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第26話

 ラビア様は、とてもお優しいかたでした。  エルフである私にもよくして下さいましたし、奥様をとても愛していらっしゃった。奥様を亡くされるまでは……。  生まれて来た娘の代わりに奥様が亡くなり、ラビア様は酒に溺れました。その頃からでしょうか、私に暴力を振うようになられたのは……。私を殴り、蹴るたびにラビア様は仰いました。愛しているからこうするのだと。エルフ故に、少ない痛みを覚えるごと、私はそうなのだと知っていきました。私はラビア様に、愛されているのだと。  ラビア様の娘が、男性と恋に落ち。婿を取ろうとすると断固反対され、そして彼女はこの屋敷を出て行かれました。するとラビア様は、自分から娘までも奪った、男というものを憎み始めたのです。  その頃でしょうか、私の名はアーシェとなりました。奥様の名を頂いたのです。元の名前は、もう忘れてしまいました。そしてラビア様は毎夜、私を抱くようになられた。ラビア様は何かを恐れるように私を縛り上げ、薬を使い、それは深く、長い時間をかけて愛して下さいました。  そんなある日、リゼロンが買われてきたのです。ヒトに従順でないという理由で、彼はとても安く手に入ったと聞きました。  ラビア様は彼を毎夜愛しました。リゼロンは私と違って痛みにも快楽にも敏感で、よく泣き叫び、ラビア様はそれをとても好んでいらっしゃいました。ラビア様にとって、同じ男である者を弄ぶことは、何よりの慰めだったのかもしれません。  満ち足りた、幸せな日々でした。アーシェは幸せでした。あの日、リゼロンを逃がしてしまうまでは。  私にも、よくわからないのです。涙を零し、助けてほしいと懇願するリゼロンが、まるでヒトのように思えて。主の命には、リゼロンを逃がしてはいけないというものは含まれていませんでした。だから、私は逃がしたのです。屋敷に建ったラビア様の館から。  ラビア様の怒りはすさまじいものでございました。私を愛して、愛して、愛しつくしました。それでもなお足らぬのか、ラビア様は私を抱きしめ泣くのです。アーシェ、お前を愛していると。  私はラビア様のために誓いました。  必ずや、リゼロンを連れ戻し、ラビア様の御前に。そしてまた三人で愛し合うと。たとえ何年かかろうとも。必ず、必ず。  そう、誓ったのでございます――。  朝陽が、窓から優しく差し込んでいる。  波乱に満ちた長い1日が終わり、迎えた朝は静かなものだった。寝台の上、隣に横たわっているリゼロンの髪を撫でてやってから、レオーネは静かに起き上がる。その気配に目を覚ましたらしい。リゼロンがゆっくりと眼を開き、それからレオーネを見つめた。 「……私は、どれぐらい眠っておった……?」 「丸一日、といったところかな。特に予定もない、まだ眠っていてもいいぞ」 「……ここは……? アーシェは、どうなった……?」  まだ目が覚めきらないらしい。リゼロンは瞼を閉じて、深く呼吸を繰り返している。それでも、起きてはいるようだ。レオーネはその髪を梳いてやりながら、ゆっくりと説明した。 「ここはアンドルフィ家……カナンと、アーシェの屋敷だ。客室を貸りて、一晩世話になった。カナンがひどく詫びてな、もとはといえば我が家の問題に巻き込んだのだと……」 「……カナンとやらも、巻き込まれた側であろうにな……」  リゼロンがため息交じりに呟く。  カナンを始め屋敷の者は、ラビアのしていたことに気付いていなかったようだ。それほど、外面はできた人間だったのだろう。そんな祖父や、腹心としてそばにいたエルフの真実に、カナンもどれほどの心労を抱えていることか。  とはいえ。先に進むしかないのだ。 「あの後すぐにラビアを火葬した。急ぎではあったが、しきたり通りに葬儀を執り行ったよ。ただ……途中で、アーシェが、な」 「……なにか、あったのか?」 「愛とは恐ろしいものだ。拘束を無理矢理解いて、火をつけた棺に向かって飛びついた。自分に火が燃え移るのも構わず、名前を叫んでいたよ。皆でなんとか引き剥がしたが……ようやく、ラビアが死んだことを理解できたのか、あとは心を無くしたように泣いているだけだった」 「……そう、か……」  リゼロンが深い溜息を漏らす。 「……あるいはアーシェも、長い時を経て心を得てしまったのかもしれぬな……」 「心、か」 「我々エルフは感情が薄い。それでも、無いわけではないからな……。長きに渡り「愛された」のなら、生まれるものもあるだろうよ。それがどんなに歪んでいたとしても……」 「……愛というのは、……いったい何なのだろうな、リゼロン……」  その言葉にリゼロンがゆっくりと眼を開く。そしてレオーネと視線を交えた。深い蒼にも翠にも見える輝きは穏やかだ。 「母は死の淵にあっても、俺のことを気にかけていた。俺をおいていくのが申し訳ないとな。苦しかったろうに、恨み言ではなく愛を綴っていた。そして、ラビア氏の愛は二人のエルフの心と記憶を壊してしまった。それが愛だったかはわからない、だがアーシェにとっては真実の愛だったんだろう。哀れなことだがな……」 「うむ……」 「それに、俺とお前だ」 「……そなたと、私?」  意外そうに首を傾げたリゼロンの頬に触れる。その透き通る肌の柔らかさが心地よい。煌めく金の髪が、細く優しい指先が撫でてくれるのが好きだった。ほのかに香る花の匂いは、在りし日の母のものにも似ていた。  そうだ。最初は、まるで母のように慕っていたのだと思う。やがてそれは胸の高鳴りへと変わり、劣情へと落ちていったけれど。