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第28話

 森は霧を失い、かつて見た景色を取り戻している。手を引くリゼロンの眼前に広がる木々は道を開け、レオーネが通り過ぎた後はまた寄り添い、深い森へと姿を変えていく。  かつて、この森へと初めて足を踏み入れた時と同じ光景に、レオーネは胸が苦しくなった。  十二年かかった。あの時とは全てが変わってしまったけれど、森とリゼロンの姿形ばかりがそのままだ。  久方ぶりに訪れた彼の家もあの日のままで、レオーネは今更ながら、全て夢なのではないかと思った。  本音を言えば、リゼロンを無理矢理攫った時点で、もう彼との関係は決定的に壊れてしまうと思っていたのだ。  真実を聞き出した後は、それがどんな理由であれ、森へと帰すつもりだった。そうすることで、自分とリゼロンの繋がりは永遠に絶たれる。一つの区切りがつき、ようやくレオーネは悲しみから解放される。そう、思っていたのだ。  現実は、レオーネが想像していたものとはずいぶん違う結末を迎えたのだけれど。今は、それでよかったように思う。リゼロンにも、母にも、カナンにも。また関わったすべての人に申し訳がたたないが、こうしてリゼロンと再びここに立てたことを、心から幸福に感じた。  家の中はリゼロンとアーシェがもみ合ったままの、荒れた状態ではあった。床にべっとりとついた血痕に眉を寄せる。これを見つけた時、どれほど肝が冷えたことか。  リゼロンはゆっくりとした動作で床に膝をつき、そこに手を乗せる。すると血はまるでリゼロンへと戻るように手のひらの下に集まって、手を離したときにはもう、血痕ひとつ残ってはいなかった。  今更、リゼロンの術に大きく驚きはしないけれど、やはり不思議ではある。とはいえ、なにをしたのかと尋ねても無意味だろう。「エルフというのはそういうものなのだ」で済ませるに違いない。  リゼロンがゆるりと立ち上がる。それから、呆然と家の入口につっ立っていたレオーネを振り返り、クスクス笑い始めた。「なんだ」と眉をひそめると、「いや」と彼は笑いながら首を横に振る。 「そうして入口に立っていると、あの頃のそなたを思い出してなあ。こんなに小さくて、丸い眼をいつも輝かせておったのだ」  そう言うと、リゼロンは自分の腰ほどの高さで宙を撫でる。それが意味するところを理解して、レオーネはますます眉間にしわを寄せた。心外だ。あの頃だって、もう少しは背が有った。  しかし、眼を輝かせていたというのには心当たりもある。レオーネはバツが悪くなって目を逸らした。 「よしてくれ、むずがゆい」 「ふふ、あの頃の子羊も愛らしかったが、今のそなたも愛いな」 「リゼロン」  それ以上からかってくれるな、と名を呼べば彼は笑いながらも頷いて、歩き始めた。かつて、レオーネが過ごしていた部屋へ。  そこは最後に訪れた時そのままだ。森に作らせたという家具は埃ひとつ被っておらず、まるで母の部屋だと感じた。時を置き去りにしているのだ。それはリゼロンがその部屋をどれだけ大切にしていたかに繋がる。レオーネはまたしても気恥ずかしくなった。  リゼロンは机の上に置いてあった鞄へ向かう。聞けば、レオーネのもとへと戻るため荷造りをしている最中に襲われたらしい。しかし、荷と言ってもその中身はかつてレオーネがリゼロンに贈った、つまらないものばかりのように思えた。  それがこの孤独なエルフには、何より大切なものだったのかもしれない。胸が、痛んだ。 「思い出は全て持って行こうと思うてな。この家に帰る必要もなくなった。ここは精霊たちにくれてやろう。あれらは人の造ったものが好きだから、この家も大切に扱うはずゆえ」  リゼロンはそう呟いてから、「レオーネ、近う」と呼んだ。何か有るのかと素直に近づくと、 「……っ、うわっ⁉」  ぐい、と腕を引かれて体のバランスを崩す。リゼロンが魔法でも使ったかのように、レオーネは軽くひっくり返されベッドへ倒れ込んだ。背中を打ち付けたように思ったけれど、不思議と痛みはない。ただ、思考が追い付かなかった。なにが起こっているのか、と瞬きをしているうちに、レオーネの身体へリゼロンが馬乗りになっているではないか。 「リゼロン、」 「ふふ、そなたには驚かされてばかりだったからな、仕返しだ」 「なに、……んんっ、リゼ、……んぅ、う」  状況を理解するより先に、リゼロンがレオーネの頬を手のひらで包む。その優しさに身動きを止めると、口付けが落とされた。まるで鳥が啄むように軽く触れては離れるそれは、次第に熱さを増していく。ちろり、と舌先が唇のあわいを撫でてくる。意味することを理解してレオーネは口を開き、リゼロンの舌を迎え入れた。  