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第5話

 車はフェニックスへ尻を向け、アグア・フリア川を越える。ルーク空軍基地近くの住宅街にある24時間営業のコインランドリーで、耳や顔をピアスホールで穴だらけにしたアルバイトは、建前の洗濯物すらない2人を追い出そうとしたので、鞄からフランクの服を引っ張り出して洗濯機に突っ込む。収監されるときに身につけていたそれは、ろくに汚れていなかったのだが。 「やっぱり、その服は買い換えた方がいいな」  錆びた縦型ドラムの中で回るジーンズとシャツを眺めながら、ヤゴは言った。それがその夜、彼の発した殆ど最後の言葉になった。後はベンチに腰を下ろし、缶入りのルートビアを啜っている。肩は今にもフランクの腕へ触れそうなほど。恐ろしい夢の残滓が忘れられず、兄へ寄り添う弟のように。  彼にとって、現実がカウチで見ていたもの以上の悪夢と化していることは間違いなかった。  翌朝近くのマクドナルドへ入ったときも、ヤゴのお喋りは休止されたままだった。デニムのポケットで震えるスマートフォンを引っ張り出し、張りつめた顔を微かに顰める。「彼はここにいるよ、今代わる」まだカマルゴが話しているうちに、機械は差し出された。 「ヤゴの奴、やたらめったら、くたびれた声してやがるぜ」 「一晩中寝てないからだろう」 「ふうん。ま、元々はレンタカー会社にいたらしいからな。副支店長様だってよ……こんなことは、刺激が強すぎるって訳だ」  目の端へ捉えている男に、アイロンをかけたシャツやネクタイ、プラスチックの名札を結びつけることは、そう難しいことではない。スマッシング・パンプキンズなんか聞いている男だし……昨日よりも一層よれたTシャツの下で、なだらかな輪郭を描く胸元に、先ほどから彼が集中して口へ運んでいる萎びたポテトの欠片がくっついている。フランクの凝視へ、すぐさまヤゴはその焦げて堅い屑を払いのけた。 「パレスの従弟にはな、俺がよーく言って聞かせるよ。ま、どうせメスでラリった挙げ句のノリと勢いで決行したんだろう」  ラジオならば、もっと昼間の眠い時間に流れる番組のDJが放つような、不適切に軽い抑揚だった。フランクの表情がどんどんしんねりとしたものに変わっていくのを、ヤゴは注意深く見守っていた。 「でもな、フランク。考えてみれば、お前だってあいつと変わらない無茶をしでかした訳だろ。パレスが中でやられたって聞いたとき、俺がどんな気持ちになったか……」 「パレスはクソだった」 「ああ、ああ、知ってるよ。でもあいつは俺が面倒を見てた。それに、大勢いる奴の従兄弟どももな」  次に来る言葉は大まかに予想できていたが、カマルゴはことさら勿体ぶってみせる。フランクが手をつけられていないハンバーガーへかぶりつき、半分ほど平らげる間、「何やってんだ、それはあっちへ運ぶんだ、この間抜け」などと、周囲へこれ見よがしに指示を飛ばしたりして。 「さてと。最近はどいつもこいつも間抜けばかりだな。ところでお前、明日使うものはまだ手に入れてないんだろ」 「昨日パレスの従弟が持ってきた」 「そんな怪しいもん使うんじゃねえよ。ヤゴに聞いただろ、ラッセル・ビーデンに用意させるって。でもあいつ、反故にしかねないぜ。これまでにもあっちこっちのを踏み倒してる。ヘロの打ち過ぎで、もう自分の一物がどこについてるのかも覚えてやがらねえのよ」  ヤゴは今や、こちらへ意識を傾けているのを隠さなくなっていた。コーラの紙カップの下へ溜まった水たまりを使い、文字を描くように、人差し指がくねっている。何かメッセージを伝えようとしているのかと思ったが、さっぱり読みとれない。 「だから、あいつのところから、ありったけのものを持ってきても、気付きもしねえ。皆が喜ぶだけさ……大丈夫だって。あいつが度胸のないたちだってことはお前も知ってるだろう。何ならちょっと言い聞かせれば、荷物を車へ積み込むのを手伝ってくれる。不死身のお前相手なら訳なく」  奴が舌打ちをして見せた相手は、フランクではないのだろう。潜められた声はやはり気軽でいけしゃあしゃあと、それでいて媚びにまみれている。 「それに、な、いざとなればお前、パレスの従弟から奪ったもんを持ってるわけだし」  市内へと戻る道すがら、ヤゴはずっと浮かない表情を崩さなかった。 