今は、また少し変化を遂げている。 「お前の血を見た時、この世の終わりほどの絶望感を味わった。もう二度と、失いたくないと心の底から感じたよ。後はもうがむしゃらだった。馬を駆けさせて、カナンに説明もそこそこ、アーシェが籠っているというラビア氏の館に殴り込んで。……お前がまだ無事だったのを見て、どれほど安心して……そしてお前の涙を見て俺がどれだけ憤ったか……」  もう、あんな思いはさせたくない。今のレオーネに満ちているのはそんな感情だ。愛しい、大切な存在だと思い出した。己がやってしまったのは、取り返しがつかないことばかりだ。いくら懺悔しても変わりはしない真実に胸が痛む。それでもなお、愛しいと思うのだ。目の前の存在を。 「……守りたいと言ったのに、こんな目に合わせて、すまなかった」 「それは、……あの状況では、そなたには何もできなんだ。私がそなたから離れたのだ、そなたは何も悪くない」 「それでも、だ。約束を違えたのは俺も同じになってしまった。だから、……こんなことを言っても意味がないかもしれない、それでも言わせてほしい」  ぎゅ、とリゼロンの手を握った。その手首にはもう、傷跡ひとつ残ってはいない。それどころか全身のどこにも傷など無いだろう。しかしあそこでかつて、どれほどの非道を受けたのだろうか。心の傷はエルフと言えども癒せない。彼が、全てを忘れなければいけなかったほどには。  それを再び彼に降り掛からせてしまったのは自分だ。こんなことを言う資格は本来無いかもしれない。それでも、言わずにいられなかった。 「俺のそばにいてくれないか、リゼロン。今度は俺も森に着いていく、そばにいさせてくれ。そして俺に守らせてくれ……」 「…………」  リゼロンの瞳は迷うように揺れていた。だからその名を呼び、真っ直ぐ瞳を見据える。言葉が、その胸の奥にまで届くように。 「俺はリゼロンが好きだ」 「……レオーネ、」 「あの森でお前と過ごした時間を忘れた日なんてなかった。リゼロンにひどいことをしたのに、こんな話は通用しないとは思うが、俺はずっとずっとお前のことが好きだ。共にいたい。お前を……お前にもう、つらい思いはさせないと、誓う。だから……愛させてくれないか……」 「……っ、れ、レオーネ。ならぬ、ならぬぞ」  告白に、リゼロンは首を振り、上体を起こす。互いにベッドに座ったまま見つめ合うと、リゼロンのほうが先に目を逸らした。  その理由を、レオーネは既に知っている。 「そ、そなたは。そなたはフェルヴォーレ家の嫡男であり、その前にひとりの人の子だ。私のようなエルフの、それも男などにそのような感情は……。いや、そばにいたいと言うのなら私はそばにいよう、だがそれとその感情とは切り離して考えるべきだ。そう……そなたは、人のおなごを娶って子を成す、そうして血を繋ぐのが人の子の在りかた。私のような……何者ともつながりを持てぬエルフなどに、そのような感情、抱くべきではない。そうだ。そうだぞ、レオーネ」  彼は珍しく早口で、しかし何度も言葉を選ぶようにしながら言う。その動揺がなにに由来しているのか、もうわかっているのだ。だから、レオーネは囁く。 「……お前が俺を好いているのは、もう知っている」 「……! ま、……まさか、先日の、薬……」  リゼロンが青褪めて、己の口元に手をやる。それに静かに頷いてやれば、彼は「ああ」と嘆息し、それから首を振った。 「気にするでない、薬で我を失った者の妄言だ。忘れろ、そなたは正しく妻を娶るべきで――」 「リゼロン」  言葉を遮るように名を呼ぶと、その体がビクリと震える。そして目を合わせてくれないどころか、背中まで向けてしまった。しかしその、金の髪の隙間から除く尖った耳の先が、僅かに赤い。だからレオーネは続けた。 「お前が隠し通すつもりなのはわかった、だから俺も聞いていないことにしようと思った。リゼロンが俺のもとに戻って来てくれてから、ゆっくり時間をかけて関係を変えていけばいいと……そう考えていた。だが、……こんなことがあって初めて、そんな悠長なことは言っていられないと思った。お前の身にだって突然あんなことが起きたんだ。俺の身にだって、いつ何が起こるかわからない」 「縁起でもないことを、言うでない……」 「いいや、それは事実だ。だからもう待てないと思った。俺はお前を愛したい。お前が俺にそう思うように」 「レオーネ、それはならぬのだ。私はエルフの男で、そなたとの間に何も遺せぬ。そなたの未来が絶たれることなど、私は望んでおらぬのだ……」  そう漏らすリゼロンの声が震えている。だから、レオーネはその背にそっと手を置いた。撫でるようにすると、リゼロンが僅かにこちらを振り返る。見たことも無いほど不安げな表情をしていて、レオーネは思わず笑う。 「お前、そんな顔もできるんだな」 「お、愚か者。私はそなたのことを本気で案じておるのだぞ」 「俺だって本気だ、リゼロン」  後ろから抱きしめると、息を呑むのがわかる。しかしリゼロンはレオーネを振りほどきもせず、ただ抱きしめた腕に己の手を重ねた。 「すぐに返事をしろとは言わないし言えないが、俺が死ぬよりは前に応えてほしい」 「…………」  リゼロンは、しばらく何も答えなかった。「もう答えは言った」とでも告げればそれで終わりだろうに、彼は何も言わないのだ。それこそが応えのようなもので、レオーネはリゼロンを強く抱きしめる。 「……わかった……」  小さな返事があったのは、それからまたしばらく経ってからだった。

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