4 / 7
第4話
お勤めを負えたばかりで余り考えすぎるのも、良いとは言えない。「服はいらない? 近くのモールへ寄るけど」との提案を謹んで固辞し、ホテルへ戻ってからもぼんやり時間を潰す。幸いこんな時にふさわしく、テレビで掛かっていたのはジェイソン・ステイサムのアクション映画だった。
その間ヤゴがフランクから離れるときと言えば、小便と電話を掛ける時くらいのもの。監視対象から片時も目を離そうとしなかった。この男がこんなにも職務熱心だとは、いささか予想外だった。或いは単に、慣れていないだけなのかもしれないが。
「今日中の配達は無理だそうだ」
何回目かの連絡から戻って来ざま、嘆きも露わに報告した彼の目は、血と汗にまみれたステイサムの顔に注がれる。熱い日なたへわざわざ出て行くせいか。背中の中央に浮くまだらの染みから、酸く甘い匂いがふわっと漂う。汗と、制汗剤か何かが混ざった爽やかな悪臭。
「明日には必ず。金曜日には間に合わせるよ、それは保証する」
そのままフランクが寝そべるベッドの傍らへ腰を下ろし、一緒になって見入り始める。その時点で嫌な予感はしていたのだが、案の定彼は持ち帰りの中華料理を平らげた後も、暇する気配を一向に見せなかった。
「心配しなくても、行方をくらましたりしない」
「信じるよ」
虫の糞でも見つけたのか、カウチの座面を丁寧に払ってから、ヤゴは予備のシーツを被った。
「ただ、親父やお袋も、俺が家に帰ってこない方が有り難がるんだ。大丈夫、鼾はかかないから」
鼾の代わりに、彼は寝返りをよく打つ。よくもあれだけくるくる体勢を変えて、シーツが首に絡みつかないものだといっそ感嘆する。リネンは視線を向けるたびに違った皺の模様を刻んでいた。角が立つほど泡立てられたクリーム、死んで身を丸める干からびた芋虫、雨に打たれて破れた保釈金融業者のチラシ。身じろぐたび、深い寝息が緩やかなピッチで苦しげな呻きに変わる。明かりを消してから既に2度カウチから落下し、そのたび恨みがましく唸りながら這い上がった。
落ち着いて眠ろうと試みたが、実現にはほど遠い。
音楽はまだ聞こえてくる。加えて、夜になれば巣穴から這い出してくる獣よろしく、昼間よりもハイになった連中が駐車場ではしゃいでいた。ヴィン・ディーゼルにでもなったつもりなのか、奇声の合間を埋めるようにして鋭いブレーキと急加速するエンジン音が繰り返される。
何とも尻の据わりの悪い一日だった。最初これは、出所したばかりで興奮している脳が、物事を過敏に捉えすぎているだけかと思った。だが垢の匂いがどうしても取れない枕に頭を預け、天井を見上げていれば、むしろ疑惑は確信に変わる。
結局、5年前と変わらない。カマルゴやコルタサルが指し示す方向へ走る生活。例え自らの意志でスタンバスを殺ったとしても「殺させて貰った」と口にするよう強要され、舌の根も乾かないうちにまた新たな命令が寄越される。
いっそのこと、刑務所にいたときの方が、遙かに自己決定権を有していたのではないか。少なくともファロン・パレスの始末をしたときは、何もかも自分で采配した。ベンチプレスへ励むパレスの周りへ一人20ドルで雇った男を5人立たせる。歩み寄りざま、奴があっという間も無く、あらかじめ緩めてあったバーベルラックのボルトを引き抜く。あとは顎にぶつかってから喉元へと転がった、320ポンドのプレートがついたバーを、文字通りただ押さえるだけでよかった。飛び出した眼球を真っ直ぐ見つめながら、まるで男を介護しているかのように、そっと。アディダスのスニーカーを履いた足が水を蹴るような動きを作ったのへ、一瞬だけ横目を這わしながら。
打てる限りの手を打って臨んだ仕事だったが、正直なところ、フランクはあの時覚悟を決めていた。例え刺し違えることになっても、パレスの息の根を止める。スタンバスに関しては、どちらにせよカマルゴが片を付けるだろう。あいつは昔から組織の人間に嫌われていた。デイヴ・ジョンソンの従妹をクラック漬けにして流産させたのは彼であることに疑問の余地はない。人間の屑なるページをウィキペディアへ作る必要に駆られたら、間違いなく奴のマグショットは使用されるだろう。
そうやって、懸命に気を奮い立たせている。なのにどうして、こうもだらけたような空気が、辺りを支配しているのか。
足下でまたがさつな衣擦れと共に、息苦しげな唸りが上がる。更には、どすんと重たい地響きも。
