだ。抑制剤を飲んで上手くやり過ごしたとしても、いつかはそれが明るみに出る日が来るに違いない。一端の若手教師の桐野が、芹沢を庇い続けることなど絶対に無理な話なのだから。 「な、何もないよ……帰ろう、早く。帰って早く寝たい……」 「ああ。分かったよ」  桐野はそう言うと、芹沢のアパートまで車を少し飛ばしながら走らせた。  アパートに着くまで二人はずっと無口だった。桐野はエンジンを切ると、芹沢に真っ直ぐ向き直った。 「芹沢……何かあったら俺にすぐ言え。ひとりで乗り越えようとするなよ」  桐野は思い詰めたようにそう言うと、さり気なく芹沢の後頭部に手を添えながらそっと抱き寄せた。 「な、何でそこまで俺に優しくする? 俺はオメガだ。お前は俺なんかといたら人生狂っちまうよ……だからもう俺に構うなよ」  芹沢は桐野に抱かれるのを抵抗せず、されるがままそう言った。それは芹沢の本心であり、強がりでもあり、知りたい疑問でもある。 「……親友、だからだよ。だから俺はお前に構い続けるよ」 「親友? ああ、そうだな。俺たちは今じゃ完璧な親友だ……」  芹沢は桐野の「親友」という言葉に違和感を覚えた。 (じゃあ、お前は何で今、俺をこんなに甘く優しく抱き寄せる? これも親友だからなのか?)  もしかしたら桐野は、単純に芹沢のフェロモンを忘れられずにいるだけなのかもしれない。こうやって自分を抱き寄せるのも、ただ性的に芹沢に興奮しているだけ。そんな疑惑が、芹沢の弱った心に芽を出し始める。 「ありがとう。桐野先生。また明日」 「芹沢?」  芹沢はわざと先生を付けて桐野の名を呼んだ。そうすることで、芹沢は桐野から少しずつ距離を取ろうと心に決める。  芹沢は桐野の車から降りると、振り返らずアパートの階段を、カンカンと音を立てながら駆け上った……。

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