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第24話

 何時間、無駄なあがきを続けてきただろう。蝋燭の火が消された暗闇の中で、身体の感覚ばかりが鋭敏になっている。手枷や足枷がこすれて、酷く痛む。ヌルヌルと滑るようになったから、血が溢れたのかもしれない。それでも、何の役にも立ちはしなかった。  疲労で意識が遠のきそうになる。けれども、このままここにいたらどうなるかを想像すると眠ってなどいられなかった。  無限にも思える時間は過ぎる。やがて無情にも暗い部屋の入口を開く音が響き、リゼロンは身を震わせた。  部屋の入口にからは一瞬眩いほどの光が差し込んでいる。外はもう朝なのだろうか。この部屋から出れば明かりが有るのかもしれない。しかし扉はすぐに閉められ、部屋は再び僅かな灯りのみが照らす暗闇に落ちる。  昨日とは違い、皿にオイルを満たし、そこに芯を用意する簡易なオイルランタンを持ったアーシェは、もう片方の手にトレイを乗せている。そこには、人間の食事が用意されていた。 「ラビア様、食事をお持ちしました。今日は召し上がって下さるとよいのですけれど……」  アーシェはそう囁いて、ベッドにトレイを乗せる。それから、床に膝を着き亡骸の手を取った。その甲に口付け、頬を寄せる。 「近頃は何もお召し上がりになってくださらず、アーシェはラビア様が心配です……。でもきっと、リゼロンと以前のように愉しめば……」  アーシェの瞳が、こちらを捉える。思わず悲鳴が漏れそうになった。その美しい顔が、緑の深い瞳がひどく恐ろしいものに見える。実際、屍と語らうその姿は、「人間」であれば狂気そのものであろう。  しかしエルフとは。人とは違う存在なのだ。不老不死の彼らは、学習しなければ人の「死」がいかなるものか理解できない。痛みを知らない彼らに、「苦痛」はわからない。時を失った彼らに、「終わり」は無い。  アーシェは正しすぎるほどにエルフなのだ。ただ、それだけ。  なのに、それがどうしようもなく恐ろしい。 「……ああ、リゼロン。怪我をしていますね……」 「……っ!」  声をかけながら、アーシェが近寄って来る。無駄なあがきだと知りつつも、ガチャガチャと鎖を鳴らしてもがくと、彼は哀れそうにリゼロンを見つめた。 「あなたは私と違って、痛みも強いのですから。あまり暴れないで。以前から言っていたでしょう? 「早く諦めてしまえば楽になる」、と……」  何度となく、悪夢の中で囁かれた言葉だ。慈悲からくるものなのかもしれない、しかしそのようなこと、できるはずもなかった。  諦めたところで。身を焼く苦痛も、頭が焼き切れるような快楽も、和らいではくれないのだから。  アーシェがリゼロンのそばに灯火を置く。ぼんやりと、机の上の器具が照らし出されてリゼロンは寒気に襲われた。何に使うのかもわからないが、否応なくこれから理解させられてるのだろう。  アーシェはその中から何か液体の入った瓶を手に取り、その中身を白い布に沁み込ませた。そしてそれを持ち、リゼロンへと歩み寄る。うう、と首を横に振ったけれど、何の意味も無い。また鼻ごと口を覆うように被せられて、息を止めて抵抗した。 「ぅ、うう! ……ッ!」  しかし、まだ塞がっていない傷口をぐりと押されて思わず息を吸ってしまう。瞬時に、胸へ熱が広がり燃えるようだ。だめだ、と思うのに、もう呼吸を止められない。 「そう、上手に吸って、……えらいですね、リゼロン……」 「……ぅう、……っ、ぅ……」  ようやく布を離してくれた頃には、リゼロンはぐったりとして僅かな抵抗さえもできないほどだった。全身が熱く、思考がぼやける。このままでは、ダメだ。誰か、と視線を動かしても、当然誰もいはしない。アーシェの主、ラビアでさえも、骸を晒しているばかりで、このエルフを止めてはくれないのだ。  絶望的な心地なのに、身体ばかりが熱い。 「こうして薬に溺れているほうが、あなたにとっても楽でしょうから……」  アーシェはまるでそれが気遣いだというように優しく語る。そして彼は、机の上の器具をひとつずつ布で丁寧に拭き始めたようだ。リゼロンには上手く見えなかったけれど。 「久しく使っていませんでしたから、ちゃんと確認してから始めないと……。私はね、あなたにもう一度会えて本当に嬉しいのです。……まだ、思い出せていないでしょうか? あの日のことも……」  アーシェはリゼロンの答えなど待っていないように、ひとり滔々と語り続ける。 「あなたは昔から、私とは違って痛みに敏感で。まるで人間のように泣いて、許しを請うたのですよ。あんまりあなたが哀れなものですから、私もすっかり……よく、わからなくなってしまって。あなたが「エルフ」なのか、「人間」なのか。だから、あなたの願いを聞いてしまったのです。思い出せませんか?  あの時、懇願を受け入れ逃がしてからというもの……ラビア様はすっかり消沈なされて。私は改めて命令を受け、あなたを探したけれど、なかなか見つからず……。  ですが十二年前、あなたと思わしきエルフの行方を、偶然知れた時は精霊の導きに感謝しました。しかし、あなたであるという確信は得られなかったのです。レオーネ様は名を、教えてはくれなかったので。ねえ、リゼロン。あなたがそうしてラビア様から逃れるから、私のほうも少し、細工をしなくてはいけなくて。  