「とんでもないことになった」 「あんたは車の中で待ってろ」 「言われなくてもそうする。それに、例え穏やかに進んだとしても、トランクへ銃を満載したまま市内を走り回るなんてごめんだぞ」 「すぐにデミアンへ引き渡すさ」 「どうして彼の言うことを聞くんだ。今持ってるものがあれば十分だろう」  グレンデールの南端、ベサニー・ホーム・ロードのテラスハウスまで辿り着いたとき、とうとうヤゴはフランクに向き直った。敷地と公道を区切るスターパインの影に停められた車中、彼の顔は赤黒く見えるほど血が上っている。 「あんたも一人前の男なら、自分の意志を貫けば良いじゃないか。誰かの使い走りなんて馬鹿らしい」  本当は腹を立てるべきなのだろう。けれどフランクは、突如この男が、酷く哀れに思えた。何せこれでも本人は、自らが理路整然とした説得を試みているつもりなのだ。  だからエンジンを切ってからも少しぐずついていたのは、後込みしたからでは断じてない。ジーンズのベルトラインから引き抜いたグロックをこれ見よがしに確認し、わざと通りへ視線を這わせたり、時間が経てば経つほどヤゴは焦れる。子犬の前で生肉を振り回してやるようなものだ。いざ食わせたところで腹を壊すと知りながら、ちぎれんばかりに振られる小さな尻尾と、きらきら輝くビーズのような目をじっと見つめてしまう。  ヤゴはハンドルを指で叩き、顎の骨がくっきり浮くほど奥歯を噛みしめる。終いには、「まだ仮釈放なんだろう」なんて抜かす始末だった。 「君のことが心配だよ」  それは出所してからフランクが耳にした中で、一番たわけた台詞だった。だからこそ威勢良くドアを叩き閉じ、足を踏み出すことができる。こんなにも愉快になり、なおかつ腹を立てたのは、数年ぶりのことだった。笑みすら浮かべてしまうほどだったから、うっかり彼に言ってのけるのを忘れてしまった。「俺はやれるんだぞ」。  ビーデンとはまんざら知らない仲でもない。カマルゴやコルタサルの銃の入手先の一人、というか、保管先の一つ。主な入手先は引退したブーマー達で、年金の足しにと500ドル渡せば、連中は喜んでウォルマートへのおつかいに赴く。おかげで家の地下室には近所の人間が全員同時に拳銃自殺してもお釣りが出そうな量の銃火器が、合法に保管されていた。幸い同居している母親は足が悪いため、階下を覗くことは出来ない。  それも5年前の話だから、もしかしたらあの姦しい婆さんはくたばっているのかもしれない。そうフランクが思ったのは、家の裏庭を潰して建てられたガレージの隅に、埃を被った4点歩行器が置いてあるのを目にしたからだ。同じくらい手入れのされていないニッサンへ追いやられるようにして。  先ほどあれだけチャイムを連打し、玄関の扉を叩いたところで、家の中からはことりとも物音が聞こえてこなかった。注射針でめろめろになり、伸びているのかもしれない。雑然としたガレージから繋がる裏口は、鍵が掛かっていなかった。  周囲の期待に添うことなく、フランクは室内へ足を踏み入れた時点で、拳銃を右手にぶら下げていた。キッチン兼ダイニングは無人、べこべこにへこんだシンクには指三本分ほどの高さまで汚水が溜まり、干からびた蚊の卵がこびりついている。テーブルの上に残った安物バーボンの瓶とシリアルボウルは、たった今まで食事をしていたような状態で放置されていた。  同じように居間も、寝室はクローゼットの中やベッドの下まで確認した。どこもかしこももぬけの殻だった。聞こえてくる音は、全て自らのブーツを起因とする。こつこつと微かな足音。そして尖った爪先が、床一面へ散らばるゴミと脱ぎ捨てられた服を踏みつけたり蹴飛ばしたりする音。時折外の通りを走り抜けるバイクのエンジンと、吠えかかる犬の声が、殺風景な部屋をすうっと通り抜ける。  留守であるという可能性は考えなかった。結局廊下まで戻り、一際絨毯の擦り切れが激しい地下室のドア前で立ち止まる。  白い清潔な砂を思わせる壁紙は、ろくに拭き掃除もされていないのだろう。背中を押しつけると、シャツへ滲んだ汗に、油っぽい汚れがねとりと張り付きそうだった。真鍮の剥げかけたドアノブは回すときがたついたが、すぐさま金属の噛み合う音がして、ささくれた扉が開く。  地下室は明かりが灯されているようだった。蛍光灯の電子的な光が、階段のコンクリート壁をぼんやりと輝かせている。 「ラッセル」  呼びかけは最後まで口にするより早く、銃声にかき消された。