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第22話

 晴れ渡る空。清々しい風が丘を撫でていく。  新たな門出には良い日だ、とリゼロンは微笑んだ。  昨日はゆっくりとした時間を過ごした。本当に穏やかな一日だった。リゼロンはレオーネの他愛もない話を聞きたがり、それを答えるばかり。それでも彼は、心から嬉しそうに耳を傾けていた。夢のような時間だ。  そしていつの間にか夜が終わり、朝陽が昇って。今、彼らはレオーネの別荘の前に立っている。リゼロンが森に帰るのだ。  拉致してきた時と同じ、繊細な織物の服をまとい、金のネックレスを身に着け。風に金糸を揺らめかせるリゼロンは、この世のものとは思えないほど美しく儚げだ。  今となっては昔の笑い話だが、かつてエルフたちは神の使いであるとも考えられていたらしい。森に降り立つ神秘の存在は、人間たちを見守り、ときに導いたと。それが森の隣人へと変わり、ついには奴隷へと落ちた。  そこには彼らの、底知れぬ人間への深い愛情と寛容さ、そしてこの、明らかに人とは違う神秘的な美しさがあったのだろう。彼らは利用され、傷つけられても、人間を愛し続けている。その悲しさに、祖父ダヴィードもエルフを憐れみ、リゼロンをかくまったのかもしれない。 「レオーネ」  考えごとをしていると、リゼロンが名を呼ぶ。彼にしては珍しい、真剣な表情を浮かべていた。 「そなたには酷なことを言う。受け入れられなければ、拒否してもよい。その上で、ひとつ頼みがある」 「……なんだ?」 「……そなたの母の死因を、調べてほしい」  その言葉にレオーネは息を呑んだ。まさか、今更そんな話が出るだなんて思ってもみなかったのだ。 「死因と言ったって……高熱を出して、苦しみ抜いて、……衰弱していっただけだ」  その時の苦しげな母の姿を思い出して、レオーネは眉を寄せた。あの日々を忘れることなどできない。変わってやれるものなら変わってやりたいほど、辛そうにしていた母。その手を握り、名を呼ぶことしかできなかったあの日を。 「……すまぬ、辛いことを思い出させてしまうが。どうしても納得がいかぬのだ。そなたに与えた薬は万能なものであった。もし合わぬことがあっても、時間をかけて快癒すると思っていたのだ。……どうにもわからぬ。何か、私の薬をしのぐような強い要因が有ったとしか思えぬ」 「強い、要因……」 「例えば、呪いのような」  その言葉に驚いた。思い返してもあまり心当たりはない。母はいつも通り過ごしていた。花を好んでいた彼女は、寝室にまで花瓶や鉢植えまで持ち込んで愛でていたから、いつも優しい花の香りに満ちていた。父と共に茶会に足を運ぶと、他の貴人たちとよく話し、穏やかな笑顔でみなに愛されていたとレオーネは思っている。 「ともかく、何か普段と変わったことがないか、今一度調べてほしいのだ。無理にとは言わぬ、そなたにとっては辛い過去であろうから」 「しかし、もう十二年も前のことだぞ。手がかりなんて……」 「日記などをつけておられたなら、そこにあるやもしれぬ。また帰って来たら私が直接出向こうとは思うているのだ、そなたがそれを許すなら。我らエルフは、そなたらとは違うものが見聞きできるゆえに、わかることもあるだろう」  レオーネはしばし考えて、それから「わかった」と頷いた。これまで全てをリゼロンのせいにしていたことだ。もし、そこに真相があるというなら知りたいし、無いというのならもう、過去を清算したい。自分がリゼロンを許し、またリゼロンが自らを許すのに必要なことだろうと思った。 「お前が帰ってくるまで、屋敷で調べておこう。……迎えの馬は必要か?」 「いらぬ、荷物は鹿にでも持ってもらおう。……だがそうだな、私が遅いようなら、ミカに連れて来てもらうといい。私は逃げも隠れもせぬつもりではあるが、……自らの脚で森を出るには、多少の勇気は必要かもしれぬからな」 「……ああ、わかった」  頷くと、リゼロンは微笑む。