床へと転がり落ちたシーツの塊から、やっとのことで水面に顔を出した遭難者を思わせる、狂った抑揚の呟きが漏れる。
「やめろ、くそったれ」
それからヤゴは、ぬっと体を起こした。薄いカーテン越しに通り過ぎるヘッドライトが、眦の裂けるほど見開かれた瞳をぎらつかせる。先ほどの罵声が寝言なのだと、フランクは即座に気が付いた。
マットレスに片肘を突き、様子を窺っていたフランクへ、ヤゴが向き直るまで数十秒。いかっていた肩がすとんと落ち、同時に弛緩した口元が決まり悪げな笑みを象る。
「悪い。さっき食ったチキンが消化不良を起こしたのかも」
その時フランクの胸に広がったのは、チキンとカシューナッツの炒め物が作るおくびではなかった。これは罪悪感と呼ばれるものだ。我に返るとと言うのか、ある日不意に顔を出す、これまで誇りすら抱いて犯した罪に対する後ろめたさ。夕飯で何も考えずに口へ運んだ食い物が、いきなり胸焼けを起こすのと同じだ。
フランクが寝返りを打ち、壁際の半分に招き入れる空間を作っても、ヤゴはきょとんと目を瞬かせるだけだった。シーツを捲る段になって、慌てて「そんな気を遣わないでくれ」と手を振る。
「いいから。一々カウチから落下されたら、安眠妨害だ」
少し考えてから「襲ったりしない」と言い足しさえする。結局ヤゴは、シーツをお化けのように体へ羽織ったまま、ベッドへと上ってきた。
中心へと向かって傾斜するマットレスは、気を抜くとお互いの体を奈落へと転がり落とさせる。フランクがマットレスから膝を突き出しているように、ヤゴもこちらへ背を向け、身を縮めていた。
「君は親切な男だな」
ほんの一瞬、肩越しに振り返った時、ヤゴは嘆きの壁へ向かうように額をモルタルに押し当て項垂れていた。声だけはやたらと平静で、外の歓声の合間を縫い蒸し暑い静寂に響く。
「親切すぎる位だ。何も聞かないし」
「聞いて欲しいのか」
壁を舐めるライトと、そこを避けるように這うアブラムシを見上げ、フランクは答えた。これで終わりにしろ、眠らせてくれ――恐らくもうしばらくは意識を失えないとしても、せめて一人にしてくれ、そう言外に含めたつもりだった。けれどお喋りは続く。身じろぎと共に、ヤゴの纏うシーツの端が、足の甲を拭うように撫でる。
「君は男もいけるって知ってたんだ。何度かマーヴィン・ワコスキに口でするのと引き替えでクラックをやってたって聞いたから。それに、刑務所でも愛人がいたって」
「あのな、勘違いしないで欲しいんだが」
今すぐこいつをベッドから蹴り出すべきかと考えたものの、結局憤りはすぐに萎える。クラックとは言わないが、せめてマリファナでも一服したいと、心から思い、またうんざりする。これが駄目なのだ、無気力とか、そこへ向かおうとする逃避行動という奴が。
「つまり……あんた、自意識過剰だな。世間はあんたが思うほど、他人に興味を持っちゃいないよ。どうでもいいんだ。あんたがオカマだろうが、実は正体が足のたくさん生えた火星人だろうが」
最後の言葉で、ヤゴは間違いなく吹き出した。
「君のその態度って、自分について徹底的に無関心なのか、物凄く確たる精神的基盤があるのか、どっちなんだろう」
「どっちでもいい。好きに解釈してくれ」
「男でも、女でも」
「穴はそんなに変わらないさ。特に口の中なんか」
また窓の外をヘッドライトが走り抜け、アブラムシが逃げる。いっそ明かりを付けた方がいいのだろう。このままだと、眠っているときにあのぎとぎとした虫が顔を横切り、口の中へ潜り込んでこないとも限らない。
そして頭上にある読書灯のスイッチを捻ると、必然的に背後の存在を一層意識することになる。それは良くない。本当に彼をベッドから追い出したくなるかもしれない。或いは、別にこの距離が、そこまでうんざりするものでもないと気付いてしまうかも。
「君の強さを尊敬するよ」
身じろぎに合わせ、ヤゴの声がくっきりとなる。少なくとも仰向けにはなったらしい。彼の熱が近付いたと感じるのは、神経質な思い込みなのだろうか。
「俺は未だに自分を認められない。汚い物へするような態度を取られても、家族に怒ることすら出来ない。彼らにとっちゃ、俺は責任を果たしていない、男のなり損ないなんだそうだ……それだけ言われても、連中に期待されるとほっとするんだからな。君、両親は」