まずはレオーネ様の御母君に、あなたの名の花を贈りました。善くない精霊が寄って来るよう、「不浄の土」を使った鉢植えですよ……」 「……っ!」  リゼロンはその言葉に眉を寄せる。不浄の土など使われたら、どんな薬も役には立たない。墓場や病死したものの亡骸を埋めた場所の土。それは人間の命を脅かすことを楽しみとする精霊を呼び寄せる。土のせいだとバレてないよう巧妙に、じわじわと人の命を奪っていくのだ。  それでも。もしその場に自分がいたなら。そうだと気付けた。気付けたはずなのだ。悔しさと熱で涙が滲む。  いいや、そもそも。初めて会ったあの日、レオーネにもう一度会いたいと。そう思ってしまわなければ。いたいけな幼子から母を奪うことも無かったのに――。  深く悔いるリゼロンを見てひとつ微笑むと、アーシェは光を反射して輝くナイフを手入れしながら続けた。 「私もあなたと同じエルフ。人間を傷付け、殺すようには作られていませんから。レオーネ様の御母君が亡くなることなど、本意では無かったのですよ? 全てはあなたが強情だから起こったこと。レオーネ様にも野盗を仕向けなければいけませんでした。  指輪を手に入れ、あなたを確保しろと言ったのに。あの人達は仕事もろくにできないんですから。おまけに失敗したことも黙って、指輪を売り逃げようとしたのですよ。私はラビア様に代わり指輪を取り上げ、試みにと森へ向かってみたのですが。これは悪手でしたね。  私の存在に気付いたのでしょう? あなたはレオーネ様ごと、私たちを拒絶した。もう絶望的でした。ラビア様はもうご高齢で、あなたを取り戻すまで生きておられるかわからなかったから」  だからご存命のうちにもう一度、あなたと楽しい時間を過ごせて嬉しいですよ、リゼロン。  アーシェの言葉に、リゼロンは苦い思いで目を伏せた。  彼の独白が事実だったとして、アーシェに何の罪が有るだろう。エルフとは本来、人の命令に背かず、思考することも難しい存在。そうしろと命じられれば何でもする、他の人間を「直接」傷付けない限りは。善悪の価値基準など無いも同然、人間の痛みも死も理解できない者を、どうして責められようか。  責めるならば、彼にそれを強いた主、ラビアだろう。しかしそれも今はただ、半ば腐った肉の塊にすぎない。であれば、全ての罪はどこにあり、あらゆる罰は誰が負うべきなのか。  深い悲しみに襲われたが、しかし諦めるわけにはいかなかった。  今度こそ。レオーネとの約束を、果たさなければならないのだから。 「さあ、リゼロン。昔のように、その愛らしい悲鳴を聞かせてください。そうすればきっと、ラビア様もお元気を取り戻すはず……」  アーシェがリゼロンに歩み寄り、口を塞いでいた布を取り外す。はあっと大きく呼吸をして、それからリゼロンは震える声で言った。 「ラビアは、もう死んでおる……!」 「…………?」  アーシェは心底不思議そうな顔で、首を傾げた。 「なにを言うのです、リゼロン。また私に懇願して、ここから逃げたいのですか?」 「アーシェ、そなたもわかるだろう! アレはもう、鼓動を打たぬ、呼吸もせぬ! 土に還る定めの屍だ! このような無意味なこと、もうよせ……っ」  叫ぶように告げた。しかし、アーシェはただ、呆れたように溜息を吐き出しただけだ。 「リゼロン、もう少しましな「嘘」はつけないのですか? ラビア様が死んでいるなどと……」 「事実を申しておるのだ!」 「人がいずれ土に還るのは定め。だからなんだというのです。今もラビア様はあそこにいらっしゃる。私たちを見つめ、耳を傾けておられるではないですか」 「アーシェ……!」  ダメだ、このエルフにはわからないのだ。それでも諦められず、アーシェの名を呼び、制止を呼び掛けた。しかし、彼が聞く耳を持つことはない。  アーシェが台の上からナイフを手に取り、リゼロンへとゆっくり歩み寄る。それだけで身が震えた。悲鳴が漏れそうになるのを何とか堪えて、「アーシェ」と名を呼ぶ。しかし、何の意味が有るだろう。 「あまり嘘を吐くようでしたら、先に舌は切り落としてしまいましょうか。喋れなくても鳴き声は出せますものね」 「嘘など、私は……っ!」 「……あなたの懇願に流され、逃がしてしまってから数十年。ラビア様のご心痛、それは深いものでした。……もう、あなたの嘘に惑わされるわけにはいかないのです。わかって? リゼロン……」  アーシェがすぐそばまで歩み寄り、ナイフを近づけて来る。恐怖のあまり呼吸も上手くできない。アーシェに言葉は届かない。制止するはずのラビアにさえも。何処かもわからないこの場所で、永遠の苦痛だけが約束されている。そのあまりの絶望に、リゼロンは我知らず口にしていた。 「……たすけてくれ、レオーネ……!」  その時だ。  ダン、っと音を立てて。部屋に眩い光が満ちた。  思わず目を閉じたのはリゼロンだけではなくアーシェも同じ。それからのことはあまりに一瞬だった。  大きな足音がしたと思うと、間も無く激しい音を立てて何かが倒れ、ガシャンと床に叩きつけられる音が響く。アーシェの悲鳴が聞こえた後に、何事かと眼を薄く飛来たリゼロンは。 「リゼロンっ!」  目の前に現れたレオーネの姿に驚く暇もなく、強く抱きしめられていた。

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