その頬をまた風が撫でた。金の髪が流れるほうに彼は視線を映し、そこに広がる風景を見つめる。  遠くには柔らかな緑の山稜、丘を流れるように走る道。ぽつりぽつりと建ち並ぶ家々に人の営み。雲一つない青空は澄み渡り、一羽の鳥が風に乗って、北西へと飛んでいく。 「……外界とは、かように広く、色鮮やかなものであったのだなあ……」  リゼロンが愛おしげに呟く。レオーネにとっては見慣れた光景だ。しかし、あの森の奥深くに潜んでいたリゼロンには。 「……リゼロン」 「うん?」 「夏の夜は朝まで祭りを行う。村は灯篭に照らし出されて、一つの絵画のように美しい風景を見せてくれる」 「ほう」 「領内の河では魚が空を飛ぶ」 「なに、鳥ではなくて、魚が飛ぶと申すか?」 「そうだ。清流を遡って上流を目指し、魚たちが飛ぶのだ。それをつけ狙って鳥どもが待ち構えている。くぐりぬけて無事に魚が泳ぎぬけば、次の年は豊漁に恵まれるのだ」 「それは面白いな、是非この目で見てみたいものだ」 「他にも、きっとお前が知らないことはいくらでもある。外に出るのが不安ならそばにいるし、その髪も顔も隠してしまえばエルフだなんて、ましてやリゼロンだなんて誰にもわからないだろう。共に、いろんな場所を見に行こう。そしてお前を守らせてほしい……、いや――」  レオーネはリゼロンの手に己のそれを重ねる。 「お爺様に代わって、俺が必ずお前を守る。だから、安心して帰って来い」  そうしたら、珍しいものもたくさん見せてやれる。  その言葉にリゼロンはしばし言葉を返さなかった。リゼロンの瞳が揺れている。きっと何か、言葉にできないことを考えているのだろう。それでも、ややして彼は優しく微笑んで頷いた。  リゼロンが森の中に消えて行くのを見守ってから、レオーネは別荘の者とミカに説明し、一度屋敷へ戻ることにした。ミカも共に来るというので、二人で連れたって馬に乗り、フェルヴォーレ家の屋敷へと向かう。  父親に許しをもらい、母親の部屋へと進む。父とレオーネの寝室の間に位置するそこは、彼女がこの世を去ってから十二年、大切に守られてきた。  扉を開けると、優しい花の香りを感じる。中に入ると、誰もいない寝台の周りにはいつものように花の鉢植えが飾られていた。流石にあの頃とは違う花々だったけれど、今も侍女たちが花の手入れをしている。地の底へと帰った彼女の御霊が寂しくないようにとの配慮だった。  部屋の調度品にも埃ひとつ積もってはいなかった。それらを懐かしく撫でながら、ミカと共に日記帳を探す。それは、机の引き出しの中にひっそりと隠してあった。  分厚いそれからは、不思議と優しい香りがする。そっと開くと、後ろのほうは殆どが白紙で、最後に記された文字は震えており判読するのも困難なほどだった。そのことに胸が苦しくなる。  熱に身体を侵され、死の間際に記したのだろう。辛うじて読める言葉は「レオーネ」「あなたをおいていって、ごめんなさい」といったものばかりで、涙がこみ上げ、喉が締め付けられる。最後まで、彼女は息子のことを気にかけていたのだろう。自分のことよりも、大切な子どものことを。  思わず手が震えた。案じたのか、ミカが「レオーネ様……」と背に触れる。それでようやくレオーネは首を振って、気を取り直した。感傷に浸っている場合ではない。リゼロンの願いを叶えなければ。  ページを逆にめくっていく。熱が出てからはあまり書いていないようで、日付がとびとびになっていた。やがてはっきりとした文字で一日のできごとを記し始める。 「レオーネがネイファに芸を仕込んだと喜んで見せに来てくれたわ。ネイファはレオーネの言うことをよく聞いて、おすわりをしていたの。まだ小さいのにとってもお利巧さん。私の可愛いレオーネと同じね」  その日のことをレオーネはあまり覚えていない。気恥ずかしさでくすりと笑う。