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第23話

 森はいつもと変わらず、静かで穏やかだ。  木々はリゼロンに道を作り、草花は歓迎するように身を揺らす。動物たちはリゼロンの近くに寄り、再会を喜んでいるようだった。顔を寄せる鹿の頭を撫でてやり、足元を跳ねるウサギを踏んだりせぬよう気を付けながら、薄暗い森を奥へと進む。  ここには、森と動物たちのほかには何も無い。夜は深奥のような闇に包まれ、昼は薄明かりが照らすばかり。風が木々を揺らす音、動物たちの鳴き声。そして精霊たちの言葉。それより他は、何も無い。  何十年とこの暮らしをしてきた。それでよかったのに、今は少し、ぽかりと胸に穴が開いたような心地がする。リゼロンは苦笑して、いつも通りの姿で佇む己の家へと足を踏み入れた。  数日留守にしていたけれど、変わりない。ミカは随分紳士的だったようだ。押し入られ、連れ去られたというのに部屋は荒らされておらず、まるで自分が出かけていただけのように何の変わりもない。  そんなことを考えながら、リゼロンは家の中を移動する。自分の部屋ではなく、かつてレオーネが過ごしていた部屋へと。  調薬の機器を取りに戻る、というのは建前だ。リゼロンはその部屋に残された、レオーネの私物をこの十二年、大切にしてきた。例えば彼のくれた押し花のしおりや、花の図鑑。時を経てすっかり彼の残り香など無くなってしまった上着や、自分を描いたという拙い絵――。  それらは長い孤独へ身を寄せるリゼロンにとって、数少ない楽しみであり、そして心の支えであり――胸を痛めるものでもあった。 「……ふふ、馬鹿だな私は。まるで子を持った母のように」  この身は子を孕むどころか、成すこともできぬというのにな。リゼロンは苦笑して、布の袋を用意する。思い出と共に森を出るため、ひとつひとつ、愛しげに眺めては袋の中へとしまっていく。 「あんなに立派になっているだなんて、想像もせなんだな……。されたことには少々驚いたが……」  あれには辛い思いをさせてしまった。気が晴れるならと思うて好きなようにさせたものの、余計に苦しんでおらねばよいのだが。ぽつりぽつりと独り言を漏らしているうちに、レオーネにされたことを思い出してしまった。  辛くはあった。悲しくもあった。それは否定しない。しかしそれを覆いつくすようなあの、快感の波と、身を焼くような熱。そして、胸の内から溢れ出る愛おしさ、多幸感――。 「……いや、忘れよう。そのほうがレオーネのためにもなる。あれはよい子だ、きっと似合いの娘と契りをかわす。いずれ同じように勇敢で優しい子に恵まれるだろう……」  そう思うのに。忘れようとするほどに、鮮明に蘇る。レオーネに口付けられた時の、息苦しさの中の恍惚。身を繋げられた苦痛の底からわき出す悦。重ね合った手のひらの熱、名を呼ばれる心地良さ、抱かれる喜び……。  いかん、いかん。  リゼロンは慌てて首を振った。こんな雑念に惑わされてはこの先、レオーネと共に暮らしていけない。忘れなければ。  そんなことを考えていたからだろう。リゼロンはその時まで、何にも気付いていなかった。  トントン、と家の戸が優しくノックされる。リゼロンはビクリとして家の入口を見た。何者かの気配がある。  ここに来ることができるのはミカだけだ。しかし、何故ミカがここにいるのだろう。なにか、伝えることでもあるのだろうか。  リゼロンは静かに扉へと向かう。ゆっくりと扉を開くと、そこには一人のエルフが立っていた。  金の長い髪を後ろでひとくくり。執事のようにかっちりとした服を身に着けた彼は、片眼を隠すように前髪を伸ばしていた。見えているほうの眼が、優しく細められる。見たことがないエルフだった。  ――否。リゼロンは、ぐらりと景色が揺れるように感じて一歩身を引いた。  なんだ、この感覚は。全身が彼を恐れている。記憶にも無い、目の前のエルフのことを。 「久しいですね、リゼロン。お暇を頂いているうちに逢えて、本当に良かった」  柔らかな声が囁く。それはどこまでも優しいのに、身が震えるほど恐ろしい。リゼロンはまた一歩下がりながら、「だ、誰だ」と問うた。 「おや、私のことを忘れてしまったのですか? 随分長い時間をともにしたのに……」  そう言って、エルフがリゼロンに歩み寄る。思わず「来るな」と口に出したものの、彼は止まってはくれなかった。 「私の名前はアーシェ。あなたの、同僚ですよ」 「同僚、だと……?」 「ええ。共にラビア様にお仕えしていたのですよ? ラビア・アンドルフィ、思い出せませんか?」  その名前に背筋がぞわりとする。身体がその名を拒んでいた。リゼロンは逃げるように家の中を彷徨ったが、アーシェと名乗ったエルフは優しい微笑みを浮かべたまま、距離を詰める。 「く、来るな! そのような名、知らぬ!」 「ああ、あなたは人に近いですから、忘れているのですね。きっとラビア様にお会いすればたくさんのことを思い出しますよ。私と共に参りましょう。ご主人様はずっとずっと、あなたの帰りをお待ちなのですから」 「来るなっ!」  リゼロンは叫んで、近付いてきたアーシェを突き飛ばした。よろめいたアーシェの横をすり抜けて、家の外へと駆け出そうとする。 「……ッ、ア!」  ガッ、と長い髪を掴まれて、痛みに悲鳴が漏れる。そのまま引っ張られ、勢いで床に叩きつけられた。  このままではまずい。逃げなければ。身体を起こそうとしたリゼロンの腹部を、強い衝撃と冷たい痛みが襲ったのはその時だ。 「……ぁ、……うああぁあ……っ!」  一瞬、何が起こったかわからなかった。