拙いキスは、彼がそうしたことに無縁だった証でもある。そしてリゼロンの方から求めてきたことが、なんとも言えず愛おしい。レオーネはしばらくリゼロンのしたいようにさせた。  ちゅ、と音を立てて唇が離れた頃には、リゼロンは頬を染め、軽く息を乱れさせていた。 「リゼロン……?」  声をかけると、彼はらしくもなく視線を泳がせて、呟く。 「私もな、考えたのだ。もし今生の別れが今すぐ訪れたとして、そなたに何も告げぬままで納得できるのかと……」 「…………」 「……そなたは人の子だ。私と違って永遠に生きる者ではない。だから血を残さねばならぬ。その為にも、私はそなたとこのようなことをするべきではない……。頭ではわかっているのだ。しかし……」  リゼロンは目を伏せ、小さな声で想いを吐き出す。 「そなたとの永遠の別れは必ず訪れる。そのとき私は、後悔しないのか。そなたへの想いをひた隠し、戒め、耐え続けた先に私の幸福はあるのか、と」 「リゼロン……」  名を呼ぶと、リゼロンはようやく視線を合わせてくれた。青とも翠ともつかない、深い色の瞳が揺れている。そして彼はのろりとレオーネの頬に触れた。愛しい子どもにそうするような、優しい手つき。 「レオーネ。もしこの先そなたに、愛する女性が現れたとしたら、私など捨ててよい」 「そんなこと、あるわけ――」 「最後まで聞いてくれ。人は死に、その生は短い。時の流れは心身を変える、それこそが不死ではないということ。それゆえ、そなたが望むと望むまいと、変わってしまうこともあるというだけだ」 「リゼロン……」  そう言われてしまえば、否定のしようもない。レオーネはリゼロンに好意を抱き、それを憎しみに変えた。そして今は、彼に愛を伝えようとしている。また変わらないと断言することはできなかった。  しかし、リゼロンはそれを責めているでもなく、憂いているわけでもない。変わっていくことを事実として受け入れている。時とはそういうもの。人の心も状況も刻々と変化して、約束は本人の意思に関わらず、守れなくなることもある。 「その上で、問いたい」  リゼロンはその手のひらで優しくレオーネの頬を包み込み、ためらいがちに囁いた。 「……そなたを、……愛させてはくれぬか……?」 「……!」  その言葉の甘さといったら。あの気高いリゼロンから発せられる、不安げな問い。まるで断られることを恐れるような、その小さな声が胸の奥にまで届くようだ。  どうして断れよう。そのような、甘い頼みを。 「そなたがそれを望み、応えられる限り。私に、愛させてくれぬか。エルフと人としてではなく、おとなと子としてでもなく、こうした形で……」  ちゅ、と再び口付けが落とされる。それは優しく唇を噛んで、すぐに離れた。 「……そなたを想うて涙した夜は、数え切れぬ。恥ずかしいことだが、孤独な森の闇が包む身に、そなたの笑顔は眩しすぎた。そなたのそばにいたかったのに、あの時の私はどうしてもそれが選べなかった」 「リゼロン……」 「だがな、もう知らぬ頃には戻れない。離れて、あるいは共に暮らしながらこの気持ちを偽っている間に、そなたが物言わぬ屍にでもなってみろ。私はこの永い生涯、悔い続けるであろうよ」 「……いいのか。俺を失って、お前もアーシェのように――」  胸を潰すほどの悲しみに、壊れてはしまわないか。それほどまで想っている相手を、失っては。  レオーネは気がかりだったが、リゼロンは苦笑して首を振る。 「……私は、そなたといずれ別れがくると知っておる。あの者のようにはならぬよ。その時がくるからこそ、大切にせねばならぬ、そうだろう? ……それゆえに、今そなたに伝えねばならぬ。別れがいつになるのかなど、精霊でさえ知らぬのだから――」  リゼロンの瞳が、レオーネを見つめる。その蒼には今、ひとりしか映っていない。きっと彼が、深く恋焦がれ愛した、人の子だけ。  出会ってしまったから。何もかもが変わってしまったのだ、このエルフの、全てが。そう考えると哀れなような、愛おしいような。胸の痛みは熱く、その身を今すぐ抱きしめてやりたいと思う。そんなレオーネに、リゼロンは長い時間をかけて、囁いた。 「……そなたを、愛しておる。ずっとずっと、以前から……」  受け入れて、くれるだろうか。不安げに震える声。レオーネはたまらず、彼を抱きしめた。あ、とリゼロンが声を漏らしているが、構わずはっきりと伝えた。 「リゼロン。俺も、お前を、愛する……!」  額に、髪に、こめかみに、頬に。口付け、愛しながらレオーネは囁いた。 「今度こそ守って、幸せにする。……リゼロンの言葉を借りるなら、俺がそれを望み、それができる限りは……!」

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