見当違いの場所に当たったのか、弾痕は見える範囲で確認できなかった。 「落ち着け、デミアン・カマルゴの遣いで来た」 「知るか、出てけ! デミアンめ、あのクソ野郎……」  その後は不明瞭な呟きがむにゃむにゃと響いてくる。奴が錯乱していることは間違いなかった。薬か、それとも恐怖のせいかは分からないが。壁に背中を押しつけたまま、フランクは手にしていた銃を改めてて握りなおした。 「いいから上がってこい。取引が終わったら出て行く」 「ここは俺の家なんだからお前が降りてこい」 「分かった、撃つなよ。それ以上の銃声が聞こえたら、俺の相棒が飛んでくる。それに、近所の人間がうっかりサツに通報するかもしれん」  サツや通報という単語で少しは我に返ったらしい。「分かった」と僅かに震え、反響しながら吹き上がってくる声は、幾らか落ち着きを取り戻していた。少し考えてから、フランクは拳銃を背後のベルトラインへと押し込んだ。  相手を出来る限り刺激しないよう、一歩ずつしっかりとした足音を響かせて現れたことで、安心は更に深まったのだろう。古びた二層式洗濯機の影から頭を突き出したビーデンは、ほっと息をついて突きつけていた銃口を下ろした。 「なんだ、フランクお前、いつ出てきやがった」 「昨日。デミアンか、それともヤゴ・メディナのどちらからか連絡を受けてるだろう。拳銃を引き渡せって」 「娑婆に出て早々物騒な奴だな。コンビニでも叩くのかよ」  立ち上がるときのふらつきは、やはり薬のせいなのだろう。天井近くへ取り付けられた窓から射し込む光に、短い赤毛が燃えるかの如く揺らいで見える。 「ヤゴは来てないのか。ちぇっ、今度こそ女を紹介しろって言ってたのに。それともお前もしゃぶって貰ったクチか」  鳥の巣を思わせる緩衝材が剥き出しになった壁面の中、一区画にだけ取り付けられた壁へ、引きずるような足音が近づいていく。最上段は液体洗剤の巨大なボトルや柔軟剤。下から2段目と3段目には、ジップロックに納められた拳銃が、今にも洗濯槽へ転がり落ちそうなほど詰め込んである。 「えーと、ヤゴ、ヤゴ・イリバルネ……ほい、これだ」  奴が取り上げたケル・テックの自動拳銃は、大判の袋のせいで輝いて見えるだけで、実際のところポリマー製のグリップはどうにも安っぽい。フランクの表情を窺っていたビーデンは、すぐさま媚びるような笑みを浮かべ、傍らに積んであったキャリーケースを手で叩いた。この傷だらけのカーボンの中に、商売道具を詰め込んであるのだ。 「またあのホモ野郎の注文だし、今回も女みたいな銃でいいと……あんたが使うって知ってたら、もっとデカいのを用意したぜ。何なら交換するか。つい最近、スプリングフィールドの横流し品を仕入れたんだよ」 「いや、これで十分だ」  黄ばんだ歯がまだ笑みの形を作る口元から覗いている内に、フランクは袋から中身を取り出した。弾倉は既に装填されているから、後は遊底をスライドさせるだけでいい。 「デミアンからの連絡は聞いてるか」 「いや」 「ここに保管してある武器は、今後奴の責任で管理をするそうだ。俺が運んでやるよ」 「一体何言って……」 「言わせるな、ラッセル」  かちんと固い響きが蒸した空気に響く。向けられた銃口に、奴はそれ以上の言葉を失った。細長い首から突き出した喉仏が、大仰な動きで上下する。  こんな3流のギャング映画じみた展開に陥るのは全く不本意だった。かといって、これ以外の方法を思いついた訳でも、そもそも最初から考えてみようとした訳でもない。 「お前に恨みはないが、しくじったんだろ。デミアンは神経質だからな」 「ふざけんな、お前が何を知ってるってんだ」  地団駄を踏む動きにつれ、汚れたエアジョーダンの靴底が細かい埃を巻き上げる。 「あいつは独り占めするつもりさ。俺が手広く商売をしてるのが気に食わねえのよ。利口者が気に食わねえんだ。気に入ってるのは、お前みたいな阿呆の鉄砲玉さ」  そうかも知れない、とフランクは素直に認めた。けれど、今この場で、今すぐに相手の身体へ鉛玉を叩き込めるのは自らだけだ。その末端にやたらとデカい回転式拳銃を力なくぶら下げたビーデンの右手が、ぴくりとでも動こうものなら、即座に引き金を絞るつもりだった。 「お前を殺ろうって訳じゃない。武器が入ってるのはそれと、あそこに積んであるキャリーバッグもだな。こいつらと、あの棚に置いてある分を手に入れたら、俺はもう二度とここに戻ってこない。