きっと何気ない日常が、母にとっては幸福だったに違いない。そんな日々をこうして喜べる母こそ、素晴らしい女性だったのだろうと思う。  母への思いで胸を痛めながら、ページをめくる。そしてレオーネは、そこに書いてあったことに目を見開いた。 「本日の茶会にて、アンドルフィ家の従者のエルフさんから、素敵な贈り物を頂いた。カナン様がよくしてもらっているお礼だと、ご当主ラビア様より。いつも楽しい話を聞かせてくれるととても感謝された。こちらこそ、レオーネと仲良くして頂いて嬉しいわ。贈り物はとても美しい花の鉢植えだから、寝室に飾ることにした。初めて見る花だから、せっかくなので名前も教えていただいたけれど――」  レオーネはその先の言葉を読んで、思わず日記から顔を上げる。 「その花の名前は、「リゼロン」というらしい――」  何故。  何故、ここで、リゼロンの名前が出てくる。  レオーネは混乱した。  この時点では、リゼロンの名を誰にも告げていない。誰にも言わないと約束したからだ。母にも、カナンにも、先日ついに口を滑らせてしまうまで、本当に打ち明けていなかったのだ。  ただの偶然、だろうか? 母が死の直前、リゼロンという名の花を受け取っているのは。しかし、タイミングが良すぎはしないか。カナンと懇意にしていたのはそれ以前からであるし、それ以前にも何度か贈り物はもらっていたが、それはレオーネに宛てたものだった。何故この時だ け、母に贈り物をしたのか――。  そしてレオーネは、思い出した。  あの頃。大切な友人にカナンにも、リゼロンの名前を伏せたまま、自分の身に起こった出来事を打ち明けてきた。指輪のことも、彼の住処が別荘の近くの森であることも、全て。  カナンは信頼できる友人だ。きっと、約束を守ってくれている。問題は、その場にはもう一人の人物がいたこと。 「……アーシェ……」  手が、声が震えた。  エルフは嘘をつかない。エルフは主人に従順で、約束を違えない。アーシェはカナンに約束していた。このことは秘密にすると。  だが。あの時、本当にアーシェの主は、カナンだったのか?  まだアンドルフィ家の当主はラビアだ。カナンは、祖父のラビアからアーシェを与えられたと言っていた。だとしたらアーシェの主人は、本当にカナンなのか?  もし、彼の主人が未だに当主ラビアで……そして、そのラビアこそが。リゼロンが逃げ出してきたという場所の、主であったなら?  全身が凍えるようだ。震える身体を、ミカが支えてくれる。  そう考えれば、全ての糸が繋がってしまう。アーシェが贈った花の名はリゼロン。それから数日して、母が体調を崩す。悩むレオーネに、計ったようにカナンからの手紙が届いていた。アーシェからの進言。「森のエルフのもとへ向かえ」……。  そしてその通り森へ向かったレオーネを、待ち伏せていたかのように野盗が現れ。彼らは、「指輪」を探した。両親を除いては、カナンと……アーシェにしか伝えていなかった、それを。  だとしたら。 「……お、俺が……」  俺が、俺こそが。リゼロンの安全を脅かし。母を死なせてしまったではないか。  震える手で口を押さえる。あまりに残酷な予感に、吐き気が止まらない。だとしたら、なんと愚かな。誰に詫びてどう償えばいいかもわからぬほどの大罪だ。それを全てリゼロンのせいにして、自分は何をした。  消えてなくなりたいほどの罪悪感、取り返しのつかないことをした後悔に、気が狂いそうだ。心配するミカが、背を抱いてくれるが、そんなことをされる資格など無いように思えた。  深い悔恨と絶望へと沈み込みそうになったレオーネを、しかし、一つの記憶が掬い上げる。 「……大変だ」  先日、カナンの屋敷へ茶会に行った時。そこにいたアーシェとカナンに、俺は何を話した? 「……っ、リゼロンが危ない! 今すぐ森へ行くぞ、ミカ!」

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