己の腹部から、ナイフの柄が生えているのを見るまでは。気付いた途端に、焼けるような痛みが襲う。苦痛に眉を寄せている間に、アーシェは何か布を取り出してリゼロンの口を鼻ごと覆う。 「ううっ、う、うーーッ!」  もがいて逃れようとするのを無理矢理押さえつけられる。ただでさえ、腹部の痛みで上手く動けないのに、抵抗などまともにできるわけもなかった。布には何か薬がしみ込んでいたのか、リゼロンの意識が遠のいていく。 「ああ、かわいそうなリゼロン……」  ぼやけた視界で、アーシェの姿が揺れている。その声が、微かに耳へ届いた。 「ヒトの子に心を許さなければ、最後まで逃げきれたかもしれないのに……」  目を覚ますと、リゼロンは薄暗い部屋の中にいた。身を捩ろうとして、うめき声をあげる。刺された腹が痛むのだ。傷を見ようとして、リゼロンは己の置かれている状況に気付いた。  背もたれの異様に長い、奇妙な椅子に括りつけられているようだ。両の手は開かれた状態で高く上げられ、手枷で拘束されている。元々着ていた服は脱がされ、前開きの薄く透き通った物のみが着せられていた。腹部からはまだ血が滲んでいる。アーシェに襲われてからそう時間は経っていないのだろう。  逃げようと身を捩ってみたが、胴や足も椅子に固定されて殆ど身動きが取れない。レオーネのしていたことがかわいらしく思えるほどだ。悪いことには声が出せないように布を噛まされている。ここが何処だとしても、叫んだところで誰も来てはくれないだろう。  リゼロンは辺りを見回した。薄暗くほとんど見えないが、どこか部屋の中らしい。窓さえ無いから場所も時間もわからないが、目の前に何か、大きなものが……あの輪郭は、ベッドだろうか? そこに何者かが横たわっているように見えた。  その他はほとんどわからない。そう思ってから、では何故自分の状況はわかるのかと疑問に思った。そして、自分のそばに燭台が置かれていることに気付き、……そのそばを見て、息を呑んだ。  燭台のそばには、テーブルが置かれている。何の変哲も無いそれの上には、禍々しい器具が数えきれないほど並んでいた。見ただけでぞわりと恐怖が背筋を這い上がる。何に使うのかも想像したくない。それらの中には拷問器具も、性具も並んでいた。  刹那、己の見ていた悪夢を思い出す。耐えきれぬほどの熱、苦痛。泣き叫び、許しを乞うても与えられぬ解放。そのそばに、一人の同胞がいたことを。  まさか。いや、そうだとしか考えられない。だとしたら、今おかれているこの状況は……。  リゼロンは血の気が引くのを感じた。数十年前、逃げた場所に連れ戻されたのだ。あの悪夢へと。記憶も無いのに、身体が震えた。きっとリゼロンの頭などより、そちらのほうが全てを覚えているのだろう。  逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ……!  リゼロンが身を捩る。しかしガチャガチャと手枷や足枷が鳴るばかりで、拘束はびくともしない。  焦るばかりで何もできないでいると、コツコツと足音が近付いてくる。息を呑んでそちらに視線をやれば、そこには燭台を持って歩くアーシェの姿があった。彼はリゼロンに微笑んで、それからベッドへと歩み寄る。 「ラビア様、何十年ぶりでございましょう。遂にリゼロンを探し出しました。お喜びください……」  アーシェが囁いて、燭台を傾ける。そこには他の燭台が有ったらしい。蝋燭に火が移り、ベッドの上が照らし出される。 「ーーッ!」  リゼロンは口を塞がれたまま、声にならない悲鳴をあげた。  ベッドの上には、まるで眠るように布団をかぶせられた、半ば腐乱した死体が横たわっていたのだから。 「ご覧いただけましたでしょうか。近頃はラビア様もお元気が無くなられて……。心配しておりましたが、生きておられるうちにリゼロンを連れ帰ることができて、アーシェはとても嬉しゅうございます……」  アーシェがラビアの痩せ細った手を握りそう語る。その言葉に嘘偽りなどないのだろう。だからこそ、リゼロンは戦慄した。  このエルフは。人の死がわかっていないのだ。  恐らく生前のラビアは命じたのだろう。逃げ出したリゼロンを取り戻せと。しかし、リゼロンはダヴィードにより丁重に隠され、長きにわたって森の中に潜んだ。  リゼロンは無事、魔の手から逃げ切ることができていたのだ。ただ一人。生前の主人の命令を取り消されないまま、職務を果たそうとするエルフを除いては。  だとしたら。リゼロンは震えた。  この先にあるのはまさに、終わりなき地獄だ。  必死に暴れた。腹が痛むのも構わず。血が滲むのも構わずに、力の限り。それでも、拘束はびくともしない。  そんなリゼロンにアーシェは微笑んで、再びベッドの灯りを落とした。それからゆっくりと、リゼロンに歩み寄る。 「うう、う、……っ!」  首を振って拒絶した。全身が恐怖を訴えている。己の身にこれから何が起こるのか、まるで知っているかのように。アーシェがリゼロンの頬に触れる。それだけで恐ろしくて呼吸もままならない。 「リゼロン、今日は疲れたでしょう。お眠りなさい」  しかし、アーシェは奇妙なほど優しくリゼロンに囁いた。 「ラビア様はもうおやすみのようです。あなたも今夜はよく休んで……」  アーシェの手が、我が子を撫でるように髪に絡んだ。 「明日から、また以前のように……ラビア様へご奉仕しましょうね……?」  その微笑が、この世の終わりのように美しく、残酷だった。

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