「お袋は死んだ。親父はボケて救貧院行き」
「お気の毒に」
思わずフランクは鼻を鳴らした。
「顔も知らない相手が気の毒だって? 天罰さ。あの男にはどれだけ殴られたことか」
「うーん、君がって意味だったんだ。天涯孤独だろ。ボケてちゃ仲直りも出来ないし」
「何で仲直りしなくちゃならない」
いい加減、面倒な段階に差し掛かっている。こんな精神分析か禅問答みたいな段階に陥るなんて、フランクは全く望んでいなかった。会って半日しか経っていない男との打ち明けっこ。だから自意識過剰な男は嫌だと言うのだ。しかも指摘された暁に、治すどころか誇ろうとするような奴は。
「あいつに親孝行するなら、それは枕を顔に押しつけるってことだね。血が繋がってるからって、相手を憎んじゃいけない法はない。あんただって、嫌われてるなら自分も嫌い返せばいい、それだけの話だろう」
今日一日で、ムショに居たときの一週間分は軽々とお喋りしてしまいそうだ。全く調子が狂う。へたりポマードの臭いがきつい枕を頭へ当て直し、フランクは自らの耳を塞いだ。
「それに、一人の何が悪い」
拒絶せずとも、ヤゴはそれ以上のお喋りを続行する気配を見せなかった。ぽつりと漏らされたのは、あくまで独り言だろう。
「でも、寂しいよ」
彼の口調はひどく意気消沈したものだったので、駐車場の奇声へ簡単に浸食される。この部屋の中は、穏やかものしか存在していない。
では、こんな鈍く乱暴な、物を叩くような音を立てているのは一体誰なのだろう。
ヤゴは人の気配ではなく、機敏に跳ね起きた隣の男に反応する。開きかけた彼の口を、フランクは咄嗟に手で塞ぎ、抱き込むように身を伏せた。
「自前の銃は持ってるか。ナイフは」
潜めた声へ首が横に振られるのを、掌で感じ取る。敷き込んだ身体は一瞬でかっと体温を上げ、冷たい汗を掃いた。
「バスルームの窓だ。下のジャンキーがふざけてるだけかもしれない。様子を見てくるから……」
皆まで言う前に、頷きが返される。鼻先へ触れそうな位置にあるこめかみから、ひときわ濃い汗の臭いが立ち上った。くらくら来るような欲情が、冷たい激情にすり変わる。
そろそろと足を下ろしざま暗闇の中で見回しても、武器になるものは皆無だった。ショッピングモールへ寄って、せめて剃刀くらい買い込んでおけば良かったと今更後悔する。
安全刃の代わりになるものと言えば、中華料理屋で買ってきた缶ビールを、引き剥がした枕カバーに詰めたものだけだった。皺だらけの布袋をぶらぶらとぶら下げながら、下着一枚の格好で忍び寄ることの、何と間抜けで心細いことか。
前者の状態へ身を置くことは辛うじて諦めもつく。しかし後者は、フランクの憤怒へくべる、新たな薪となった。
バスルームへと続く扉はそうっと、出来るだけさりげなく開いた。待っても良かったのだが、そうなると身を縮こまらせているヤゴが蜂の巣になる。相手へ開けさせる位なら、いっそ自ら飛び込む方が、よっぽどダメージも少ない。
そいつは既に、張られた金網を破き終えていた。斑に汚れたガラスの向こうに見えるものが、赤とグレーであることだけは分かる。カッターが立てるきりきりと言う音が、神経を引っ掻く。
便器の傍らにあるその窓は、痩せ細ったヘロイン中毒のクズなら辛うじて出入り出来る広さだった。なるほど、こっそり忍び込むにはうってつけに違いない。
そんな姑息な真似をせずとも、歓迎してやるのに。
淀みない足取りで歩み寄る人影に、相手は間違いなく気付き、動きを止めた。間髪入れずに手の中の袋を振り回し、ガラスを叩き割る。破片をまともに浴びたそいつは、豚みたいな悲鳴を上げた。
逃げる隙を与えず腕を掴み、中へと引きずり入れる。よくもこの経路を用いようとしたものだろ感心する程にはデブと言っても差し支えのないガキ。便器に片足を突っ込み踏ん張ることで、右腕と上半身はお招きすることが出来た。
もう何発か、遠心力を付けたビール缶で殴りつけた後、床へ落ちていた一番大きな破片を枕カバーでくるみ拾い上げる。
「左手をゆっくり出せ」
首筋へ突きつけられた鋭い切り口が皮膚を裂いたにも関わらず、男は何の反応も見せない。フランクは自らが作った微かな窪みとじわじわ滲み出る血、そして絡み張りつく縮れ毛を見下ろした。だらりと垂れ下がった手が時折痙攣し、壁を叩いている。何だか小馬鹿にされているような気分になった。