誰も怪我せずに済む」 「お前がやろうとしてるのは強奪だぞ、後でどうなるか……」 「それを解決するのは俺じゃなくてデミアンだ。その銃を床に置いて」  ゆっくりと腰を屈めたビーデンが、一瞬ぴくりと肩を揺らす。充血した目が、略奪者を飛び越して焦点を絞る。フランクの頭が異変を察知したのがその瞬間で、肉体が反応したのは、背後から獣が喉奥で唸るような音が聞こえてきた時のことだった。  振り返って部屋の隅で見つけたのは、もちろん獣ではなかった。ぼろぼろになった毛布の上で四肢を縮めた姿は、大型犬くらいの大きさでしかなかったが、確かに人間なのだ。身に纏っている糞便のこびりついたムームーと同じくらい貧相で薄汚い、顔一面を覆う白髪を縫うようにして、その老婆はフランクを真っ直ぐ見据えていた。自分の息子を傷つける人間を、母親は決して許さないだろう。  薬物中毒患者特有の鋭さで、ビーデンは隙を突く。脱力していた奴の右腕に力がみなぎり、持ち上げられたことは、見ずとも分かった。不思議なことに、フランクはそのろくでなしへ怒りを覚えなかった。もしも腹を立てるとしたら自らの間抜け具合についてだった。結局その感情もしっかり味わうことなく、心は諦めへと向かう。おそらくその場にいる誰もが分かっていただろう。老婆へ向けられた銃口から、弾が飛び出すことは決してないと。  一体どうなってんだ、とフランクは内心歯ぎしりした。出所して以来、まるでうねる波の如く寄せては返すこの無気力は。以前は決してこんなことがなかった。誰にでも、何にでも、怒りは容易く掻き立てることが出来た。だからこそ死なずに来れた。自らを生かすことに勤勉であり続けられた。  俺もヤキが回ったのか、との可能性へ思い至ることですら、何と苦しいことだろう。フランクは断固として認めるつもりがなかった。ようやく怒りが湧いてきた。これまで彼を駆り立てて、そして破滅させてきた怒りが。  ありったけの感情を込めて振り返るまでもなかった。フランクが背筋を伸ばそうとしただけで、背後の気配が動く。  2度目の銃声が、間違いなく周辺住民をそれまで嫌っていた官憲へ掌返して縋りつかせる音が、低い天井に挟まれた空間を貫く。「くそ……」ビーデンの悲鳴は続く3発の発砲で砕かれる。割れた窓ガラスから覗くジーンズ履きの脚は根が生えたかのようだったのに比し、拳銃を両手で突き出す腕は一向に止むことなく震えていた。  頭をザクロのように吹き飛ばされた息子がその場で膝を突いた瞬間、老婆は狂犬じみた叫びと泡を口からまき散らしてフランクに飛びかかろうとした。伸びた爪が白く透き通る、子供の骨のような色できらりと輝きながら振り下ろされ、宙を切る。彼女の腰へ強固に結ばれたザイルが、限界まで伸びて低い音を立てた。  彼女を殴り倒すことはせず、代わりにフランクは投げ出されたビーデンの手から拳銃を蹴り飛ばした。これと棚の中の拳銃を全て、鍵の掛かっていないキャリーケースへ放り込む。その間、老婆はずっと暗がりから這い出ようと、骨ばった指でコンクリートの床を掻いていた。  老婆の戒めを解くことなく、フランクは家を後にした。地下室を覗くことの出来る裏庭へ回ったとき、そこにはもう守護天使の姿は見えなかった。  ヤゴは先に車へと戻っていた。例え運転席のドアが閉じてあったとしても、膝へ無防備に乗せられたままのケル・テックは、通りかかる全ての人間に見咎められたことだろう。  外界へ立ち塞がるように扉へ腕をかけ、フランクは車内を覗き込んだ。ヤゴは口を開かない。拳銃を取り上げられても、助手席へ移るよう促されても。キャリーケースを放り込んだトランクが閉まるとき、乱暴に上下した車体と同じ動きで肩が揺れる。  国道60号線沿いにあるモーテル6までの30分、フランクはありとあらゆることを片づけることが出来た。本日の投宿先を選ぶことから、カマルゴのスマートフォンへ折り返すよう留守番電話を残すこと、スーパーで飯と酒を調達した後は、自腹を切って車のガソリンを補充してやることすらした。  後残っていることと言えば、ヤゴに先ほどの礼を述べること、そして明日まで何の波風をも立てないことだけだった。  最初の課題を、フランクはチェックインしてすぐに成し遂げようとした。

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