明かりを付け、顔をあらためる。どこかで見たことのある奴なのは間違いがなかった。もう一踏ん張りで中へ引きずり込んだ尻を探り、ジーンズのポケットへ手を突っ込めば、グロックのコピーガンと財布、そして免許証が出てくる――偽造品ではないと、名前を見てすぐに理解した。
この騒ぎの間、ヤゴは逃げも隠れもせず、ただベッドの上で座り込んでいただけだった。つくねんと、ひたすら無防備に。まるでどうしようもないほどツキに見放された、綺麗な落ちぶれ女のようだった。
「パレスの従兄弟だ、弟かもしれん」
「そんな」
バスルームから戻ってきたフランクへ突き刺す視線からは、感情がすっぽりと抜け落ちている。シーツからはみ出した、がっしりと頑丈な左脚が、きしるような音を立てマットレスを滑った。
「パレスって……君が刑務所でトラブルを起こした? 報復か」
「思ったよりも早かった。ここはヤバい、出るぞ」
ヤゴはよりによって、部屋を出て廊下を突っ切っているとき尋ねた。
「殺したのか」
フランクは答えなかった。彼が再び口を開いたのは、フォードへ乗り込んでからのことだった。相手がハンドルへ掌を乗せるや否や、真横からコピーガンを突きつける。
「デミアン・カマルゴはあんたに何を命じた。あのクソガキの復讐へ手を貸せってか」
「違う、違う!」
上擦る叫びの破裂が耳をつんざく。この期に及んで、ヤゴは憤慨すらしているようだった。顔色は紙のようだったが、睨みつける目はまるで覇気を失っておらず、ぎらぎらと油を塗ったような輝きを帯びている。
「そんなこと……! 俺はただ、金曜日まであんたの面倒を見ろと。大体、殺し屋が派遣されるって知ってたら、同じベッドで寝たりしない」
説得力にも関わらず、スマートフォンを取り出した時も、フランクはまだ銃口を下げようとはしなかった。呼び出した電話番号へ繋がるまでは、かなりの時間を要する。
「何だってんだ、今何時だと思ってやがる……」
「馬鹿が邪魔しに来て眠れん。パレスの兄弟が銃を持って部屋へ押し入ろうとしてきた」
カマルゴの絶句へ、注意深く耳を傾ける。そこにあからさまな嘘は見いだせない。確かに奴はズルして騙して盗み取れを座右の銘にしているが、それを発揮するときは、やたらと多弁になる。
「なぜ居場所がばれた」
「こっちが聞きたい。あんた、誰かに話したりしてないだろうな」
「してるかよ! ったく……くたばったのか」
「伸びてるだけだと思う」
「じゃあ勝手にどこへでも消えるわな。ヤゴはいるか」
フランクはスマートフォンをタップしてスピーカーモードにしてから、ヤゴに手渡した。
「ホテルを移動します。また落ち着いたら連絡を……」
「今フランクは聞いてないだろうな」
少しの逡巡の後、ヤゴは唇を舐めた。「大丈夫です」
「なら良いんだけどな。何でちゃんと確認しない。フランクがくたばっちまったら、お前、金も何もおじゃんだろうが。あのケチなアーロンには黙っててやるけどな。そうしないと散々値切って……」
「でもこんなことになるなんて聞いてない」
「俺達ゃサンダーバードを一日300ドルで貸してるんじゃないぜ。とにかく、あいつはキレたら面倒なんだ。しっかり見張っとけ」
開きかけた唇は、更に言い募る気満々だった。けれど通話は一方的に終了される。スマートフォンをフランクの膝へ投げつけると、ヤゴは踏んでいたブレーキペダルを力任せに解除した。
「これで気が済んだか」
とんでもない、と怒鳴りつけるのはガキじみているし、かと言って心の底から納得したわけでもない。何も知らずに外で騒ぐ、パレスの弟と同い年くらいのガキどもが、怒りを一足飛びで煽る。今すぐ手にしている拳銃で一人残らず撃ち殺してやりたかった。それを実行しても、ヤゴは今の表情を崩さないだろう。憤慨と軽蔑が入り交じった、どちらかと言えば泥臭いような顔立ちに似合わない、高慢ちきな表情。最初から気にくわなかった。まるで前科者など、社会のお荷物としか思っていないようなこの目つきが。
だからフランクは、ひびわれだらけのアスファルトから道路へと車が抜け出すまで、突きつけた拳銃を下ろすつもりなどさらさらなかった。例え一晩中引き金へ指をかけたままでも、ヤゴは態度を改めなかっただろう。すなわち、ふてくされた顔で正面を睨んだまま、車をどこまでも走らせる。
面倒なのはどちらだ。内心フランクは、舌を巻いていた。
ともだちにシェアしよう!

